春:オダマキ
庭のある家に引越してきた時、都会育ちの私は田舎育ちの夫に言った。
「土いじりとか大嫌いだから、庭の手入れは任せるよ」
「おう、ええで」
だがしかし。
夫にとっての庭の手入れは 『植える+水やり』 一択。
雑草取りは? 落ち葉かきは?
夫の頭には最初から無かったらしい。
しかし、『植える・育てる』 は庭仕事のほんの一部の、一番楽しいところであって、実は、庭の手入れの大部分は、選択と殺戮である。
選ばれた植物のために他の植物を大量に抜き、虫を殺す。
慣れないうちは、雑草一本抜くのにも、青虫1匹踏むにも、めちゃくちゃ躊躇した。
彼らとて生き物であるからには、生を全うする権利があるのではないか、何の権利があって人間がそれを奪えるのか。
だが、それでも仕方なく続けていると、わかることがある。
1本の雑草、1匹の虫は弱い存在だが、彼らは種としては、人間に負けることは絶対に無い。
おそらくは、遺伝子的な計算の中に、大量殺戮されることすら織り込み済みなのだろうと思う。
ならば、小さい、弱いと憐れむことこそが人間の傲慢さなのかもしれない。
そして大量殺戮されることを遺伝子に織り込んで生き残り戦略を立てている種もあれば、一方で、人間の性質を利用して保護されることで栄えようと企む種もあるのではないだろうか。
オダマキ。
世界に70種類ほどもあるそうだが、八重咲き、オリガミ、風鈴咲きとそれぞれに、全く別種の花のような趣を見せる。
(写真は 『オリガミ』 に似ている)
前の住民が残した中では、珍しくも私が存在を覚えている花。
枯れもせず広がりもせず、常にひっそりと控えめな子である。
だが、咲く時期になるとつい、考えてしまう。
―――― どこまでが自然で、どこまでが計算か。




