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わたしの顔を見に来た弟

 夏休みも半分以上が過ぎ、手つかずにいた宿題が少しずつ気になる時期に入ってきた。

 英語の辞書をめくっていると、ドアがノックされる。

 返事をすると、樹が顔を覗かせた。


 キスをされて二週間が過ぎ、わたしはいつもの日常を取り戻しかけていたのだ。

 ぬいぐるみとキスをしたのと同じだと、必死に言い訳をして、やりようのない気持ちを押さえつけていた。

 その間、樹は昔に戻ったかのように、私に対して冷たい態度をとってきていた。

 だからわたしもできるだけ他人行儀な態度を取り繕い続けていたのだ。


「何?」

「勉強を教えてほしいんだけど」

「日和に教えてもらえばいいじゃない。向こうの学校のほうが進むのが速いみたいだし」


 それは彼に教える自信がなかったのと、彼とあまり一緒にいたくなかったためだ。


「日和は越谷さんの家に行くんだってさ」

「わたしが分かる範囲なら教えるよ」


 本当はノーを突きつけたかったが、それを口にすることで無駄に彼を意識しているという証明になる気がして、喉まで出かかった言葉を飲み込む。

 お礼を言い、樹はドアを閉め部屋の中に入ってくる。そして、薄い問題集をわたしの前に差し出した。


 問題集をざっと眺めると、軽くめまいがする。高校一年で習った内容ということは分かるが、難易度が教科書のものとはわけが違う。わたしは顔を引きつらせ、その問題集の表紙を確認する。それは受験に出てきた問題をまとめたものだ。


「もうこんなの使っているの?」

「習ったところだから分かるかなと思ったんだけどいまいち分からなくてさ」


 教えると言った手前、分からないとは言えず、回答を見ながら問題の意図と解き方を理解した。そしてそれを樹に説明する。

 彼はそんな怪しい教え方でも納得したのか、頷いていた。


「俺もここで勉強するよ」


 樹はそういうと、出しっぱなしになっているサイドテーブルの上に問題集を置くと部屋を出て行った。ノートを手に戻ってくる。


「本気?」

「本気」

「自分の部屋で勉強したほうが集中できるよ」

「これ、教えてほしい」


 わたしのアドバイスを無視し、樹はそう声をかける。


 わたしはサイドテーブルまで行くと、その問題を覗き込む。幸い、その問題は以前といたことのあるものだ。わたしは彼に解き方を説明した。樹は頷きながら、わたしの解説を聞いていた。


「分かった。ありがとう」


 彼はそういうと、ノートを開き、問題を解き始めたのだ。


「自分の部屋でといたほうがいいと思うよ」

「千波が部屋に閉じこもってばかりいるから、顔をみたかった」


 耳元でささやかれた、思いがけない甘い言葉に顔が真っ赤に染まる。

 それはあのキスの影響だろう。


「変なことばかり言わないでよ」


 戸惑いを隠すために、わざと強い口調で言い放つ。


「本気だよ。そんなに無意味な嘘はつかない」


 樹はわたしと目が合うと優しく微笑んだ。

 まるで花火大会の日にキスしたあとのような笑顔で。

 わたしの顔が反射的に赤く染まる。


「この前、俺としたことでも思い出していた?」

「バカなこと言わないでよ」


 わたしは顔を背けると、ノートに視線を落とす。

 わたしのペンを持つ手に指一関節分大きな手が重ねられた。

 それに驚き、顔をあげると至近距離に樹の顔がある。


「俺は思い出していたけどね。千波を見るたびに」


 彼の体がわたしに近づいてくる。

 わたしが目を閉じると、笑い声が聞こえてきた。

 目を開けると、彼が愉快そうに笑っている。

 からかわれたのだ。


「本当は期待していたんだ」

「そんなわけない」


 わたしは強い口調で否定する。だが、目を閉じてしまった手前、声が上ずる。わたしの迷う心を見透かしたかのように、語尾が震えた。 


 樹の手がわたしの頬に触れる。

 彼の瞳にわたしの姿が再び囚われる。


「もうからかいにはのらないから。早く宿題をしなさい」


 だが、彼の手は離れない。わたしもその目に捉えられたままだ。


「拒むなら、嫌と言われればもう二度としない」

「そんなこと言われても」


 わたしには分からなかった。

 樹とキスをしてから、自分の気持ちがどうなのかはっきりわからない。

 ただ、少なくとも嫌ではなかったという記憶がただされるがままになっていた。


 どれくらい時が流れたのかは分からない。

 長かったような気もするし、逆に一瞬だったような気もする。

 樹の顔が近づいてきて、そのままわたしの額にキスをしてきた。


 彼の唇が、わたしの額にキスの感触を残したまま離れていく。

 樹の手がわたしの頬から離れ頭に伸びてきた。そして、手のひらでわたしの頭を撫でる。


「何?」


 わたしは思わず額に手を当て後退する。


「なんとなく」


 樹は頬を赤らめ、どことなく幸せそうだ。

 額だったけど、樹とした二度目のキスだ。

 それとも花火大会の日を二回とカウントして三度目のキスになるんだろうか。

 樹はわたしのことをどう思っているんだろうか。


 彼は再びペンに触れ、ノートの上を走らせた。

 そして、わたしをちらりと見る。


「俺以外のやつとこんなことするなよ」

「こんなことって」

「さっきしたこと」

「そんなのするわけないじゃない。そもそも樹としたのが初めてだったんだから」


 言いながら頬が火照るのが分かる。

 初めては言う必要はなかったかもしれない。

 だが、樹はあどけない笑みを浮かべた。


「俺もかな。俺、嫉妬深いから、千波が他の男と話をしているだけでも、めちゃくちゃ嫉妬してしまう」

「何で嫉妬するのよ」

「何ででも」

「そんなのきりがないよ。普通のクラスメイトでも話くらいはするでしょう」

「俺もそう思う」


 樹は困ったような笑みを浮かべていた。

 樹以外なら間違いなく拒んでいただろう。

 他の人だったらキスされるどころか、体に触れられるの自体が嫌だと思う。

 だが、樹にそうされてもすんなり受け入れていた。

 嫌どころか、心が満たされるような不思議な気持ちだ。


 樹はどんな意図をもって、わたしにキスをしてきたのだろう。


 彼はノートに視線を戻すと、問題を解き始めた。

 わたしはそんな樹を見ながら、深呼吸する。

 さっきの甘い表情はもう微塵もない。

 彼がなぜそんなことを言い出したのか、どうしてキスをするのか。

 樹がわたしを好きなのだろうかという可能性が心を過ぎりながらも、彼がそれ以上の言葉を口にしてくれることはなかった。


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