わたしの弟でしかない弟
放課後、樹に言われたとおり教室で待っていたが、彼は迎えに来なかった。
携帯を取りだしても、彼からのメールは届いていない。
「どうしたんだろうね」
一緒に待っていてくれた利香も不思議そうに首を傾げた。
「靴箱に行ってみるよ」
わたしたちは荷物を整えると、二階の樹の教室がからになっているのを確認して、一階の昇降口に行く。だが、樹の姿はどこにもない。
家に帰ったのだろうか。
電話をしてみようと携帯を取りだしたとき、昇降口の外を覗いていた利香が声を上げる。
彼女はわたしを手招きすると、右手のほうを指さした。そこは自販機がある靴でも上履きでも出入りがしやすい場所だ。
ベンチがいくつから並んでいて、樹の姿があったのだ。
彼はベンチに座り、項垂れていた。
わたしは慌てて樹に駆け寄った。昨日の今日で、彼が体調を崩していてもおかしくはない。
「体調が悪いの?」
樹は驚いたように、顔をあげ、首を横に振る。
「考えごとをしていただけだよ。帰ろうか」
その表情には、昨日までの元気な様子は微塵もなく、疲労の色が見え隠れする。
「本当に大丈夫?」
大丈夫と頷く樹と一緒に、昇降口で心配そうに見ていた利香に声をかけ学校を出る。
樹は一言も口を開かなかった。
わたしも彼に無理をさせまいと、話しかけるのを控えていた。
玄関の鍵を開けると、樹を先に家にあげた。
彼は玄関先で足を止める。
「姉さんはいつもと同じなんだな」
「同じって」
「今日、告白されていたのに、いつもと変わらないんだなって思った」
「知っていたの?」
「偶然聞いた」
人気がない静かな空間だったことが、逆に聞きやすい状況を作ってしまったのだろうか。
わたしは無言で頷いた。
「姉さんのことを好きになってくれる相手がいたんだな。よかったな。付き合うんだろう?」
思いがけない言葉にわたしの時間が止まった気がした。
「半田先輩優しいし、いい人だし、俺も安心して任せられるよ」
「そうだね」
そう応えるが、もうわたしは断ってた。
樹を忘れられないから。
一方的で抑圧的な態度を取られたほうが何倍もよかった。
半田君の趣味が悪いだの、断れだの言ってくれたほうがいい。
樹の言葉は弟としてはごく当然で、わたしに興味がないということを知らせるものだった。
分かっていたはずなのに、今更、そんなことで胸を痛めている。
あきらめないといけない、過去にしないといけない。いくら心を取り繕ろうとしても、すっとその頑張りが砕け散っていった。奇跡のようなものに賭けてきたわたしの罪なのだろう。
一方的な独占欲でも良い。付き合うなと言ってほしかった。
「前向きに考えるよ」
わたしは断ったとは言い出せずに樹に嘘を吐いた。
そんなことは今のわたしには無理だと分かっていたし、半田君にも失礼なことを言っていると分かっていた。
わたしは精一杯の笑みを浮かべた。
一瞬、樹の顔が引きつるのが分かったが、それ以上彼の顔を見ることなく部屋に入った。
暗い部屋の中で座り込んだとき、目から熱いものが零れ落ちているのに気付いた。
それを床にこぼさないように、何度も手の甲で拭った。
翌日、既に樹の姿は家になかった。
彼は母親に、友達と約束をしていると言い、早く出かけたそうだ。
夕食時も樹はわたしと顔を合わせようとはしなかったため、ある意味想定できたことだ。
わたしはいつも通りの時間に家を出ると、天を仰いだ。
「本当にわがままなんだから」
中学の時は間に日和が入ってくれていたからだろうか。わたしと樹の関係がここまでこじれることはなかった。
彼が同じ高校に入ってからは、仲良くなっては喧嘩をしての繰り返しだ。喧嘩といっても、樹が一方的に怒っていたような気がした。だが、今回のはわたしが悪い。彼の発言は弟としては何もおかしくない。付き合うなとか、わたしが期待している言葉を口にすることの方がおかしいのだ。
わたしと彼は姉弟なのだ。
それでもわたしはやっぱり樹が好きで、きっとこの恋心も、わたしと彼の関係をややこしくしている一因なのだ。時間が経てば、この思いを過去にできるのか。樹への気持ちに気付いたばかりのわたしにはよくわからなかった。
昇降口で半田君と顔を合わせる。
彼は意外そうな顔をして、わたしを見た。
「今日、弟さんと一緒じゃないんだ」
「今日は用事があるらしくて、早めに登校したみたい」
彼は一瞬、眉根を寄せた。
「昨日のことが関係あったりする?」
わたしはどきりとしながらも、あいまいに微笑んだ。
「そんなことないよ。たまたまだよ」
「ならよかったけど、二人の関係がこじれたら申し訳ないからさ。俺のただのわがままで」
「そんなことないよ」
わたしは苦笑いを浮かべた。
本当に彼はいい人なのだと実感させられたのだ。
彼をふったわたしのことをこうして気にしてくれていた。
上履きに履き替え、半田君と教室に向かいかけたわたしの名前が背後から呼ばれる。
その時、わたしに流れる時間が一瞬とまっていた。
わたしを呼び止めたのは、佐々木さんだったのだ。
彼女は長い髪の毛を整えると、短く頭をさげた。
「俺は先に行くよ」
何かを感じ取ったのか、気を聞かせてくれた半田君の言葉に頷いた。
彼女は頭をぺこりと下げた。
「ごめんなさい」
「気にしないで。何か用だったの?」
「先輩に聞きたいことがあるんです。お時間は取らせません」
「いいけど、どこで話をする?」
彼女は会釈すると歩き出す。そして、自販機の近くまで来ると、胸に手を当て、深呼吸をした。
幸い、朝の時間ということもあってか人気がない。
「お呼びしてしまって申し訳ありません。聞きたいことがあったんです」
「何?」
十中八九、樹のことだろうと思いながら、気づかない振りをして問いかける。
「藤宮君の好きな人って誰かご存知ですか?」
「好きな人……? 佐々木さんじゃ」
わたしは慌てて口を押えた。今までずっとそう思い込んできたためだ。
それは利香には一応否定されていた。
だが、樹の言動からして、彼女以外の誰かとは考えにくい。
「分からない」
「そうですか。お姉さんならご存知かと思ったんですが……」
彼女の声は辺りの雑踏に飲み込まれそうなほど、徐々に小さくなっていった。
彼女はかなしげに微笑んだ
「やっぱり無理だったのかな。一度振られたあと、田中さんから大丈夫って言われて、期待してしまっていたのかな」
「田中さん?」
わたしは思いがけない言葉にドキッとする。
「田中恵美さんといって、わたしと藤宮君と同じクラスなんです」
「顔は知っている。何か言われたの?」
「断られたあとに、彼女から藤宮君に告白したのかって聞かれたんです。断られたと話をしたら、彼女からきっと大丈夫だからもう少し頑張ってと。藤宮君に迷惑がられるかもしれないと思いながらも、どうしても忘れられなくて、藤宮君を休みの日に誘って遊びに出かけたりしていました。彼も自分のことを少しずつ話してくれるようになってきて、可能性も少しは出てきたのかなと思っていたんですが、今朝、はっきりとわたしとは付き合えないと断わられたんです」
彼女の目にうっすらと涙が浮かんだ。
樹の用事は彼女だったのだろう。
そして、彼女はいてもたってもいられず、わたしに会いに来たのだ。
同時に樹が今朝彼女を振っていたということに驚きを隠せなかった。
彼女は目にたまった涙を拭った。
「こんなところで泣いたらダメですよね」
彼女はわたしから目を逸らす。
「失礼かと思ったんですか、お姉さんかとも聞きました。そしたら違うと。好きな人がいるからわたしとは絶対に付き合えないと断られたんです」
なぜそこでわたしの名前が出てくるのかよくわからなかったが、彼女の口から発せられた好きな人の言葉に、胸が針に刺されたように痛んだ。




