第五十九話 エピローグ1
――72時間後。
大広間は人で埋まっている。
糊で固めたような裃と儀礼用の黒烏帽子。前列に居並ぶのはフツクニの重鎮たる老中たち。それに続いて文武の高官、奉行衆やフツクニに属する豪族たちなど。
最後列には朱い着流し、ベニクギである。彼女だけは立っており、王と対等であると示すかに思える。
「皆、よく集まってくれました」
一段高い場所には、白い装束。
だがそれは無味乾燥な白ではない。卵の殻を削って作る芸術品のように、太さの違う白糸を撚り合わせて作る絹の着物。体を飾るのは輪のような金の冠と軟玉の首飾り。
けして色彩豊かではないけれど、穏やかな仕立てに上品さだけを残すヤオガミの真髄である。
「ヤオガミ八十八州を覆った謀略の霧はまだ深く、豪族衆との間に刻まれた溝は深いものです」
ベニクギ以外の全員、深く頭を下げつつ傾聴する。
中には驚いている者もいた。まだ10になるならずの年頃ながら、声に深い落ち着きと知性がある。ずっと聞いていたくなるような安らぐ響きもあった。
「どのようなことがどこまでたくらまれていたのか、私は早急に調査するべきと感じています」
また何人かは戦々恐々としている。
それはかなり早い段階から埋衆に通じていた高官たち。
埋の解体は当然として、果たして自分にまで累が及ぶのか。領地の没収や減封はあるのか。まさか投獄や流刑が。そんなことしか考えられぬ状態にある。
「私は二つのことを提案いたします。まず一つ、先の御前試合の際、豪族衆との間で交わされた賭け事はすべて無きこととし、移動した金子と刀剣類は、その全てをフツクニの金蔵よりの支出で贖うこと」
声には出さぬながら、背中にじわりと汗をかくものもいる。それは天文学的な額になると想像できた。
「もう一つ、事態の全容調査と回帰のために専門の部署を創設し、埋衆をそこに加えること」
ざわ、と、さすがに抑えきれぬ声が上がる。
クロキバとユーヤとの決闘から72時間。
ようやく事態を掴みかけてきた者によれば、どうやらクロキバには人ならざるものが憑いていた。クロキバと埋衆はズシオウを傀儡とし、この国の実権を握るつもりだった。ようやっとそこまでの理解が共有された頃である。
「ズシオウ様、恐れながら」
顔を上げるのは老中の一人、その人物はいかにも国の重鎮であるとの自負が皺に刻まれており、有り体に言えばズシオウに食ってかかる気配があった。こんな進言は心外だが仕方がない、という態度で言う。
「かのクロキバは国を割らんとした大罪人。先の将軍、クマザネ様の死にも深く関わっていると聞き及びます。埋衆こそが国難の基であるとの声も多く。いみじき旧弊なれど、切腹を申し渡すのが適当であると心得ます」
「そのクロキバに同調した家臣は多かったようです」
平身低頭した人々、その何割かが身をすくませる。
「私はそれを高く評価しています。クロキバがそのままフツクニを牛耳っていたならば、あるいはヤオガミの統一は成され、大陸とも互する国力をつけていたやも知れません」
「な、なんと」
「ただ、クロキバには足りないものがありました」
ズシオウは天井を見つめ、木彫りの面を少し押さえて言う。
「人というものを侮った」
言われて、老中はしばし固まる。
「そ、それはどういう」
「あれは模倣という異能を持っていました。それゆえに人間と、その社会のすべてを分かったつもりになっていた。自分に理解できない存在などいないと思っていたのです。誰を仲間につけられるか、誰は無理なのかを最初から分けていた。だから胸襟を開き、全身全霊で説得することもしなかった。それではトウドウやベニクギなど、真の強者は味方になってくれない。そして、自分よりも強い相手に勝つこともできない」
言葉を聞くうち、老中は奇妙な違和感にとらわれる。部屋が段々と広がって、ズシオウが遠くにいるように感じる。しかし声は変わらず届いてくる。
ズシオウの気配に呑まれていたのだと、そう自覚できたのはだいぶ後のことである。
「首謀者であるクロキバのみは幽閉とします」
何かに赦しを与えるようにつぶやく。
「また、埋の行ってきた工作活動、暗殺などを禁じる法を制定します。今後の埋は諜報活動のみを役目とし、特別な服装も、特殊な道具を持つこともない組織へと生まれ変わります」
おお、と、後方からいくつかの声が上がる。老中は顔に脂汗を浮かべる。
「か、間者を置かぬと言われるのですか」
「後ろ暗い行いは、いつか露見します」
ズシオウの声は揺らぐことなく、その考えが間違いなく実行されるという予感をもたらす。
それは奇妙なことだった。まだ幼少とすら呼べる人物の言葉が、ひとかどの統治者の重みを備えるとは。
「暗闘の夜は過ぎ、やがて黎明が訪れる。新しい時代とは、新しいやり方で勝ち取った時代であるべきです。私は、私の統治する時期のうちにヤオガミの統一を目指します。ただしそこには刀もなく槍もなく、謀もなく、密約も凶手も裏切りもない。誰もが納得の上で一つになる。そんな統一を、そんな世界を目指したいのです」
老中たちはズシオウの言葉に目を白黒させるも、不思議な説得力も感じていた。
そこには皮肉にも比較があった。先の将軍の語っていた開国論とはまるで違う。はっきりとした展望の見えている言葉だと認識させられる。
ズシオウもそれを意識する。すべて捨て鉢ゆえの発言だったとはいえ、クマザネと比較することで己の言葉に重みが出ている。そこに大いなる皮肉を感じる。
「――感服いたしました」
数名の老中たちが膝を進ませ、畳に鼻がつくほど頭を下げる。
「白無粧の時期にある人物をあまり見てはならない。そのような決め事ゆえに申し上げておりませなんだが、ズシオウ様の非凡なることは常々感得しておりました。そうでなくば、ロニを配下に持つなど叶わぬことです」
「フツクニは未だ国難のさなかとはいえ、埋を活用する勇気が持てませなんだ。しかし、そのあり方を変えてしまうとは、まさに余人とは一線を画す発想にございます」
「新しい時代、やはり心沸き立つ言葉にございます。我々も及ばずながらお力添えいたしましょうぞ」
ズシオウは、横一列に並んだ老中たちを見て思う。
彼らの言葉は真実だろうか。
どう転んだとて、今はズシオウを神輿として担ぐしかないだろう。
ならば褒めちぎって平伏し、フツクニの団結を図ったほうが得策ではないか、そのような打算的な考えがあっても不思議ではない。
(……真実など、分からないものです)
人は揺れ動き、定まらず、真実すら変わっていく。
その中で自分は何を信じ、どのように生きるべきか。
それはまだ見通せない。時代のうねりという巨大なものに、自分もヤオガミも翻弄され続けていくだろう。
だが、戦える。
そんな気がする。こうして己にかしずいてくれる人々と、ベニクギがいるから。
「ではズシオウさま、当面は溝の深まった豪族たちとの交渉ですな。戦は回避する方針で……」
「そうですね。その前に、ナナビキどのとフツクニの関係も白日のものとなったことですし、ナナビキどのを水軍奉行として城に迎え入れたく思っていますが……」
その時。
広間の脇にあるふすまがそっと開かれ、小姓が現れる。
「申し上げます」
「何だ、あとにしろ」
「……で、ですが、ズシオウ様からどんな時でも必ず報告しろと」
がた。
いきなりズシオウが立ち上がり、その小姓のもとへ行く。脇に控えていた太刀小姓が驚いて目をまん丸にした。
「ユーヤさんが起きたんですね!」
「は、はい、今しがた」
ズシオウは冠を脱ぐとその小姓に預け、絹の綾織の裾を持ってばたばたと出ていく。
「すいません皆さん! あとはお願いしまーす!」
そしてズシオウが出ていって。
その場の全員が、15秒ほど硬直する。
「え、ええと……」
「い、いろいろ話し合わねばならぬことが」
「と、ともかく話せる範囲で会議を進めよう、のう、ベニクギどの」
そうかベニクギが後ろに、と思って全員が後ろを見ると。
そこにもすでに彼女はいない。
※
綿の重みの中で目を覚ます。
上等な布団だ、最初に意識したのはそんなことだ。
脇にはメイド服の女性と、翠のタイトワンピースを着て柿を剥いている人物がいる。柿の可食部分があまり残ってない。
「ユーヤ様、お目覚めですか」
「ええっと……そうか、あの時に気絶しちゃって」
「やれやれ、やっと起きたか、まったく仕方ないのうユーヤは」
柿と小刀を脇にずらし、膝を進めてくるのはユゼ王女。ユーヤは目をそらす。この王女はタイトワンピースで正座するという意味が分かっているのか、たぶん分かっている。
「毎度毎度ぶっ倒れおって、もうそんなにウケんぞ」
「別にギャグでやってないけど……」
上半身を起こす。空気を着ているような柔らかい襦袢。よく見ればフツクニ市街の宿ではない。おそらく白桜城の一室か。
「おぬし三日も寝ておったぞ、よほど神経を消耗したようじゃな」
「三日……そうか」
「栄養はちゃんと医師が処置しておりましたので、ご安心ください」
カル・キはそう言って腕を指差す。見れば腕に注射痕がある。この世界なら栄養点滴ぐらいはあるだろう。なかなかに細い針で的確に打ってあるな、と、なぜか経験豊富そうな感想が出る。
「もちろん下の方もちゃんと」
と、なぜか親指を立てて言う、銀髪美女なメイド。
「あ、ありがとう……ユゼはやってないよね?」
「うむ、手伝うと言ったのじゃが、上級メイドから仕事を奪うわけにいかんからの、残念じゃ」
「本当だね? 絶対にやってないね?」
「そんな念を押すことないじゃろ」
そんなことはさておき、ユーヤは二人に問いかける。
「あれからどうなったの」
「試合を見ていたほとんどの観客が昏倒したのじゃ。二階席で見ていた我らも意識を失った。数分で目覚めたが、目を覚ますとクロキバが倒れておったな」
「城内はだいぶ混乱しましたが、三日経ってようやく落ち着いてきましたね」
「ヒクラノオオカミが出たことは聞いてる?」
「うむ、ベニクギに聞いておるぞ、神が死んだこともな」
だんだんと思い出してきた。ヒクラノオオカミが太刀を浴びた瞬間、それまでで最大の熱気と閃光がはじけ、ユーヤは意識を吹き飛ばされたのだ。
神の死。
言葉で言い表すにはあまりにも大きすぎる事態に、ユーヤもわずかに不安を抱く。
「そのことは公になったのかな……」
「ズシオウはいずれ公表したいと言っておるが、今は難しいじゃろうな。神の死などという事態。簡単に受け止められるものではない」
と、ユゼがにじり寄り、ユーヤの額に己の頬を乗せる。モチのように弾力があった。
「うむ、熱はないのう」
「この世界だとそういう測り方なの?」
「ううん、やりたかっただけ」
「めんどくさ……」
「ユーヤさーん!」
ばたばたと、部屋に入ってくるのはズシオウ。なぜかいつもの白装束より何倍も高価そうな生地を着ている。
ズシオウは文字通り布団に飛び込んで、ユーヤの首元にしがみつく。
「お目覚めになったんですね! もう私、ユーヤさんに万が一のことがあったらどうしようかと!」
「こ、こらズシオウ! 病人にいきなり何する!」
「ズシオウ……」
ユーヤはその小柄な人物を見て、申し訳無さそうな顔をする。
「すまない……クマザネ氏を生き返らせる予定だったのに」
「いえ、もういいんです」
ユーヤの膝の上で、そっと仮面を外す。ズシオウが人前で自発的に仮面を外すのは、正真正銘これが初めてである。ヤオガミの人ですら、その意味するところを知るものは少ない。
「生き返るなんて摂理に反しています。私も……父上のことがすべて受け止められたわけではありませんが、今は向き合える気がしています。私はこれから事態のすべてを調査するつもりです。父上に何が起きていたのか、どのように考え、私や他の人物のことをどう思っていたのか、すべてに向き合おうと思ってます」
「そうなのか……強いな、ズシオウは」
「いいえ……」
ズシオウは、それはやはり堪えていたものがあったのか、必死に陽気に振る舞っていたものが綻びたのか、その目の端に光が散る。
それでもなお、はっきりと目を見開いて言う。
「私はまだまだ弱いんです。何も知らない。何もできない。父上のことを分かってあげられなかった。助けてあげられなかった。だからせめて、これから一生、父上のことを覚えていようと思います」
「そうか……」
一人の王が世を去り、一柱の神が消えた。
それが何を意味するのか、ユーヤの想像するより事態は深刻かも知れない。
だから自分も向き合うべきか。神の死という事象に。まっすぐに。
「それでですねユーヤさん、ぜひヤオガミにとどまって政治のサポートをお願いしたいのですが」
「こらズシオウ」
割って入るかと思いきや、ユゼ王女も背中側から首にしがみつく。
「勝手なことを言うでない! ユーヤはパルパシアに帰って酒池肉林の日々を過ごすと決まっておるのじゃ!」
「決まってないけど!?」
ぎりぎり、と割と洒落にならない力で締め上げてくる。その時に気づいたが、ユゼもかなり力がある。
というより、ユーヤが純粋に力で勝てる人物がこの世界にいるのだろうか。赤ん坊ぐらいしかいなさそうだ。
「ちょ、ちょ、く、首が」
「パルパシアに帰ると言わねば絞め落とす」
「普通に脅迫!?」
カル・キやベニクギに視線を送るも、二人は普通に柿を食べていた。
「ユゼさんやめてください! ユーヤさんがまた気絶しますよ!」
「おぬしこそ手を離さんか! だいたい何じゃその安っぽい服は! 王族なら絢爛豪華なやつを着んか!」
「あ、ひどい! これ一着で一船関の」
「ユゼよ、そのへんにしておけ」
と、入ってくるのは蒼のタイトワンピース、ユギ王女である。
二人はまだ離れないものの、締め付ける力は緩めた。
「ユギよ、お前も協力してくれ、ユーヤを連れて帰る」
「うむ、まあ、その、協力はするが」
と、背後に視線を送る、自分のあとに続いていた人物を。
「ちと、面倒な客が来てしもうて……」
その人物。
入ってきた瞬間、部屋内のすべての人間がはっと驚く。それは意外さのためもあり、宝玉のような美しさのためでもある。
「――お久しぶりです、ユーヤ様」
その声も透き通っていて美しく、張り詰めた銀の糸のよう。
そしてユーヤの口からは、驚きの声が。
「君は……!」




