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わたしに抱きしめられた弟

 わたしは重たい頭を抱え、階段を下りていく。ちょうど、ロングスカートに白いニット姿の日和と顔を合わせた。

 眠っていると、扉が開き、日和が入ってきたのだ。彼女は小梅ちゃんと約束をしたたため今日は家をあけると伝えにきたのだ。


 まだ、利香たちとの約束には時間があったが、折角起きたのと、わたしも数時間以内には家を出ないといけないため、起きることにしたのだ。


 両親は昨日から旅行に行って家をあけている。


「一応、声をかけたほうがいいと思って起こしたんだけど、ごめんね」

「わたしも起きるところだったし、構わないよ。いってらっしゃい」


 わたしはあくびをかみ殺す。

 彼女を送りだし、リビングに戻り、時刻を確認する。まだ八時を回ったばかりだ。彼女から早い段階で家を出ることは聞かされてはいたが、ここまで早く出ていくとは思わなかった。今日は小梅ちゃんの家で一緒に試験勉強をするらしい。


 わたしも焦らないように準備をしよう。

 そう思うと洗面所に向かうことにした。


 わたしは樹の部屋の前で深呼吸した。

 今は十一時過ぎ。利香たちとの約束の時間が一時間後に迫っていた。

 なぜ樹の部屋に来たかと言えば、彼とは今日一度も顔を合わせていないのだ。 


 そもそも佐々木さんに告白をされた辺りから、樹との関係が壊滅的になり、ほとんど話をしていない。一緒にいても会話が止まると息苦さを感じていた。

 こうして樹に声をかけるのにも妙な緊張がある。


 日和が家にいてくれればよかったが、今はないものねだりをしても仕方ない状況だ。わたしは重い心を振り払い、ノックする。

 だが、返事はない。


「樹?」


 名前を呼んでも無反応だ。

 わたしは妙に思い、扉を開けてみた。

 樹がだるそうにしてベッドから起き上がる。


「大丈夫?」

「大丈夫。今日、出かけるんだよな。悪いけど、鍵を閉めておいてくれ」

「どうかしたの?」

「頭が痛くて、体が重い」

「熱は測った?」


 わたしは樹の額に触れる。心なしか熱が高い気がする。


「熱なんてないから大丈夫だよ」

「ダメだよ。測ろう。薬も持ってくる」


 だが、立ち上がろうとしたわたしの体に樹の手が伸びる。


「どこにも行かないでほしい」


 彼の体がわたしの体に伸びてきて、わたしの体を抱きしめていた。だが、その力は弱く、もたれかかっているというのが正解だろう。

 熱があるから弱気になっているのだろうか。


「樹?」


 その返事のように、彼はわたしにより体を寄せてきて、余計に体が密着する。彼の息がわたしの首に触れ、自ずと顔が熱くなる。

 約束を守らないといけないのは分かっていた。だが、この状態の樹を放ってはおけない。

 利香や亜子もいるし、わたしが抜けても平気だろう。半田君には謝らないといけないけれど。


「分かったから。行かないから離して」


 彼の体が離れ、再びベッドに倒れる。わたしは高鳴る鼓動を抑えながら彼に布団をかけた。


 わたしは利香にメールを送り、事情を簡単に説明する。親が旅行中で、日和も家にいない。樹が熱を出して一人にしておけないので、ついておきたいというものだ。


 利香からはすぐに返事が届いた。そこにはお大事にと、半田君たちには自分から説明しておくというものだ。樹と仲が悪いのを知っているので、深く追及されるのではないかという気持ちもあった。だが、何も聞かれずに安堵した。


 樹の部屋に戻り、彼に体温計を渡すが、その手取りがおぼつかない。

 彼はわきになんとか挟むと、そのまま横になる。


 電子音がなり、彼から体温計を受け取ると、三十九度近くを指していた。

 あまり熱を出さない樹にしては珍しい。


「今日は家にいるからゆっくり眠っているといいよ」


 目を潤ませた樹の手がわたしの手首をつかむ。


「わがままを言ってごめん」

「仕方ないよ。お父さんもお母さんもいないし、日和も出かけちゃったしね」


 彼は頷くと、そのまま寝入ってしまった。


「子供みたい」


 樹の寝顔は少年のようにあどけなかった。

 わたしは樹の額に触れた。

 まだ彼は十五歳で、少年といえば少年なんだろう。

 わたしも一歳違いなので、似たようなものには違いないが。


 春先は綺麗だったはずなのに少し荒れた肌に触れ、わたしの知らない樹の悩みがある気がした。

 今、樹を悩ませるとしたらあの子だろう。

 樹はわたしにしたようにあの子を抱きしめたり、キスをしたりしたのだろうか。


 弟が熱を出して苦しんでいるのに、わたしはそんなことを考えてしまい、戒めの気持ちを込めて頬を抓った。


 家にいて時々様子を見ればいいのは分かっていながらも、樹の部屋を離れられず、ほぼ一日彼の部屋で時間を過ごした。


 だが、彼の部屋のものを触るのは気が咎めたので、雑誌や本を持ちこんで、それを読んで時間を過ごしていた。


 時折、樹は目を覚まし、わたしに謝っていた。

 積もる謝罪の言葉とは裏腹に、心なしか彼の顔が綻んでいるような気がした。



 夕方前に日和が帰ってきた。

 彼女は扉が開く音を聞きつけ、階段まできたわたしを見ると目を見張る。


「もう帰ってきたの?」

「今日は断ったの。樹が熱を出して、出ていきにくくなっちゃった」

「熱? 樹が?」

「今は眠っているけどね」

「そっか。最近、あまり眠ってなかったみたいだから、無理がたたったのかな」


 日和はあごに手を当て、何かを考えるようなしぐさをしていた。


「眠ってなかったって何していたんだろう」

「勉強じゃないかな」

「二学期の中間テストだってよかったし、勉強ばっかりしなくてもいいと思うんだけど」

「さあね。樹って意外と馬鹿だしね。お姉ちゃんがついているなら、わたしはもう少しして見舞うよ」


 わたしが言えば反論されそうなことを言い、日和は自分の部屋に戻っていった。

 樹の部屋に入ると、さっきまで閉じていた彼の目は開いていた。

 彼はゆっくりと起き上がった。


「ごめん。起こしちゃった?」


 樹は首を横にふる。


「日和と話す声が聞こえたから。今日、約束があったんだよな。本当にごめん」


 彼は頭を下げる。

 彼の頬の赤味も心なしか緩和した気がする。


 わたしは樹のところに行くと、彼の額に触れる。少し熱が下がったような気がする。そして、そのまま頭に手を回し、抱きしめた。


 樹を好きだという気持ちよりは、一種の保護欲が働いたのだろう。だから、拒まれる可能性を一切考慮していなかった。

 自分の胸が高鳴るのが分かったが、樹の温もりが不思議と心地よい。


「姉さん?」

「大丈夫だよ。樹が元気になってくれたほうが嬉しいもの」


 久しぶりに彼に素直な気持ちを伝えられた気がしてほっと胸をなでおろす。


 その時、階下から両親の話し声が聞こえた。

 両親には旅行を楽しんでほしかったため、樹のことは言っていない。樹も言わないでほしいと懇願していたのだ。


「お父さんたちに話をしてくるね」


 樹が頷いたのを確認し、彼の頭から手を離す。

 まだだるいのか、熱のせいなのか、彼の目元が少し潤んでいた。


「もう少し寝ておくといいよ」


 彼が横になったのを確認し、一階に降りる。そして、両親に事情を説明した。


 あまり体調を崩さない彼の異変に両親は驚き、わたしはどうしていってくれなかったのかと母親に言われた。そんなお母さんを樹のお父さんがなだめる。その後は両親が樹につきっきりとなり、その日は樹と顔を合わせることはなかった。


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