第二十八話
「ということは、あの鏡はもともとクマザネが身に着けておったのか」
「うむ、いついかなる時も肌身離さず、将軍家にはそのように伝わっているはずだ」
ナナビキはいろいろと思いだしてきたのか、こめかみを指で叩きながら言葉を続ける。
「そう……あの儀式のあと、まだ若かったクマザネは少しぼんやりとしていた。様子がおかしかったので話しかけると、ひどく悲しい気分だと、私を守っていた大いなる加護を失ったように感じると、そのように言っていた。あの鏡は確かに神秘性を備えた器物だから、失って寂しく感じるのかと思っていたが、思えばあの時から、クマザネには少し陰が生まれたように思える」
「……ナナビキどのは、あの鏡に特別な力があるか知っておるかの?」
「いや知らぬ。ハイアードの鏡が天変地異を起こすことは伝え聞いているが、クマザネは何も知らぬらしい。それを夢枕で授かった三代前の当主は知っていたらしいが、記録が見つからなかったらしい」
双子は軽く視線を交わす。
「あの鏡によく似た大きめのものもあるはずじゃが」
「ある。白桜城の具像殿(宝物庫)にあるのを見たことがある。断片的に残っていた記録では、あの鏡は二つで一つらしい」
「二つで一つ……。あの鏡を誰かが「使った」記録はないのか?」
「いや、使ったという話は聞いたことがないな。今しがた言ったように記録も消えている。しかし、話によれば王か、その子息の身柄を求めるという。私が知る限り、神隠しにあった王などおらぬが」
「うーむ」
何かに肉薄していると感じる。
このヤオガミという国、フツクニという都、クマザネという血脈に秘められた何かに。それが見え隠れしているこの国の異変、クマザネの暴走とも言える開国論に関係しているのだろうか。
(記録がない……しかし肌身放さず身に着けろと伝わっている以上、そこに理由があるはず。ならば記録が残っているのが当然じゃ)
(間違いなく誰かがその記録を読んだ、そして記録を葬り去ったのじゃ)
(ではやはり、鏡が使われようとしておるのか……?)
「……ヤオガミは国際情勢に疎い国と聞いているが、ナナビキどのはいろいろ詳しいようじゃな」
「埋たちからの報告だ、フツクニの埋とは情報を共有している」
「クロキバとかいう男か……我らは会っておらぬが、優秀な隠密なのじゃな」
「そのようだな。クマザネどのの抱えている人材でも最大の宝だろう。幼少期からの側近であり、世界中に散らばった埋たちの統括だ」
話も出尽くしたと感じ、ナナビキはかるく首を鳴らす。
「さて、では勝負か、この鋼鉄船を賭けろとの事だったな」
ナナビキは立ち上がり、他の船員たちを指で呼び寄せた。
「操船には最低でも30人必要だ。事実上、この者たちの指揮権を渡すという形になるが」
「うむ、それは」
「だめじゃ」
ユギが同意しかけるところへ、ユゼが割って入る。
「ユゼ? どしたんじゃ?」
「ナナビキどの、おぬしはまるで賭けの熱が入っておらぬな。万が一負けても、この船を手放すことになってもそれはそれで構わぬという印象じゃ。それでは熱のこもった賭けはできぬ」
「ふむ、そのように言われてもな……」
「この船はいくらじゃ? 運用費用、積み荷などすべて含めて」
「そうだな、大陸の感覚では14億ディスケットほど……」
「150億賭けよう」
服の内側から抜き出す、それはニワトリの卵ほどもあるエメラルド。
そして髪の内側から抜かれる金の髪飾り、さらにはいくつかの紙片も。
「パルパシアの王権の名において発行される振り出し小切手じゃ。これで100億払う。あとは宝石類で補おう。ユギも出すがよい」
「――うむ、では」
同じくユギも宝石をばらまく、どこに入っていたのかと思うほど大粒のものばかりを。
「……そのような大金を賭けられても、あがなう品を持っておらぬが」
「いや、持っておる」
どおん、と衝角で波が砕ける音がする。
「おぬしはクマザネの計画に加担する代わりに、自分の取り分を得ておるはずじゃ。白桜城での密会は見せてもらったぞ」
「おお、確かに言っておったのう。いったい何を受け取ったのじゃ。開国に関する莫大な利権かの。それとも世に二つとない何らかの宝か」
「……うむ、さすがは暗闘うごめく国と聞くパルパシアの王。まさか見られていたとはな」
蒼のユギは左右に視線を走らせる。すでにフツクニ近くの港を遠く離れ、陸地も見えぬ海上。
ナナビキが自分たちを海に叩き込まない保証はない。攻撃的な妖精を呼ぶ用意はあるが、ヤオガミではその力は弱く、さらに洋上とあってはどれほどの力が出せるか読めない。
だが、どうも周りの水夫も、侍たちも動く気配はない。ナナビキ氏も悩むような顔をするばかりで指示を出してる様子はない。
(……根が善人なのかのう? しかし戦乱まだやまぬヤオガミの豪族、酷薄さを持ち合わせていないとは思えぬが)
あるいはやはり、疲れているのか。
クマザネの強引な計画に振り回されて、その中で暗躍してやろうとか、強引な商売をしようという気力が失せているのか。
あるいは、逃げたいのか。
そんな言葉がユギの頭に浮かぶ。
(そう、極力隠しておるが、これは恐れ)
(ナナビキどのはフツクニで起きておる事態から逃げようとしておる)
(ヤオガミの開国論から、フツクニの同盟から、クマザネどのの後見人のような立場から、できうるならば逃げてしまいたいと……)
無意識下の心の動きであろうか。ナナビキ当人ですらそこまでは意識していないだろう。
壮年の男はただ、すり減っていた。
「わかった、とっておきのものを賭けよう」
そして先立って歩き、船内へと双王を招く。
「雷問での勝負も、それなりのものを用意せねばな……」
※
暗闇の中で目を覚ます。
覚醒はいつも速やかであり、まどろみの残滓は何もない。
自分がどうやって寝入ったのかは覚えていない。倒れるように寝たのだろう。よくあることだ。
己は柔らかな襦袢を着て、平屋の中にいる。蚊帳が張られているのが分かる。投宿先にしていた宿だろう。
蚊帳の外側にはメイド服の人物が立っていて。そして内側には、自分を見下ろす小柄な人物が。
「ユーヤさん、お目覚めですか」
ズシオウは白装束の裾を畳に広げている。行灯には明かりを抑えるためまつ着物がかけられているが、何かが燃えている光ではない。妖精の明かりだろう。
「だいぶ眠ってしまったかな」
「いえ、ほんの3時間ほどです」
いつも通りだな、そんな言葉が脳裏に浮かぶ。
そして寝床までの流れを思い出す。自分は準決勝を終えたあと、外国人用の通用口から城を出て、宿まで戻ってきたのだ。
体内時計がおおよその時刻を告げている。今は午前1時あたりだろう。
会議室で仮眠を取っていたときは、きっちり3時間だけ眠るのが日常だった。アラームはいつも鳴る前に止めて、電話が鳴れば3コール以内に取る。熟睡を警戒して毛布はかけない主義だったが、一度本格的に体を壊してからは体温調節に気を使っていた。
「ユーヤさん、決勝戦までは3時間ほどあります。もう少し休まれてください」
「いや、もう大丈夫」
身を起こす。二度寝は目に見えない何かの消耗が激しい。
「それよりズシオウは自分の宿に戻った方がいい。僕のことは気にしないで」
「いえ、ユーヤさんのおそばにいます」
きっぱりと言われて、ユーヤは少し当惑する。その様子を見てズシオウも言い方を変える。
「不安でたまらないんです。どうか近くにいさせてください」
「そうなのか……僕はいいけど、眠くないの」
「目が冴えてしまって……先ほど、少しだけ横にはなったのですが」
それには嘘はない。眠るという感覚がひどく遠い。自分が普段、どのように睡魔を感じていたのか思い出せない。
山と山の間に渡された綱の上にいるような、不安定で落ち着かない気分の冴え。
「じゃあ少し散歩しようか、歩けば眠れるかも」
「あ、それなら……四井の縁日に行きませんか」
「縁日……」
と、その問題は贅月にあったことを思い出す。フツクニの一角、毎日のように朝まで屋台が出ている一角である。フツクニを訪れた人間に向けての観光資源という考え方があるらしい、ヤオガミでは珍しいことだ。
「わかった、行こう」
※
そこは確かに夜の街であった。いくつかの飲食店が鮮やかな提灯を並べ、閉まっている店の前には屋台が並ぶ。
なにかの串焼きであるとか、よく冷えた飲み物、飴細工に占い、弓を用いた射的にお面屋。そして浴衣を来た大勢の人々。
ユーヤはあまり懐かしいという気分にはならない。縁日に来た経験が少ないからだ。
「ユーヤさん、これをどうぞ」
と、ズシオウが渡すのは狐の面である。浮世絵のように大見得を切った顔立ち、赤や青のラインが入っていて鮮やかな造形、丁寧な仕事の木彫りだった。
見れば、ズシオウもいつの間にか狐の面に変わっている。顔全体を隠しているので普段と印象が違う。
「このお面は?」
「呼児狐の面です。千年を生きた狐は自分の子どもたちにこの面を与えて人里に遊びに行かせます。この面をつけてる者の素性は詮索してはいけない、という決まりなんです」
「そうなのか、似たような話は僕の世界にもあるよ」
確かに、同じような狐の面をつけた人物をたまに見かける。裃をつけて帯刀していたり、豪華絢爛な大振袖を着ている、それなりに身分の高そうな人物が多い。
「さあ寄ってきな聞いてきな、そこゆくお嬢さんもご立派な旦那さんも、右も左もわからねえ狐っ子も、ことは白桜の城の大天守、城下を見下ろす高みのやぐら、天狼の間にて行われし大試合……」
早くも講談師がネタに昇華させている。深夜なためか声は控えめであるが、その周りには大勢の人間が集まって話に聞き入っている。
「ユーヤさん、ほら、もぐら細工ですよ」
手を引かれ、屋台の一つに案内される。
それは砂糖のような粉で一杯になった硝子の水槽。店主は二本の火箸を水槽に突っ込み、鼻歌を歌いながら捏ね回している。
「あれは何をしてるの?」
「芋麵麭です。焼いていない半練り状のものを熱い火箸で形を整えてるんです。もともとは白いパンなんですけど、砂糖を火箸で押し付けながら造形すると、力の加減で灰色、茶色、黒に色がつくんですよ」
「いわゆる無発酵パンかな、形を整えられるだなんて変わった性質で……」
「はいお待ちどお」
取り出す。そしてユーヤは驚いた。和太鼓を叩く熊である。
ヒグマが爪をふりかざし、両足で抱くように固定した太鼓に振り下ろしている。熊の毛並みは黒みがかっており、太鼓は茶色に、爪は見事に真っ白なままである。そして大きさは子供の手の平ほどしかない。
受け取った女の子は喜んで走り去っていく。
「すごい……あんな細かな造形を、パンが冷えるまでにやりきるなんて、しかも手さぐりで……」
「お狐さま、何をお作りしましょう」
「吉祥の生き物をお願いします」
もぐら細工の若者が作ったのは鯉だった。背中に見事な斑紋がある。
ユーヤにも渡される。それは下駄である。黒塗りの下駄と茶色の鼻緒、ユーヤが履いているものに近い。ユーヤとしては三次元的な鼻緒の造形に驚く。
「歩行が鯉と願う、二つで一つの縁起物ですね」
「うん、すいとんとか、いきなり団子に近いんだね。甘くておいしい。大した技だね、あんなに若いのに」
そして屋台街をそぞろ歩く。ユーヤとしては何もかも珍しい光景。多くの屋台には職人技があり、楽しげな音楽や大道芸も見られる。
客層は町民は少なく、身分の高そうな紳士淑女、家族連れ、外国人風の者もいる。
むろん、銀色リボンのメイドが10歩ほど遅れてついてきているし、姿は見えないがベニクギもいるのだろう。屋台街は入り口の印象よりも長く、どこまでも続くかに思える。二人は射的を楽しみ、糸と干物でカエルを釣ろうとし、ハイアード産の珍しい花火を土産に買う。
「みんな楽しそうだね」
すれ違う人がみな笑っている。そのようにユーヤが感じるだけかもしれないが、この場には豊かさがあると感じる。
このフツクニという都市全体に、何もかも満ち足りたような充足感があるのだ。
「ええ、とっても」
ズシオウも笑っている。面の下ではあるが、そのように思えた。人ではないものになって、人の世の憂いを忘れて楽しむように思えた。
「なんだか夢のようです。こんな楽しい時間が、ずっと続けばいいのに」
縁日の片隅、酒屋の前にある樽に座ってズシオウが言う。
「でも、もうすぐ帰らないといけませんね、ユーヤさんには試合も待ってますから」
「そうだね」
「……ユーヤさんは、ヤオガミはこのままでいいと思いますか?」
何事でもないように。それでいて、今日はそれだけを言おうとしていたような気配もあった。ズシオウの中ではずっと渦を巻いていた問いなのだろうか。
「無理に変わる必要はないけど、いつかは変わるときが来ると思う。肝心なのは、変化に順応していくことだ」
ユーヤはそう答える。ズシオウが真剣な答えを欲していることは察したが、さりとて異邦人であるユーヤに踏み込んだことは言えない。それをもどかしく思う。
「私もいつか、変わるのでしょうか」
狐の面の下から、寂しげな声が。
「私は白無粧の時期を終えて、何者かになるのでしょうか」
ユーヤは思い出す。白無粧の期間は性別がなく、常に顔を隠して長めの着物を着ている。
それは、何者でもないから。
幼少期の頃を知られることは弱点になるから、幼少期の頃はその身柄は神のものであるから。あのセレノウの王女はそう言っていただろうか。
「ズシオウはたくさんの経験を積んでるし、ベニクギのような優れた人と主従を結んでる。もう立派な将軍の子だ、恐れる必要はないさ」
「いいえ、私はまだ、何者でもないのです」
胸を押さえる。感情を封じ込めるような仕草。
それはモラトリアムだろうかとユーヤは思う。
ズシオウはまだ責任を負う立場になりたくないのか。それとも謙虚な性格であり、自分はこういう人間だと証し立てる自信がないのか。そのように解釈する。
「まだ決まらない、それが私です。未成熟で、まとまっていなくて、揺れ動いている。それがヤオガミなのです。私はそのことが恐ろしいのです」
「……それは、それは大事なことだよ、ズシオウ。悩む時間もまた、必要なものだ」
「いいえ、それとも違うのです、ユーヤさん……」
腕を掴まれる。
紅葉の葉のような小さな手、その奥に熱を感じる。食い込むほどに強く握られる。
「もし、この面をつけたまま朝が来て」
消え入るような、かがり火に落ちる雪のようにほのかな声が。
「私が、人でもなく、狐でもなかったら、どちらでもなかったら、何者でもなかったら」
――私を暴かないで
瞬間、電撃のように脳に突き刺さる、声が。
――私に、黎明の光をあてないで
それはユーヤという人間の底の底。
出会ってきた全てを覚えようとしているユーヤですら、記憶の泥に沈めていた、錆だらけの錠前で閉じられた記憶。
「ズシオウ……」
「私は、私が何者でもないこと、それだけを、恐れるのです……」




