第一章:生きながらにして死んでいる、という健康状態について
生きながらにして死んでいる。
それは比喩ではなく、診断名に近い。体温も脈拍も正常、血液は教科書どおりの赤で、臓器は新品同様に光沢を保っている。それでも僕は死んでいる。政府のデータベース上では、僕は死体と同じ棚に収められているらしい。保存状態がいい、という但し書き付きで。
僕の名前はイチロウ。どこにでもいる序列なしを、だいたい一カ月ほどやっている。
序列なしになるのは、成人と同時だ。二十歳の誕生日にケーキを食べる前か後か、そのあたりで決まる。僕の場合は、ロウソクを吹き消した直後だった。肺活量は標準、吹き方も丁寧。けれど結果は変わらない。脳内の演算装置が静かに計算を終え、僕という存在を総合評価した末に、不合格の判を押した。
それは雷鳴のようなものを想像していた僕の期待を、ひどく裏切る出来事だった。実際には、冷蔵庫の奥で氷が割れる程度の音しかしなかった。人生の区切りというのは、だいたいそんなものだ。
この世界では、生まれた瞬間にほとんどの身体が交換される。骨も筋肉も血管も、必要最低限の有機物を残して人工物に置き換えられる。人類は長いあいだ病気という名の幽霊屋敷に住んでいたが、ナノマシンという徹底的な掃除人を雇ってからは、随分と快適になった。
体内に植えつけられたナノマシン群は、僕の中を忙しなく巡回している。赤血球のふりをしたり、白血球の真似をしたり、時には警備員のように不審な細胞を排除したりする。彼らは優秀で、忠実で、そして感情がない。少なくとも、感情を持つ必要がないように設計されている。
脳内には、爪の先ほどの演算処理装置がある。僕の思考、感情、ホルモン分泌、欲望の兆候までを数値化し、政府に送信する装置だ。僕が悲しいと思う前に、その悲しさはグラフになっている。僕が怒る前に、怒りは警告色で点滅する。
そして二十歳。二十年分のデータをまとめてミキサーにかけ、滑らかになったところで注がれる先が「序列」だ。
序列持ちは欲求を持つ。空腹や性欲だけでなく、承認欲求や支配欲、愛情欲求といった厄介なものまで含めてだ。彼らは欲望を発散することで、健康を保つ。ストレスは万病のもとだから、政府はとても親切に、彼らのための発散装置を用意している。
それが、僕たち序列なしだ。
序列なしは人ではない。公式には「ストレス発散機能を有する対人型資源」と呼ばれる。人権という言葉は、マニュアルのどこにも出てこない。代わりにあるのは耐久値と回転率だ。僕の身体は新品同様だが、使われ方次第で消耗する。だからこそ、定期的にメンテナンスされる。皮肉なことに、序列持ちよりも健康状態は良好だ。
精神制御プログラムが僕の中にはある。人を襲わないように、逆らわないように、逃げ出さないように。例えるなら、牙を抜かれた犬だ。いや、違う。牙を抜かれたことに気づかない犬、が正しい。
最初の数日は、何も感じなかった。感じないように制御されているのだから当然だ。けれど一週間ほど経った頃から、奇妙な違和感が生まれた。胸の奥に、小さなノイズが走る。ラジオの周波数が微妙に合っていないときの、あのざらつき。
ナノマシンは異常を検知しなかった。演算装置も沈黙していた。つまりこれは、データにならない何かだった。
ある日、配給施設で一人の女性に出会った。序列持ちだ。白衣のように清潔な笑顔をしていた。彼女は僕を見ると、少し首を傾げて言った。
「あなた、目が死んでるのに、なんでまだ立ってるの?」
その言葉は、胸のノイズをはっきりとした音に変えた。ガラスにひびが入るような、乾いた音だった。
その瞬間、僕は理解した。
生きながらにして死んでいる、というのは、
死んでいることを自覚していない状態のことなのだと。
そして自覚してしまった死体は、もう以前と同じ置物ではいられない。
これは、健康すぎる世界で、
不健康な違和感を抱いてしまった僕の話だ。
まだ助走だ。
ええ、ずいぶん長い。




