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19.日が沈む前に急ごう色街に

 


 どんな街にも表の顔と裏の顔がある。

 シェーヌ王都、西地区に存在する歓楽街……色街も同じだ。娼館の立ち並ぶ表通りは、客を誘うように色とりどりの灯りがともり、夜にこそ花開く蠱惑的な顔を持っている。甘ったるい香の煙が漂い、区域によっては胸元も露わな娼婦たちが客引きをし、男の見栄と欲がからまり合って独特の雰囲気を形成するのだ。その空気は花の蜜を醸造した酒のように、とろりとした重さを含んでいる。

 対して、歓楽街の裏の顔とは生活空間のことだ。

 一夜の夢を買う所であるからして、生活臭さがにじみ出る部分……夕餉の支度をする煮たきの音やロープにつるされた洗濯物などは、神経質なまでに裏側に押し込められている。客でも娼婦でもない人間や、食材を届ける荷運び車などが通る裏道が色街には作られているのだ。

 そんな裏道をたどって、リッカは目的地にたどりついた。

 それなりに豪勢な屋敷の裏庭に見える場所だ。

 夏に向かう季節の陽は長く、東の空が藍色に染まる時刻になっても、夕陽が最後の光を投げかけてあたりはだいぶ明るい。おかげでリッカは手元を照らすランプもなしに、すんなりとかんぬきを外すことができた。出入りの人間が多い夕暮れ時などには、裏口の門には鍵がかかっていない。ルイの迎えに何度か来たことがあるので、リッカはそれを知っていた。


「………………ここなのか?」


 うめくような低い声が聞こえて、リッカは振り向いた。

 ターバンの要領で布を巻き、目立つ銀髪を隠したユーグがとても苦々しい表情をして立っている。苦虫が口に飛び込んだのかと思うくらい、嫌そうな表情だ。


「ついてこなくても良いとは、言ったんだけどね」


 苦笑しつつリッカはそうもらす。

 潔癖で女嫌いの白騎士様に、裏手とはいえ娼館にまでついてきてもらうのは、リッカといえどもさすがに気が引けた。猥雑な通りは歩かないし、何度か行ったこともあるから大丈夫だと説得をこころみたのだが、ことごとく失敗に終わったのだ。頑固な白騎士様は、一度口にしたことを撤回したりしない。


「顔を見られるのが嫌なら、ユーグはここで待ってる?」


 リッカの提案に、数瞬の沈黙が返ってくる。どうやらユーグはためらっているようだった。しばしの思案の後、眉間のシワを深くして、首を横に振る。


「……いや、行こう。お前一人ではやはり危険だ」

「厨房の料理人さんとは顔見知りだから、大丈夫なんだけども」


 そういう問題ではない、という風に顔をしかめ、ユーグも裏庭に足を踏み入れた。

 人目につくことのない裏庭は、荒れているというほどではないが雑然としていて、短い小道をたどるとすぐに屋敷の石壁につきあたる。勝手口は開け放たれていたので、リッカはドア枠に手をかけて、中に呼びかけた。


「すみませーん。ルイがこちらにお邪魔していませんかー?」


 もう夜が近い。一番忙しい時間帯である。厨房は戦場のような有り様だろう。

 娼館としては最上等に分類されるこの屋敷には、専任の料理人がいて、高級料理店にも引けをとらない食事を提供している。舌の肥えた上流層の客を相手にするためだ。

 いつもなら手の空いた気の良い料理人が応対してくれるのだが、今の時間では無理かもしれない。そうリッカが気をもんでいると、奥から意外な人物が現れた。


「おや、リッカちゃん。お早いお迎えだね。ルイ坊なら、ついさっき駆けこんできたところさね」

「ヴァネッサさん! どうしてこちらに?」


 勝手口まで出てきたのは、生活の場に不似合いな、赤紫のドレスをまとった大柄な女だった。大胆にくられた襟ぐりからこぼれそうなほど豊満な胸をしており、身体のラインを強調したドレスが一層なまめかしい。

 波打つ黒髪を背に垂らし、紫煙をくゆらせる様は、現役の娼婦でも通りそうだが、彼女が客を取らなくなって久しいということを、リッカは料理人に吹きこまれていた。ついでに、どう低く見積もっても五十は超えているはずだという年齢のことも。

 年齢不詳な美女の名はヴァネッサ。この娼館の女主人である。


「いいラム肉が入ったんでね。ちょいとつまみ食いに来ていたのさ。厨房の連中は今、手が離せないみたいだしねぇ、アタシもリッカちゃんに会っときたかったから、ね」

「……? なにか私にご用事が? あ! ルイがお店のものを壊したとか!?」

「いやいや、違う違う。ルイ坊は確かに悪たれだけどね、ウチでは悪さはしないよ」

「でもやっぱり、ご迷惑をおかけして……。すみません」

「いいさ。ルイ坊をちやほやするのが、お店の子らの良い気晴らしになってるさね。アタシがリッカちゃんに会いたかったのは、全くの別件。リッカちゃん、アンタ、見合いしたんだってね?」


 どこまでも広がるものと言えば噂話である。情報通のヴァネッサが知らないはずはないと思ってはいたが、ずばりと言われてリッカは目を右往左往させた。近くにいるユーグのことも気にかかって、どうしても挙動不審となる。


「ええっと……はい。お見合いを、しましたけれども」

「それもあの有名な白騎士殿とだ。銀髪銀目のユーグ・シャルダン。間違いないね?」

「ええ、まあ……はい」

「白騎士殿のことでちょいと話しときたいことが……って、あらまぁ」


 ヴァネッサはリッカの背後を見て目を見張り、指先でくるりと煙管をまわした。なぜ灰が落ちないのか不思議だ。

 どうやら壁際に腕を組んでもたれていたはずのユーグが、姿を現したらしい。そう判断してリッカも振り返ると、案の定、怖い顔をしたユーグが仁王立ちしていた。


「今日のお付きは薔薇園のごつい兄さんじゃないんだね。いや、びっくりだ。白騎士殿みずからがお出ましとは」


 つややかに紅をひいた唇をつり上げて、ヴァネッサは笑みを形作る。

 対するユーグは無言だ。無言で、ただ冷気を塗り固めて作った氷の鏡のような目で、冷たくヴァネッサをにらみつけている。

 いつもよりも静かな怒りの表現なのに、いつもより何倍も恐ろしいものだと、リッカは感じた。リッカの知るユーグとは、徹底して感情豊かな男である。怒りの示し方が絶対零度であろうとも、そこには峻烈なほどの激情が伴っていた。それは恐ろしくはあっても、誰かの存在そのものを否定するような、絶対的な冷酷さとは無縁のものだったのだ。

 リッカが知る由もないことだが、この場に赤騎士か桃騎士がいれば、今のユーグを青騎士セルジュとそっくりだと評したことだろう。血を凍らせるような冷たさ。そんな異質な冷気を、今のユーグは放っている。


「んふふふふ。ずいぶんとお見限りだったねぇ、白騎士殿。かれこれ十年以上かい。リュシエンヌの一件以来さね」


 常人なら失神しかねない冷気にも、ヴァネッサは嫣然と微笑むばかりだ。楽しげとさえいえる口調で紡がれた言葉に、ユーグの怒気はゆらりとゆらめく。


「……愚弄する気か?」

「愚弄? 馬鹿を言っちゃあいけないねぇ。アタシには白騎士殿を愚弄する気なんざカケラもありゃしないよ。アタシにそんな気があったら、リュシエンヌとのことが面白おかしく王都じゅうに広まってるってことくらい、分からないのかねぇ?」


 もう一度出てきた女性の名に、ユーグは声を荒げた。


「ではいったい何をこいつに吹きこもうとしていた?」

「ただ、真実を。なんだい? アタシがリッカちゃんにあることないこと吹きこんで、白騎士殿の評価を下げようとしてるとでも思ったのかい?」

「話そうと思っていたのなら、同じことだろうが」

「はっ! 昔の女のことを話されちゃあ、困るって思ってることじたいが、まだまだ坊やだってことの証拠さね。せっかく七人の騎士にまで出世したってのに情けない」


 リッカはヴァネッサが斬り捨てられるのではないかと思った。

 それぐらい今のユーグは冷たい目の色をしていたのだ。

 怖い、純粋にそう思う。冷えた刃の色。

 おそるおそるユーグの右手を見る。意外なことに剣の柄に手はかかっていなかった。まっすぐに下におろされた腕の先で、硬く握りしめられている。

 紫騎士の時とは違うのだと、リッカは直感した。

 たとえ怒りがあの時の比ではなくとも、力を持たない相手に刃は向けない。

 抑え込まれている怒りの強さからか、かすかに震える拳に、リッカの目は釘づけられた。


(……あんなに強く握ったら、皮膚が破れるんじゃ……?)


 白い拳から鮮血がしたたったように見えて、リッカは弾かれたようにその手を取った。


「……っ!」

「………………あ……」


 ユーグが身体をこわばらせる気配がしたが、リッカは彼の顔を見ていなかった。ただ両手で捧げ持ったユーグの右手を見つめていた。


「血が……出てない……?」


 手のひらに赤い液体はついていなかった。

 ではさっき見えた赤はなんだったのか。磨いたリンゴよりもなお赤い、赤。それが単なる見間違いだとは信じられなくて、リッカはまじまじと観察してしまう。

 几帳面に短く切りそろえられた爪の先や、指の間、手の甲まで見回してみても、どこからも血は流れていない。疑り深く観察するうちに、リッカはある事実に気がつく。

 長い指や骨格の形。そういった造形の美しさに反して、ユーグの手の皮膚は驚くほど硬かった。実用に耐えうる、という言葉が瞬間的に頭に浮かぶ。なにで読んだ言葉だったか。気まぐれで読んだ拳銃か戦闘機に関する雑誌だった気がした。


(戦いのための、剣を握る手だ……。破けるほどやわじゃない)


 ようやく納得がいって、ほっと息をつく。

 その瞬間、ユーグと目が合った。


「……………………いったい何をしてるんだ、お前は」

「ふへ?」


 ユーグは毒気を抜かれて、どこか呆けた子供のような表情をしている。

 その表情からリッカも自分の所業を客観視することができたらしい。一瞬で動揺し、おたおたと首を振る。


「や、これは違うんですよ! 手フェチとかじゃなくて! 血が出てるように見えたから、確かめてただけで! いきなり手の観賞に目覚めたとかじゃないから!」

「意味がわからんのだが」

「くえええ、だから、とにかく違うって!」


 しめられた鶏のような奇声を発したりしながら、リッカは弁明になっていない弁明を続けている。

 傍観していたヴァネッサがやれやれと肩をすくめた。


「……アタシの出る幕じゃなさそうだねぇ。白騎士殿はともかく、リッカちゃんのことは甘く見過ぎていたようだね」


 ひとつ首を振ると、ヴァネッサは煙管を吸った。ぷはー、と紫の煙をリング状に吐き出し、人心地つける。


「ルイ坊を連れて来てあげようかね。夜も更ければ、帰り道が物騒だ」


 唐突に話を変えたヴァネッサに、二人はついていけず、そろってきょとんとする。その様にゆるい笑みを見せて、ヴァネッサはきびすを返した。遅れてドレスのすそがしゅるりと身体に巻きつく。


「すぐに連れてくるからね、そこでお待ち」


 裏庭に取り残された二人は気の抜けた顔を見合わせ、距離の近さに気づいて、慌てて離れた。リッカは気まずそうな、しかし呆けた子供のような表情のユーグを見やり、今日は似たようなことばかりが起こると嘆息する。


(……『リュシエンヌ』さん、ね……)


 少し痛む自分の心臓のことは、気づかないフリをしたかった。




******




「なんだ、てめぇら。そろって辛気臭ぇ顔しやがって。葬式かよ」


 開口一番からこれだ。ルイのクソガキぶりが分かろうというセリフだったが、リッカは力なく、あはは、と笑い返した。なんかさっきからもう笑うしかない。

 ヴァネッサに引きずられてきたルイは、その笑みを不審そうに眺め、リッカに近づいた。美人なおねーさま方から引き離されて、さぞやご立腹なはずなのに、燃え尽きた灰のような状態のリッカが気になるらしい。


「……オイ、馬鹿リッカ。まさかアイツになんかされたのかよ?」


 一応はひそめた声だが、声変わり前の少年の声はよく響く。アイツ、と指差されたユーグに聞こえていないはずはないが、腕組みをしたユーグは聞こえないフリで通していた。


「いんや、違うよ。ちょっと疲れただけ。……さ、帰ろう。ルイ」


 手のひらを差し出すリッカに、ルイは憮然とする。もう一度疑り深い眼差しをユーグに向けた後、ヴァネッサの方を振り返った。年齢不詳な女主人は、なにやら意味深な顔で何度もうなずいている。なんのサインなのかはリッカには分からなかったが、ここにルイを引きずってくる間になにかを言い含めたのかな、とも思った。

 ルイはしぶしぶといった感じでヴァネッサにうなずき返して、すたすたと歩き出す。リッカの手は取らない。


「けっ! しょうがねぇから戻ってやるよ。あーあーあー、せっかく美人のねぇちゃんが酒ついでくれたとこだったのによぉ」

「……おーい、ルイ坊。11歳で飲酒はダメだって、何度言えばわかってくれるのかなー?」


 いつも通りの苦言を呈しながら、リッカは安堵のため息をついた。

 感謝の目をヴァネッサに向けて、頭を下げる。女主人は鷹揚に笑うばかりだ。

 いったいどんな風に説得すればルイがこんなに聞き分けよくなるのか。ぜひご教授願いたかったが、本人を目の前にして訊く訳にもいかない。もう一度だけ礼をすると、リッカも歩き出す。ユーグも無言で従ったのが分かって、この奇妙な三人連れで家路につくのかとリッカはなんだか、少し可笑しくなった。

 しかし門のところまで歩いた時、あたりは不穏な空気に包まれる。


「……雨?」


 急激に暗くなったように感じられて、リッカは頭上を振り仰ぐ。雨雲がかかったのかと思ったのだ。

 黒い雲が、空から落ちてくるのが見えた。

 いや、雲ではない。それは巨大な翼を備えていた。残照に染まってもなお黒としか認識されない、暗い色調の翼だ。

 黒板をガラス片でひっかいたような、不快な音がして、リッカは思わず耳をふさいだ。それが黒いなにかの『鳴き声』だと気づくまでに一秒。更に続く一秒で、リッカは繁みの方へ突き飛ばされた。


「逃げろ!」


 清冽なユーグの声がして、剣戟がそれに続く。黒いなにかの爪を、騎士の剣が防いだのだ。

 リッカは驚愕に目を見張った。彼女はその『なにか』の絵姿を見たことがあったのだ。もといた世界でのゲームや漫画の中で、そしてこの世界では紋章として旗や図鑑の中で。


「…………グリフォン」


 鷲の頭部に獅子の胴体。背には畏怖を覚えるほどに巨大な翼。

 どちらの世界においても『架空の生物』であるはずの化け物が、今、リッカの眼前にいた。




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