28.危険な香り
「ま、待ったあ!ストップー!!」
私に寄りかかるようにして、首筋を撫でていた真理亜ちゃんの指がぴたりと止まる。
「……どうして?」
真理亜ちゃんはさも不思議そうに首を傾げて呟いた。
「ニ、ニエになるかならない以外にまだ残っているものが……あるんじゃないかと」
「まあ……、何かしら」
さっぱり分からないわと言いたげな表情を浮かべて、真理亜ちゃんの細い指が再び私の首筋をそろりと這い回る。
「そ、それは……その……」
中々言い出せない私に、真理亜ちゃんが追い打ちをかける。
「ほら、何が残っているのか早く教えて頂戴。私には見当もつかないんだから」
言葉ではそう言いながら、次第に口元を弛めていく真理亜ちゃんは明らかにこの状況を楽しんでいる。
(うう、分かっている癖に。意地悪なんだから)
その魅惑的な眼差しからして、既に何が残っているかなどお見通しなのだろう。むしろ、こうなることを予想して、わざとご褒美などと言い出したに違いない。真理亜ちゃんなら十分にありえる。無条件に優しくしてくれるからといって、油断は大敵なのだ。
「私が有栖のニエになってもいいし、有栖が私のニエになってもいいのよ。有栖が私のニエになったなんて馨お姉様が知ったら、どんな顔をするかしら。ふふ。見ものだわ」
真理亜ちゃんの言葉が現実になったら、と思いかけて馨お姉様の激昂する様子がちらりと脳裏をかすめた。そんなことになったら、まず間違いなく、今までの平穏な女学院生活は終わりを告げる。細かく言えば、今の状況も平穏とは言い難いが、これ以上、人間世界から離れるのだけは遠慮したい。
「っ……」
今度こそ観念して、口を開く。
「私の……私の血を真理亜ちゃんにあげる、から……だから、その、ニエになるとかならないとかいう話はまた別にして……」
「ふうん。有栖が私に血をくれるの」
真理亜ちゃんの指がすっと私から離れた。
「う、うん」
視線を逸らして頷くと、真理亜ちゃんは密着させていた体を離して体勢を整えると、ついでに半歩後ろに下がった。ほっと息を吐くも、堂々と腕を組んだ真理亜ちゃんが高圧的な態度で私に向き直る。
「じゃあ、おねだりして。私に有栖の血を飲んで欲しいって……とびきり可愛く、ね」
「!」
(と、とびきり……可愛くってそんなこと……)
真理亜ちゃんの無理難題に視線を泳がせると、真理亜ちゃんは腕組んだ姿勢のまま、とんとんと人差し指を動かして自身の二の腕を催促するように叩いた。
「ほら、休み時間が終わっちゃう。早くしないと、気が変わって有栖をニエにしたくなるかも」
「……っ」
私はぐっとこぶしを握った。
「わ、私の血を……飲んで。真理亜ちゃん」
必死に絞り出した懇願も、真理亜ちゃんはお気に召さないようでゆるりと首を傾げた。
「どうしようかしら」
かあ、と頬が熱くなる。もう、どうにでもなれ。そんな気持ちで羞恥心を振り切り、私は声を絞り出した。
「っま、真理亜ちゃんに私の血を飲んで……き、気持ちよく、させて欲しいの。お願い……」
言い終えた後に不自然な沈黙が訪れる。真理亜ちゃんがごくりと唾をのんだのが分かった。恥ずかしさに消えてしまいたくなる。
「……有栖にしては上出来よ」
真理亜ちゃんがかすれた声で呟いた。どうやら捨て身のおねだりは成功したらしい。まともに真理亜ちゃんの顔を見れないでいると、真理亜ちゃんは強引に私を個室へ引きずり込んだ。
カチャリ、と後ろ手に鍵を閉められた狭い密室で、私と真理亜ちゃんは互いの身体を密着させながら、緊張と興奮から互いに荒い息を繰り返した。女子トイレの個室に二人きりで視線を絡ませ合うこの非日常的な行為に口から心臓が飛び出そうなほど、どきどきしている。
「このまま私のニエにしてしまいたくなるわ」
真理亜ちゃんが吐息混じりに本気とも冗談ともつかない言葉を切なげに呟いた。
「そんなっ」
慌てる私に、真理亜ちゃんはいつの間にか赤く色づいた瞳を私と交錯させた後、合図もなしにいきなり私の首筋へと顔を埋めた。
「い、……っ!!」
鋭い痛みが首筋に走る。
「声を出しちゃダメよ」
真理亜ちゃんの手が私の口をやんわりと塞いだ。
「ん、んんっ………!」
人気のないトイレとはいえ、私達みたいに誰かが来ないとは限らない。極力、声を出さないようにと思いながらも、首筋から血をすする真理亜ちゃんの嚥下音が間近に聞こえて、体が火照りだし、喘ぎ声が漏れる。
「や、……っあ………ああ……」
首筋を刺されたときの痛みはとっくに忘れてしまった。今は真理亜ちゃんから与えられる強烈な快感に心と体を震わしながら、意識を保とうとするのが精一杯だ。気を抜けば、すぐにでも大きな波にのまれてしまいそうで、どうにか、それが押し寄せてこないように唇を噛み締めて耐える。
これでも、ずいぶん、最初の頃より吸血される行為には慣れた。今では馨お姉様から定期的に血を貰う代わりに、私もまた自分の血を馨お姉様に捧げるのが習慣となっている。馨お姉様の吸血は、とにかく何と言ったらいいのか、普通では考えられないほどの大きな快感の波が一瞬で私の意識を遠くへ押し流してしまうので、こうして抗う暇も与えてくれない。真理亜ちゃんの吸血は勿論、気を抜いたらすぐにでも意識を手放してしまいそうな強烈なものだが、馨お姉様と比べると、まだどこかに優しさがあるような気がする。
(私ったら、また……)
押してはひく波の瀬戸際に立たされながら、嫌でも真理亜ちゃんと馨お姉様のことを比べてしまう。
「ん、美味し………」
真理亜ちゃんの舌が急に動いて、くすぐったさに身をよじると真理亜ちゃんが笑ったのが分かった。
「やめ……っ…あ……!」
真理亜ちゃんの舌が蠢いている。私の傷口に吸い付きながら、その舌でもてあそぶように敏感になった周辺をなぞる。声を抑えていられない。
そのとき、バタン、と扉が開いて誰かが女子トイレに入ってきた。真理亜ちゃんが顔を上げて、私と視線を合わせる。
「しっ」
真理亜ちゃんは私の口に手を被せたまま、息を潜めた。蛇口をひねる音がして、水が流れ出る音が響く。個室に入る気配はないことから、どうやら水場を使いにきたらしい。心臓がばくばくと激しく動いているのが分かる。こんなところをもしも、誰かに見られたらと思うと、気が気でならない。
(お願い、早く行って!)
今すぐに入ってきた誰かがその扉を開けて出て行ってくれる姿を想像する。だが、一向に水が止まる気配はない。何かを洗っているのだろうか。すると、息をひそめていた真理亜ちゃんがもぞりと動いた。
(……?)
何をするのかと思っていると、彼女はもう一度、私の首筋に顔を近付けた。
(ま、まさか…!)
押しのけるより早く、真理亜ちゃんが私の首筋に吸い付く。
(……嘘っ!真理亜ちゃんってば、こんなときに……っんん!)
真理亜ちゃんの手が私の口を強く抑える。おかげで、声が漏れることはなかったが、真理亜ちゃんが退いてくれない限り、安心はできない。真理亜ちゃんの舌が、私の傷口を優しくつつく。
「……っ!」
ふるふると涙目になって震えながら、真理亜ちゃんに抵抗する。真理亜ちゃんはちっとも顔を上げようとしない。そのうち、蛇口が閉められる音がして、水が止まった。物音ひとつしない沈黙に、心臓が縮み上がる。この状況で声を上げたら、一巻の終わりだ。それなのに、真理亜ちゃんは悪戯に私の首筋を舐め上げる。一瞬、真理亜ちゃんと目が合うと、彼女は口紅をひいたみたいに真っ赤な唇をして不敵な笑みを浮かべていた。
「………っ……!!」
そのうち、上履きのきゅっきゅっという床を踏み鳴らす独特の音がして、扉が開き、閉まった。ほっとして、肺にため込んでいた空気を全て吐き出す。それから、きっと真理亜ちゃんを睨みつけた。
「もうっ、真理亜ちゃんってば酷いよ!」
真理亜ちゃんは口の端をにやりと上げた。
「なかなかスリリングだったわね。興奮したでしょう?」
私はまさか、と力強く首を横に振った。
「意地っ張りなんだから、有栖は」
真理亜ちゃんが肩をすくめる。そうこうしているうちに、休憩時間の終わりを告げるチャイムが鳴り始めた。
「あら、時間切れね。有栖がおねだりするのが遅いから、いいところでお預けをくらったじゃない。この続きは勿論、してくれるのよね?」
「う、……学校では無理だよ!」
真理亜ちゃんが個室のカギを開けて、私を外へ連れ出す。
「じゃあ、帰ってからのお楽しみにしておくわ」
そう言うと、真理亜ちゃんは蛇口を開けて、流れ出る水に触れた手で、私の傷口に付着した血を拭った。鏡に映る首筋は血を洗い流してしまうと、もうほとんど目立たなくなっていた。これなら、絆創膏を貼る必要もない。私は真理亜ちゃんに続いて、女子トイレを出た。
*
教室に戻ると、まだ次の授業の先生は来ていなかった。先生が現れないのをいいことに、クラスメイト達は席に着いたまま、お喋りを続けている。
「お帰りなさい」
席に座ると、早速、後ろから玖珂さんの声が飛んだ。真理亜ちゃんは何も答えない。返答をあぐねていると、玖珂さんが急に目を閉じて、深呼吸でもするかのように鼻を動かした。
「この香りは……」
呟かれた言葉に、心臓が飛び跳ねる。私は無意識にそっと首筋へ手をあてた。
(そうか。ヴァンプって匂いで分かっちゃうんだ)
目を開けた玖珂さんはじいっと私を凝視してから、ゆっくりと口角を上げた。
「……なるほど。そういうことでしたのね。真理亜ったら、自分だけお腹を満たしてくるなんて、ずるいですわ」
真理亜ちゃんが後ろを振り返らずに口を開く。
「ずるいもんですか。あなたも自分のニエを持てばいいことよ」
真理亜ちゃんの発言に、もしや誤解を招くのでは、と彼女を見ると、真理亜ちゃんは何も言わずに片目をつぶった。どうやら真理亜ちゃんのニエということにしておいて馨お姉様からカモフラージュしてくれる算段らしい。
「つまるところ、あなたが真理亜の秘蔵っ子ですのね。鄙乃としたことが、ご挨拶が遅れてごめんなさい」
玖珂さんは真理亜ちゃんから私へ視線を移すと、途端に人当たりのよさそうな人懐っこい笑みを浮かべて言った。
「あ、いや、こちらこそ」
急に好意的な視線を向けられて、こちらも思わず笑みを返す。
「お名前を聞いても宜しいかしら」
ちらりと真理亜ちゃんの方を見るが、真理亜ちゃんはもう我関せずというように黙々と教科書を読んでいた。
「……星野有栖です」
おずおずと名を名乗ると、玖珂さんは微笑みをそのままに、可愛らしく小首を傾げた。
「鄙乃も真理亜みたいに有栖と呼んでも宜しくて?」
「も、勿論ですっ」
こくこくと頷きを繰り返すと、玖珂さんは西洋人形みたいにうっとりするほど愛らしい笑みを零した。
「ふふ。真理亜に話すように、気楽に話して下さって構いませんわよ。鄙乃のことは親しく、鄙乃ちゃんとでも呼んで下さいな。それに、有栖は真理亜のお気に入りなんですもの。鄙乃に対しても、堅苦しく話して下さらなくて結構ですわよ。親友のお友達は、鄙乃にとってもまた親友ですもの」
玖珂さん、もとい、鄙乃ちゃんは私が真理亜ちゃんのニエだとすっかり思い込んだようで、真理亜ちゃんにするみたいに親しげな口調で言った。
「鄙乃の親友になった覚えは一度たりともないわ」
横で教科書を読んでいたはずの真理亜ちゃんが、鄙乃ちゃんの発言をしっかりと聞いていたようで、ぴしゃりと彼女の言葉を否定した。鄙乃ちゃんは、全く動じる様子もなく、「照れているんですわ」と自信満々な笑みを見せた。
「はは……」
(この調子で何とかバレずにいられるといいんだけど)
そんな二人を目にしながら、奇妙な三角関係が始まりそうな予感に、私は乾いた笑いを漏らすしかなかった。




