第五十七話
※
「何だ、今の早押しは」
巨大なリング状の観客席、その一角を埋めるのはヤオガミの豪族たちである。
彼らは国力も性格も多様であり、フツクニとの距離感も違う。今現在、白桜城に留まっているのはフツクニとの同盟を結ばんとしている人々である。
「分からぬ、だがクロキバが動揺を見せたぞ」
「あの男は何者なのだ。御前試合の優勝者なことは知っているが」
「セレノウのユーヤか……あの国には時おり、卓抜なる人間が生まれると聞くが……」
現状は、まさに猛追。
ユー79点 お手つき誤答91
クロキバ:94点 お手つき誤答60
「まだクロキバが圧倒的だ、このまま逃げ切れるはずだ」
「だ、だが今ので8問連続で取りおったぞ、この調子では」
クロキバが負ければどうなるのか。豪族たちもそれを想像せざるを得なくなっている。
豪族たちの理解では、この戦いはクロキバ派と反クロキバ派の戦い。反クロキバ派とはつまり、ズシオウを傀儡ではなく神輿に掲げる勢力と理解していた。
実際には、ユーヤとクロキバは互いに自分の身柄を賭けているだけであるが、政治的に起きることは大差ないだろう。
「どちらが勝とうとかまわぬ。いずれフツクニはヤオガミを統一するだろう。我らは同盟として名を連ねるだけよ」
「だが、すでに帰国した豪族たちは戦を起こすぞ。まだ白無粧の名代で戦えるのか」
「大戦に巻き込まれるぐらいなら、同盟など捨ててフツクニと距離を置いたほうが……」
「お歴々」
背後から声がかかる。
それは槍で刺されるような声だった。こわもての豪族たちに戦慄が走る。心の臓を掴まれるようなプレッシャーが。
「そ、その声は、イシフネどの」
「え、延州に帰ったとの噂があったが、も、戻っておったのか」
「左様、つい先刻、白桜に罷り越した次第」
豪族たちは左右を見る。護衛についていた剣客たちは物言わず座り続けている。気絶させられているのだ。
座席に限りがあるため最小限の護衛だったとはいえ、豪族たちに気づかれずにそれを排除する。フツクニの人間であったならロニの座についていたとも言われる、イシフネという男の凄まじさであろうか。
「い、イシフネ、何を考えている」
「我らを斬ると言うのか、大変なことになるぞ」
「我が殿は、戦を望んでおらず」
静かに告げる。豪族たちは振り返ることもできない。
「此度のことはクロキバという魔性の生み出した不測の事態。彼奴が負けたならば、すべてを事態の発生前まで戻す」
「すべてを……だ、だが、クマザネは死んだと聞いている。そなたの刀、朱鷺色耶壱も」
「形あるものはいつか失われる。それまでも戻すことは条理に反すること。戻すとはただ、戻ろうとする意思を持つこと」
「うぐ……」
「目を覚まされよ。此度の事態はあまりにも一人の人間が多くを動かしすぎている。クロキバという異能を除いて考えれば、ヤオガミの統一などまだまだ先のこと、絵空事に過ぎぬ」
「う、うむ……」
豪族たちから、毒気のようなものが抜けていく。
背中から熱水を流し込まれるように、体内のドロドロとした感情が、野心とか欲望とか、そんなものが溶かされて流れ落ちていく。
(……だが、この勝負)
イシフネは豪族たちの背中を見張りながら、戦っている二人にも意識を向けた。
(果たして、尋常に終わるものか……)
※
「つ、次の問題だ!」
観客の生み出す轟音が、もはや抑えようがない。
火のついた火薬のように衝撃が広がっていき、白桜の城までが震えるように思える。トウドウはもはや観客を鎮めるのを諦め、声量を高めて声を通そうとする。そしてセレノウのユーヤは確実に聞き取ってくる。
「月藻糊」
「3180メーキ」
「多年草」
「氷削海岸線」
(何という早押しだ)
トウドウですら興奮を隠しきれない。出題側として意識している確定ポイントよりもさらに半音ほど早い。
その半音。
縮めるためにどれほどの苦難があったのか。血を吐くような修練があったのか。ユーヤという男からはそれを感じる。この男の歩んできた、気の遠くなるような修練の道程が。
「なぜだ……!」
クロキバは歯噛みする。
あるいは運を天に任せる勘押しを行えば、あっさりと逃げ切れたかも知れぬ。
だが、彼もまた違うベクトルで戦っていた。ユーヤという男のすべてを観察し、何が起きているのか見極めようとしている。その驚愕の早押しを模倣しようとしている。
だが、見えない。
この異世界人が何をしているのか、どのような技術を使っているのか。
「なぜ見えない……! この私に、模倣できぬ技など」
それはクロキバなのか、それともハイアードの王子なのか。目を苦悶に歪ませ、ユーヤを凝視している。
「なぜだ、なぜお前は私の理解を超える。あの時も、今も……」
ユーヤの正解が積み上げられ、そして早押しの速度はますます早まるかに思える。
肉体的には脆弱であり、知力でもおそらく負けてはいないと思えるこの男に、なぜ己は負けるのか。
「クイズは」
ユーヤの言葉が、万雷の歓声を貫通して届く。
「クイズを愛さない者には、微笑まない」
「愛するだと……私はクイズにすべてを奪われた。お前も知っているはず。私の人生を、兄弟たちを」
「クイズに色はない」
それは本当に交わされた会話なのか、それとも意識だけが肉体を離れて触れ合ったものか。
そこにいるのはみすぼらしい男。
髪は乱れて、すり切れたシャツと固そうな生地のズボンを着た男。
対峙するのはハイアードの古典的礼装に身を包んだ、魂を抜かれるほどの美丈夫。
「クイズには善も悪もないんだ。君が見てきたのは悪いクイズの世界。それならば、その後の人生は善いクイズのために生きることもできたはず」
「できるものか。クイズですべてを決めるなど、しょせん摂理に反している」
「闘争で決めることが正しいとも言えない」
「人は争い合うものだ! それを変えられる訳がない!」
「……変えられるかもしれない」
ユーヤは。
この正体不明の男は、ただ悲しそうな目をしている。
言葉を尽くしても、きっと理解し合うことはできない。あるいはユーヤの語ろうとしているのは途轍もない妄想であり、自分はただの夢想家に過ぎないのではないか。その疑念は、やまない耳鳴りのように常にそばにある。
だが、それでも。
「何がこの世の真実かは、誰にも分からない」
真実だと思えても、掘り下げればさらに別の真実がある。問い続けることが人生なのだと。
「争いのない世界……。後ろ暗い陰謀も、目を覆うような悲劇もない世界、それが世界の真の姿だと皆が思える、そんな日が来るかも知れない。クイズ、それはなかなか良い提案だ。クイズは知恵の遊戯であり、他者とのコミュニケーションであり、探究心であり、この世のすべてなのだから」
「子供のような思想だ、そんなことが世界の真実であるはずが……」
そう言って。
礼装の人物は、ふと笑ってみせる。
それは強がりのようでもあり、哀れみのようでもあり、ごく単純に愉快な笑いのようでもあった。
「お好きになされば良いでしょう。私は異なる世界からあなたを見ていますよ」
「……」
「この世界には私の刻んだ傷がまだまだある。その傷口はやがて腐り、ただれて熱を持ち、毒々しい膿を吐くようになる。あなたがそれにどう立ち向かうか、楽しみにしておきましょう」
「ああ……僕はそのすべてと戦うよ、そして」
中央の司会者が、高々と手を上げて。
「また会える日を、楽しみにしてる」
「そこまで!!」
白日が戻る。
ユーヤは深い息をつく。体内の熱をすべて吐き出すような長い吐息。
「百点先取! セレノウのユーヤの勝利である!!」
歓喜の波濤。
すべての観客が立ち上がり、両腕を突き上げて喝采の声を上げる。
まさに劇的の極み、逆転不可能と思われてからの怒涛の連取。素晴らしい勝負だったと褒め称える声が、数え切れぬほど。
「鎮まれ!!」
声が飛ぶ。ユーヤの意識が吹き飛ばされそうになる。
全てではないが、その一喝で八割方の声がかき消される。信じがたい声量。叫んだのはクロキバである。
「勝負は決した。ならば約束は速やかに履行されるまでのこと」
「クロキバ、約束なんて……」
「はっ! これだけの戦いを経て、約定を軽んじるなどあってはならない! さあ聞け! 妖精よ! 天地にあまねく存在するこの世ならぬ羽音の主よ!」
観客は、その声に呑まれている。
何が起きているか誰も理解してはいないが、ただならぬ事態が進行していると分かる。
クロキバは両腕を大きく広げ、落ちてくる空を受け止めるかのように胸を張る。
「……見事でしたね、セレノウのユーヤ」
その声音が、ふと柔らかいものに変わる。一瞬で性別まで変わったかのように。
「これでほぼ全て元通り、私は妖精の世界に消え、クマザネは生き返る。私にとっては最大の勝利とは言えないが、最良の勝利ではあります。妖精の世界であの方とまた会える、それは何という無上の喜びでしょう」
唇が異様に歪んでいる。限りない高揚と悪意を同時に見せるような笑い。
「ふ、クマザネを生き返らせる、ですか。あの御方のこれからの人生を思うと、少なからず同情してしまいますね」
光が。
ユーヤがはっと気づく。発光する妖精が浮かんでいる。
上空に、城の石垣に、観客席の下に。それに気づいた人々が騒ぎ出す。
「おい、妖精が……」
「何だ? 試合の演出か?」
「いや、蜂蜜の匂いなんかしなかったが……」
「さあ我が手に鏡を! 生死の境目にひそむ蝶! 生命の流転を自在とする力を!」
――
「……?」
ユーヤは、ふと周囲を見る。
いま、何かが聞こえた。
かすかな、それでいて聞いたこともないような凄絶な響き、毒の息のような怨嗟にまみれた声を。
使わせない、という声を。
炎が。
ユーヤの指先が燃えている。あらゆる赤を含んだ華美なる炎が。
「……何だ、何が起きて」
赤が、吹き上がる。
円形の観客席すべてが燃え上がるような眺め。炎は竜巻となって伸び上がり、白桜の城に並ぶほども高くなる。
熱は感じない。だが炎の激しさに意識が揺れる。目の奥にまで炎が入り込むかに思える。
「ユーヤ、しゃんと立てえよ」
脇を持たれる。見れば緑の裳裾、ツチガマである。
「ツチガマ……どうしてここに」
「気配を感じたのよ。思うた通りじゃのお、あの時とよお似た気配よ」
「あの時……それはまさか」
「来たぞ!」
クロキバが、炎の中に佇んでいる。
その両手に包まれるのは溶かした真珠の輝き。この世ではないどこかを覗く窓にも似た輝きが。
「間違いない! 六角形の輝き! これがパルパシアの鏡だ!」
「まっ……待つんだクロキバ!」
「ユーヤどの」
すた、とユーヤの近くに降り立つのはベニクギ、彼女の赤い着流しもやはり燃えている。
「ベニクギ……いや、君はズシオウについててあげてくれ」
「拙者は気がついたら炎の内側にいたでござる。外に出ようとしても出られぬ。外界の景色は、まるで千里の彼方にあるような」
「……誰だ! 誰が私に話しかけている! 邪魔をするな!」
叫ぶのはクロキバ。その黒装束もやはり燃えている。
ふとトウドウの影を探すが、彼はどこにも見えない。
(……選択的に人を入れている? 僕とクロキバと、ベニクギとツチガマの四人だけ……?)
――鏡など、使わせぬ
「!」
今度ははっきりと聞こえた。聞こえると言うより、空間に大きな書き文字が描かれるような感覚。
現れるのは、狼。
10メーキあまりの巨体。老いて艶を失った毛並み。その四肢には力が入っていないが、それでも強烈な気配を放っている。どのような気配か言語化は困難であるが、端的に言うならば。
殺気。
「……は、ヒクラノオオカミか。なるほど、鏡の使用を阻止しようと言うわけか」
クロキバは目を細めて笑う。
「分かっているぞ、鏡の使用はお前たちの生命を削る行為だとな。だが、お前たちはすでに妖精の王に敗れた。あとはただ力を搾り取られるだけよ。消耗を忌避するあまり人の行いに介入するとは、恥を知るがいい」
――滅びよ。
狼の口から、炎が。
それははっきりと熱を持っていた。すべてを焼き尽くす紅蓮の炎。地面を溶融させながらクロキバに迫る。
「く……」
炎が、はじける。
「!」
驚愕するのは場の全員。神の吐いた炎が散らされている。
それは白い妖精、そして紫の光を放つ妖精。
「あれは! 氷晶精、それに純紫衝精でござるか!」
「クロキバのやつを守っとおるのか……? くそ、面倒じゃのお」
だが。
炎は勢いを増す。もはや前に向かって流れる炎の濁流。あるいは横倒しになった炎の滝。
ヒクラノオオカミは目をぎらつかせ、己の体毛すら焦がしながら炎を吐く。その炎の先で、城下町すべてが蒸発するかと思えるほどの火勢。
そして、妖精を飲み込んで、その向こうのクロキバまでも呑み干して。
炎の嵐は無限遠まで突き進んで。
ある一瞬にすべてが消える。
どう、とオオカミの巨体が倒れる。
「! ヒクラノオオカミ! 大丈夫か!」
「おい、クロキバは生きとおるぞ」
ツチガマは刀を抜いて、素早くその近くに飛ぶ。彼は倒れていたが、服には焦げ目一つなかった。
ツチガマはクロキバの首筋に刀を当てつつ、六角形の鏡を投げてよこす。
「殺した……わけではないでござるか?」
――精神の一部を、焼き尽くした。
ヒクラノオオカミが、か細い声で言う。やはり音としては聞こえない。小石を並べるような響きである。
――もはや異能は、ない
「そうか……ありがとうヒクラノオオカミ、クロキバを殺さずに対処してくれたんだね」
「そうでこざるな……神が人を手に掛けるのは最大の禁忌だから、という理由もあるでござろうが」
「そうなのか?」
「実は先刻、城の中で……」
「何かおるぞ!」
声と同時に、頭上にさす影。
振り仰ぐ、それは十字架のシルエット。
白いうすものを羽織る女性のような姿。その背に七枚の色違いの羽を背負う、巨大な妖精、が。
「七彩謡精……!」




