第四十五話(過日の7)
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「きらきらしてるねえ」
それはいつの事だろう。
窓の外は暗い。七沼は夏休みの時期にしか屋敷に来なかったはずだ。今は何時なのだろう、夜をこの屋敷で過ごしたことがあっただろうか。
七沼遊也と紅円。赤くて大きなブランケットを二人でかぶっている。カーペットに這うのは生白い足指。燭台の明かりが揺らめいている。
テレビではクイズ番組が流れている。クイズ王たちが芸能や文学や、海外事情などさまざまな問題に答えていた。
肩越しに紅円の体温を感じる。汗で少し湿っていると感じる。暖気を漏らさぬように身を寄せ合い、赤いブランケットで互いを包む。
「番組のセットも綺麗だし、出てる人みんなきらきらしてる、かっこいいねえ」
「端っこの人はもともと一般人だったクイズ王だよ。紅お姉さんも、そのうち出られるよ。もっとたくさんクイズを学んで、いろんな大会で勝っていけば」
「そう……だと、いいんだけどねえ」
紅円は悲しげな様子だった。そのことに焦りを覚えて彼女の方を見る。
「大丈夫だよ、紅お姉さんなら何だってできる。どんなルールでも、どんな問題でもきっと解けるようになるよ。早押しがあれだけ強いんだもの、他のことだって」
「うん、ありがとうねえ……」
早押し以外のクイズに言及するとき、紅円はいつも気が塞ぐようだった。外界を恐れるように震えて、未来に怯えるように目を伏せる。
「でも、私は、早押ししか無理みたいだねえ……」
どうして。
そう問いかけようとして思いとどまる。
無理に早押し以外をやらせる必要など無いではないか。彼女はこの屋敷で、七沼の読みでボタンを押してるだけで幸せだったのに。
――そんな彼女を、連れ出したのは。
そうだ、それは自分だ。
現在と過去がねじれている。七沼の罪悪感が見せたいっときの夢だろうか。
「お姉さん、ごめんね」
彼女にひどいことをしたと、今ならそう思える。
「ずっとこの屋敷にいてもいいよ、ずっと僕がクイズを読むから、お姉さんの早押しを見られるだけで幸せだから」
「うん……うん、ありがとう、ねえ」
紅円が七沼を抱き、うなじのあたりにそっと口づけた。
それには深い意味があるような気がしたけれど、そこまでは考えられない。ただ紅円が許してくれたのだと、そう思えたことの安心があっただけだ。
すべてはもう、手遅れかもしれないけれど。
その言葉が、頭の奥でうずいている。
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――
――――
床から伝わる熱。
耳の奥に響く振動。
煙が充満せんとする屋敷には、どこかから風が流れ込んでいた。夜気の名残を残す冷たい空気が、ふいに鼻から吸い込まれる。
「――!」
身を起こす。上体が安定しておらず反射的に肘をつく。
後頭部にずきずきと痛みが残っていたが、体のしびれは和らいでいた。
目に煙が染みる。とっさに手の甲で口元を押さえる。
「よかった、気がついたんだねえ」
そして気づく。体の上にブランケットが乗っている。たっぷりの水で濡らされており、砂袋のように重いが、立ち上がれないほどではない。
「お姉さん、どこ?」
「大丈夫……火は回ってないよお、裏口から逃げれば大丈夫……」
糸くずのような細い声、そして気づいた、離れた場所にブランケットの小山がある。誰かが同じように、濡れた毛布をかぶっているのだ。
「お姉さん、助けにきてくれたの?」
「ううん、先にこの屋敷に戻ってたんだよお。あの男の人達が来たから、隠れてたんだあ」
顔は見えない。だが声は間違いなく紅円だ。そのことに心の底から安堵する。
「さあ、七沼くん、向こうから外に出られるよお」
奥の方を指さしたのは分かったが、紅円はブランケットから手を出さない。ぐっしょりと濡れた毛布がわずかに動くのみだ。
「お姉さんも逃げよう、ここは危ない」
「……私は行かないよ」
え、と七沼は目を丸くする。その間にも火は建物のあちこちを這い、ゆるゆるとその勢力を広げるかに思える。
「大丈夫だよ……私は死んだりしない。でももう、七沼くんとは会えない、ここでお別れだねえ」
「どうして……」
「私は、赤い場所で生まれたの」
ふと、そんなことを言う。火の起こすあらゆる音を突き抜けて、その声ははっきりと聞こえる気がした。
「私は血溜まりの中で生まれた。友達もいない、愛してくれる人もいない、血の混ざった泥水をすすって、彼岸花の根をかじって、寒さの中で震えていた。私はクイズ王にふさわしくない。世の中のことなんか何も知らない。どうしようもない女なの」
「何を……お姉さんが何を言ってるのか分からないよ。なぜそんなこと言うんだよ……」
「七沼くんは、クイズの世界を広げてくれたけど、広がるたびにクイズのことが恐ろしくなった。私のやってることはクイズじゃない。私はクラシック音楽なんか知らない。法律のことなんか知らない。外国のことも何も知らない」
「やめてよ……そんなこと言わないで、お姉さんは戦えてたじゃないか、あのイベントで、クイズ王とも」
「私のやっていたことは、クイズ王の真似なの」
声が遠ざかる気がした。ブランケットはいつの間にかとても遠くにあり、七沼との間にいくつもの瓦礫が落ちている。黒煙が周囲を満たそうとしている。
「物知りな人の真似、読書家な人、音楽好きな人、お医者さん、歴史家、植物学者、真似こそがクイズの本質。でも真似に過ぎない。本当の植物学者とクイズ王では、押すべきタイミングがまるで違うはず。でも誰も、学者さんより知識で勝ってるなんて思わない。クイズはクイズの役にしか立たないのだから」
「やめて……やめてよ、お願いだよ」
遠ざかる。
赤いブランケットの幽霊が、黒煙の向こうに遠ざかっていく。
部屋が異常なほど広く感じる。家具も壁も飴のように歪んでいる。
非現実的な光景。
ならばこれも夢なのか。一つのブランケットを共有し、テレビを見ていたあの夢と同じ、少年期の曖昧な記憶が見せる夢に過ぎないのか。ではどこからが夢なのか。
「お姉さん、クイズは真似なんかじゃない。何かの役に゙立つとか、知識の量を自慢するとか、そんなことが目的でもないんだ。クイズは楽しくて、見てる人を熱中させる、それで十分じゃないか」
「七沼くんは私を知らないからだよ。本当の姿を知ったら、きっとがっかりする。私は薔薇なんか育てるような女じゃない。ドレスだって着慣れていない。ただ自分を取り繕ってただけ。七沼くんが見てたのはただの幻。私が本当は何なのかを知ったら、きっとおぞましく思う」
「どうして……どうしてそんなこと言うんだよ。お姉さん……」
「さあ、もう行かないと駄目だよ。あっちの、裏口から……」
「僕も逃げない!」
血が出るほどに叫ぶ。その叫びが部屋に反響し、火事のリアルな音となって返ってくる。ふいに周囲の景色がくっきりとして、距離感も正常に近づく。異常が生じている脳に無理やり血を流すような叫び。
「お姉さんと一緒じゃなきゃ逃げない! お姉さんと別れるぐらいなら焼け死んだほうがマシだ! お姉さんをどこにも行かせない!」
「無理だよ……もう私は、七沼くんの追えない場所に行くから」
「僕の家に行こう! お父さんとお母さんは説得する! 一緒に暮らそう! 本気だよ!」
「七沼くんは、優しいね……」
踏み込む。炎と熱気が千本の針となって皮膚を突く。眼球の奥にまで染み通るような炎、熱気は肺を焦がすかのよう。火のくすぶる絨毯を踏み越えて進む。
「真似なんかじゃない……お姉さんのやっていたことを真似事だなんて言わせない」
「……」
「お姉さんはどんなクイズ王にだって勝てるんだ。僕は強さを知ってる。それでいいじゃないか。クイズはそういう競技で、それにこそ価値があるんだ、僕が」
それは七沼少年の言葉だろうか。
それとも成年となり、何度もこの時の光景を思い出していた七沼遊也という男が、言いたかった幻の言葉だろうか。
「僕が作るよ、お姉さんが戦える場所を。僕が探し出すよ、クイズ王たちを。眩しい場所に立ちたくて、でも自分は本物ではないと思っている人を探し出して、そして戦いの場に立たせてあげる。お姉さんも、僕と一緒に」
「私に、黎明の光をあてないで」
その言葉は今までとは違う、はっきりとした拒絶の意思があった。
「ありがとう、本当にありがとう七沼くん。でもやっぱり、私は注目されてはいけないの。私は綺麗なものじゃない。本当はとても醜いの。七沼くんには分からない。分かってほしくもない。私の本当の肌を見たことはないでしょう? ぬめっていて爛れていて二目と見られない。七沼くんには必死で隠してきたけれど、ずっとは隠していけない。私のことなんか忘れていいの。今ならまだ忘れられる。七沼くんはまだ、子供なんだから」
「勝手なことばかり言わないで!」
叫んだ途端、激しく咳き込む。熱気のせいか、それとも空気の組成のせいか、立っていられないほどの頭痛がする。
だが叫んだ声は紅円に届いた気がした。彼女はブランケットの奥で身をすくませている。
「もう僕は子供じゃない。何でもできる。お姉さんのために子供をやめる。だから一緒に行こう。首に縄をかけてでも連れて行く。絶対に、僕に分からない場所になんか行かせない!」
「七沼くん……やめて」
いつしか、ブランケットが目の前にある。
無限の距離を隔てていたと思われたのに、実際にはほんの数歩の距離だったのか。濡れたブランケットは表面が乾き、火の粉を浴びてささくれた質感がある。
「見ないで……きっと悲しむから。この世のものではないほど醜いから。だって私は、血の海を這い回るだけの」
七沼はブランケットに手をかけた。
わずかな抵抗の意思。
だが力任せに、それを剥ぎ取る。
――現れた、のは。
「ほら」
その頬に触れて、七沼が言う。
「やっぱりだ……お姉さんは、綺麗なままだよ」
「ああ、七沼くん……」
彼女は泣いていた。
美しいと言った七沼の様子に、何かを見出したようにとめどなく泣く。
そして七沼の意識は、蝋燭の火のようにかき消えた。
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――ああ、そうだったんだねえ
――七沼くんには、クイズ王が綺羅星のように見えていた
――七沼くんにとって、それが世界のすべて
――美しいか、そうではないかは、七沼くんが決める
――それは幸福なこと
――それとも、不幸なことかな
――ごめんね……やっぱり、一緒には行けない
――私の世界に、連れていってあげたかったけど
――きっと、七沼くんには、七沼くんだけが行ける世界が……
※
はっと、体を起こす。
驚くほど体が軽く、意識も鮮明になっている。それは子供の頃から慢性的だった睡眠不足が解消されていたからだ。窓の外には青葉が繁っている。
「病室……」
白い壁と白い天井、清潔なシーツに窓からの陽光。腕には点滴の針が刺さっている。ここは個室のようだが、周りに人はいない。
ふと後頭部に違和感を覚える。痛みではない。
手で触れてみると後頭部が剃り上げられており、ミリ単位のでこぼことした傷があった。
「……?」
「あ」
と、病室の入り口に立つのは看護服姿の女性、この時代はまだ看護婦と呼ばれていた。
「看護婦さん、いま何日ですか」
「あの、七沼くん、すぐ先生呼んでくるから、急に起き上がらないで」
「いま何日ですか!」
看護婦は目に見えて動揺していたが、七沼を落ち着かせようとしたのか、駆け寄ってシーツを直しつつ答えてくれる。
「9月18日よ。七沼くんはね、頭をケガして3週間ぐらい寝たきりだったの」
「3週間……あの、この後頭部の傷は」
「あ、それ? ええとね、硬膜の……難しい説明はあとで先生からしてもらうけど、七沼くんは頭の中を怪我して、血が溜まって脳を圧迫してたのね。それで、本当は小児にはやらないんだけど、うちの先生が勝手に……じゃなくて、英断で、ヒル治療法ってのをやったのね。ヒルって分かるかな、血を吸う生き物をうっ血した部分に貼り付けて、長い時間をかけて血を吸ってもらうの。海外では結構あるらしいんだけど、国内ではあまりなくて、うちの先生はその論文を研究してるとかで」
聞いていないことまでどんどん話してくれる。自分が起きたことによほど驚いたのだろうか。
「ヒル……」
「それでうっ血が取れて、意識が戻ったんだから、うちの先生って正しかったのね……一時は訴訟ものかと……いえ、それはまあ、こっちの話で、あ、せ、先生呼んでくるわね」
看護婦はわたわたとベッド周りを整え、そそくさと退出してしまった。
「……」
奇妙な夢を見た。
だが、どこまでが夢だったのだろう。
思い出すのは、真紅のドレス。
あの美しく、あでやかな記憶と、二度と会えないという確信だけがあった。
早押しの王、紅円。
あれは現実のことだったのか。
それとも幻だったのか。
七沼は。
七沼遊也はぎゅっと拳を握る。
「違う……そうじゃない」
それを決めるのは、自分。
これからの自分の生き方が、クイズ王たちを、この終わりかけているクイズ黄金時代を世界にとどめる。それを理解する。
もし一日でも心がクイズから離れたなら、美しきクイズ王の記憶も、神業とも呼べる早押しも、少年期の幻となって消えてしまうだろう。
掴めぬ幻をとどめるために、幻想の世界に生き続ける。
それが自分の生き方なのだと。
もうすべて決まってしまったのだと。七沼は深く理解して、そして泣いた。
それはクイズに全てを捧げるための涙。
何ひとつ失わないために、すべてを捨てる覚悟を決めた。そんな涙だった。




