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18.きついです全力疾走ドレスでは




(……っ……はあ……はあ……き……きついです、全力疾走、ドレスでは)


 心の中で一句詠みながら、ぜはぜはと息をついてリッカは呼吸を整えた。やたら長いドレスのすそが足にからみついて、体力消費が半端なかったのだ。

 現在地は劇場の表玄関から出て、ちょっと行ったところ。なにか第六感的なもので危機でも察知したのか、ぴたりと立ち止まったユーグの背後で、リッカはばてている。

 夕暮れ時の劇団通りは、家路につく人々とこれから芝居を見ようという人が入り混じって、かなりの混雑ぶりだった。河港沿いの大通りということもあって、屈強な船乗りや忙しげに立ち働く荷運び人の姿も見られ、活気とざわめきに圧倒されそうなほどだ。


(こんな人混みの中で、たった一人を見つけられたら驚きものだと思うけどなぁ……)


 リッカはそう思ったのだが、ユーグはその『驚きもの』をやってのけたらしい。猛禽類もかくやという鋭い眼差しで雑踏をにらみつけ、憎々しげにつぶやいたのである。


「……っ! あの破廉恥な桃色頭は……!」


 見つけたんかい!? とツッコミを入れる間もなくリッカの身体が宙に浮いた。


「うわわ……っ!」


 地面に再び足がつくと、そこは狭い路地。石壁造りの建物と建物の間はひんやりとしていて、すでに夜の領分に入ったかのように暗い。そんな野良猫の天下なスペースに引っ張りこまれたのだと気づいた瞬間、リッカはもっと重大なことにも気がついた。


(な……なんだこの密着度……!?)


 ユーグに背後から抱きすくめられている。

 それを認識したリッカはぶわわっと体温が急上昇した。二人羽織でなければバカップルとかじゃないとありえない体勢だ。


(あとは母子のスキンシップか、越冬中の皇帝ペンギンの親子でも可。……って違う!)


 南極の厳しい寒さをのり切るためでもなければ、こんなにぺっとり触れ合っている必要もあるまい。もがこうとしたリッカは、肩にまわされた腕がびくともしないことに愕然とした。

 さすが騎士、と言うべきなのか。ユーグは細身に見えるくせに、ずいぶんと鍛えられた身体をしているらしかった。触れ合っている背中ごしに胸板の厚さまで分かって、リッカは思わず感心する。


(だけど細マッチョはマッチョにあらず、って所長は力説してたなぁ。…………ってそれこそどうでもいい!)


 リッカは混乱しているようだ。

 混乱しつつもなんとか状況を把握しようとユーグの顔を見上げ、唐突に気づく。 

 ユーグはこちらを見ていない。ひどく真剣そうな顔で表通りをうかがっていた。

 ほっ、と息をついて、リッカは肩の力を抜いた。

 ユーグの意識がこちらに向いていないと分かると、ちょっとだけ冷静さを取り戻すことができたのだ。


「え、えーと……どうしたんですかい?」


 疑問を投げかける余裕すら生まれていたのだが、次の瞬間、そんなものは雲散霧消した。


「黙っていろ。奴は女の声に耳ざとい」


 重くひそめた低音の声が、これまでにないほど近くで鼓膜を震わせたからだ。

 ユーグが身をかがめたせいで、ひたいにシルクのようにさらさらとした銀髪が触れて、リッカは危うく声をあげそうになる。顔が、本当に近い。

 一瞬たりとも表通りから視線を外さないから、ユーグ本人は気づいていないようだった。リッカはあわあわと口を開いたり閉じたりしながら、黙っているしかない。


 それからしばし時が過ぎた。


 1分か2分か、たぶんその程度のごく短い時間だ。けれども心臓が早鐘のように打っているリッカにとっては、とてもとても長い時間に感じられた。

 ふう、と息を吐いて、ようやくユーグが緊張を解く。


「……よし、行ったな」


 心の底からほっとしたという声だった。まるで怪物をやり過ごした子どものようだ。同僚であるはずの桃騎士オリヴィエがモンスター扱いである。

 もう大丈夫だ、とでも言おうとしたのかユーグは目線を落とし、そして硬直した。黒髪にふちどられたリッカの顔が、吐息が触れそうなほど間近にあったのだ。

 ようやく。この時点でようやく、ユーグは自分が、柔らかくて温かい生き物を抱きしめていることを自覚したのである。


「……………………っつ!!!」

 

 湯気が出ないのが不思議なぐらいだった。それほど顕著にユーグの顔は赤くなった。銀髪に見え隠れする耳たぶまで真っ赤っかである。


(肌が白いとやっぱり目立つなぁ……)


 そうのんきに聞こえる感想を抱きつつも、リッカもまた平静であるわけではない。

 目を見開いて、フリーズしているのがいい証拠である。

 そもそも、リッカはこんなに近くでユーグの顔を見たことはない。こんな風に触れられたこともなかった。腕をつかまれて引きずられたり、首根っこをつかまれて背負われたりはしたが、抱きすくめられている今の状況は全く異質だ。

 ユーグは人をよせつけないところがあって、特に女性に対してそれが顕著だ。付き合いの浅いリッカでもそれくらいは理解できたので、敬語をやめて恋人のフリをしろ、と言われた時はわりと困った。あんまり女らしい態度で接したら、十中八九、拒絶されるだろうと思ったのだ。

 けっきょく、冗談半分というかおふざけ混じりのじゃれ合いで落ちついていたのだが。

 こういう風に、ちゃかす言葉も浮かばない状況に追い込まれると、どうしていいかリッカには分からない。

 至近距離で見つめ合ったまま二人は硬直し……派手な騒音に硬直を解かれた。

 がこっ、べきょっ、ぱきーん、という、何かが落ちて、砕けて、飛び散ったような三段構えの音がしたのだ。

 音がしたのは路地の奥。

 ユーグはそれまで硬直していたのが嘘のように素早く動き、リッカを背にかばう。

 剣の柄に手をやり臨戦態勢になったユーグの後ろから、リッカもまた暗がりに目を凝らした。

 西日も差し込まない路地は暗く、奥の方はほとんど闇に近い。片側に積み上がっている物が樽なのかゴミなのかも判然としないが、その小山の陰から人影が姿を現したのは見て取れた。

 その人物は一歩、二歩とこちらへ歩みよってくる。ぽきり、ぺきりと乾いた木でも踏むような音がした。どうやら辺りには木片が散らばっているようだ。先ほどの騒音は木箱か何かが落ちて、壊れた音だったのかもしれない。

 あと十歩ほど、という距離になって、リッカは呆然とつぶやいた。


「…………ルイ、なんでここに」


 王立薔薇園、庭師見習いの少年がそこには立っていた。

 ぎゅっと唇を引きむすび、全身に力を込めて、こちらをにらみつけている。もともと目つきが悪い子どもなのに、そうするといっそう凶悪な目つきとなり、黄緑の瞳が鬼火のように燃えていた。まるでリッカを憎んでいるような、けわしい眼差しである。


「良い御身分じゃねぇか、リッカ。このクソ忙しい時期に、騎士様と乳繰り合ってるたあ、呆れたもんだぜ」


 吐き捨てるような口調に、リッカは身をこわばらせた。

 ルイ少年の口が悪いことなどいつものことだ。常ならば、リッカもすぐに言い返せただろう。ルイだって薔薇園を抜け出して、こんなところにいるのだ。反論のしようはいくらでもある。

 しかし、頬にかあっと熱が集まるのを感じて、リッカは声を出せなかった。さっきの状況を人に見られていたと思うと、恥ずかしいやら叫びたいやらで言語中枢が麻痺しているようだ。なにか言い返したいのに、顔が更に赤らんでしまう。

 その様子がますます気に食わなかったのか、ルイは刺々しい言葉を吐いた。


「姿が見えねぇと思ったら、騎士様とおデートだって聞いてよぉ。ひやかしに来てやったら、こんな場所でいちゃついてるじゃねぇか。あぁ? なんだ? 盛りのついた猫みてぇに、こんなとこでおっぱじめようってか? は、ずいぶんと大胆なこって……」

「黙れ、小僧」


 凍てついた刃のような声が、一瞬にして空気を変えた。

 リッカにはユーグの背中しか見えなかったが、彼が怒っていることは分かった。それも、かなりのお怒りだ。路地に満ちた怒気は、痛いほど冷ややかで、どんな猛者でもひるませる類のものだった。

 筋金入りの悪ガキであるルイも、ぐっ、と詰まる。かすかに顔を青くして、半歩下がった。なんとか踏みとどまっている様が、傷を負った子犬のように見えたのは力の差が歴然としすぎていたからだろう。歯を食いしばってユーグをにらみつけ、細い肩を震わせるのが精一杯の様子だ。


「…………覚えてろよ」


 くやしげに言うと、ルイは身をひるがえした。

 小さな身体をいかして、狭い路地を奥へ奥へと一目散に駆けていく。この先は路地裏が複雑に絡み合い、迷路のようになっているらしかった。野良猫か子どもでもないと入り込めない迷路である。


「ちょ……ルイ! 危ないから戻ってきなさい!」


 もう日が暮れる。

 そのことを思い出したリッカは慌てて叫んだ。ユーグを押しのけて、ルイを追おうとするも、路地に散乱した木片につまづいてしまう。

 転ばずに済んだのは、ユーグが腕を取って引き戻してくれたからだ。

 よろめきながらも顔を上げると、小さくて細いルイの後ろ姿はもう見えなかった。まるで路地の奥にわだかまる暗闇が、ルイを飲み込んでしまったように思えて、リッカはぞっとする。


「ルイを、追わないと」


 焦りを声ににじませたリッカに、ユーグは首を振った。


「もう遅い。この奥に入り込むのは不可能だ」

「でも連れ戻さないと。……夜の街は、人さらいが出るから」


 その単語にユーグの顔にも苦いものがよぎった。

 シェーヌ王都は大都市である。行方不明になる子供はいつも絶えなかった。夜に使い走りに出た御用聞きの子が、暗くなっても遊んでいた子供が、路傍で起居する家なし子が、こつぜんと姿を消す。都市警察のような機能も有している王立騎士団は、行方不明の訴えも扱っていた。

 子供が消える。そんな訴えが爆発的に増えたのは数ヶ月前。

 それと並行して王都には奇怪な噂が流布していた。


『顔のない人さらいが、綺麗な顔の子供を集めている』


 人さらいはフードを深くかぶっていて、のぞきこむと顔がなく、霧のような闇ばかりが見えると言う。

 だから夜に外を歩いてはいけないよ、という子供相手の教訓話のような怪談がまことしやかにささやかれているのだ。

 王立騎士団も巡回を増やすなどの対策は取っているものの、解決には至っていない。奴隷商人の一件で、人さらいもドゥルリアダ王国の関与が疑われているところだ。


「ルイも目つきは悪いけど、意外と綺麗な顔をしてるから……目つきは悪いけど狙われるかもしれない。目つきは悪いけど」


 やたら『目つきは悪いけど』をリッカは繰り返したが、本当にルイを心配しているらしい。戻ってこないかと路地の奥を見つめていたが、そんな気配がみじんもないことを悟るとユーグに向き直った。


「私はルイを連れ戻しに行かないと。行きそうな場所には心当たりがあるから。……ユーグは王立薔薇園に戻ってる?」

「馬鹿を言うな。女一人を置いて行けるか」

「うん、まぁ、ユーグならそう言うと思ったけど……。でもさ……」


 珍しく歯切れの悪いリッカに、ユーグはいらいらと言いつのった。


「なんだ? 時間が惜しいのだろう、さっさと言え」

「うん、じゃあ、さっさと言うけど……ルイが向かったのってたぶん色街だよ」

「……………は?」


 ユーグは数日前の夜にルイをふんづかまえた時のことを忘れていたらしい。ルイが、色街の極上女たちに会うんだ、とかなんとかわめきつつ脱走しようとしていた時のことを。

 ぽかん、と口を開けたユーグを見上げ、リッカは決まり悪そうに続けた。


「ルイをかわいがってくれてる夜のおねーさまがいる娼館が、行きそうな場所の第一候補なんですよ。それでも一緒に来ますかい?」


 掛け値なしの事実を告げるリッカの声は、どこまでも力がなかった。





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