秋:花は花、人は人、我は我。 (コバルトセージ)
最終回です!
写真の下、最後だと思ってついつい語っちゃってます。
こんな言葉でも誰かがラクになってくれるといいなー、とか高望みしてるから、そのままupはするんですが……
なんか恥ずかしいので、
写真みたらそのままブラバしてくださって全然かまいませんよ!
これまで、たくさんの感想や応援、レビューをいただき、とても励みになりました。
おかげさまで、身の回りの物事をゆっくり見つめ、楽しむ贅沢な時間をいただけた1年でした。
感謝しております。どうもありがとうございます!
今年もコバルトセージの季節がやってきた。
すくすくと良く伸び、ついには通路まで細やかな緑で覆われて風に揺れるさまを、夏の間から満足して眺めては、
「この道を、あの青い小さな花たちをかきわけて、揺らしながら通るのは楽しいぞ」
と、期待して秋を待っていたのである。
だが、ある日。
無惨にも、通路に伸びた茎がスッキリと刈り取られていた。
夫の仕業である。
…… ああ。
そういう人だったわ。
気を利かせてしたに違いないことが、大体において、私の望む方向の真逆という。
しかし少しでも文句を言おうものなら、
「せっかくやってやったのに、文句ばっかり言うなや」
と、逆ギレするのも知っている。
『うんうん。未だ少年の心を有したキミは、 "せっかく気を利かせて、お手伝いしたのに怒られた! ぴえん" ってなるのだな。
これに関しては、5歳児くらいと思って接するしかないよね』
悟ったのはいつのことだったか……
そして妻は 『こんなヤツと上手く暮らしていけるのなんて、私くらいのもんだよね』 とすっかり現状に胡座をかき、悪妻へと進化するのだと思う。
上手く暮らしていく以上の努力をして、優しく美しく向上心のある申し分のない奥さんでいてほしいなら、夫よ、まずお前が自省して超絶素敵な夫になってみろ、って話だ。
―――― ごめんなさい。
つい、ダラダラと愚痴ってしまいました。 ――――
ともかくも、刈り取られたセージは、供養のために、まとめてお風呂にインした。
ぽっかぽかで良い香りがする薬草風呂である。
胃腸の不調に効果がありそう。なんとなく。
そして夫にニコニコと釘を刺す。
「来年からは、花が終わるまで待ってね? 楽しみにしてるんだから」
―――― しかし、たぶん来年も、夫は忘れて刈り取り、私は 「ちっくしょー! 油断した!」 とか叫びながら、大量のセージをお風呂につっこみ、 「これはこれで、まーいっか」 と、なんとか機嫌を直して夫に同じことを言うのだろう。
来年も、再来年も。
枯れなければ花は咲くし、生きていればまたその花に出会えるし、それを共に見る人・見せたい人のひとりでも、現実にでなくても心の中にでもいれば、じゅうぶんじゃないかと、この頃思う。
そして、ひとりで花に向かう時には、花はある時は語りかけ、ある時はこちらの声に耳を傾け、ある時は心を映す鏡のようでもある。
こちらの思い通りに、ではない。
花は花のありたいようにあるだけだ。
人は人のありたいように、
我は我のありたいようにあればいい。
そうあれる時にこそ、誰も決してひとりにはならないのではないだろうか。
花は花、人は人、我は我。




