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鳥頭な勇者は今日も来た。
『マリちゃん、マリちゃん。白衣の天使になれるように衣装を作ってもらってきたよ』
勇者が差し出したそれは、私が着なれていたそれとは違って、ちょっとスリムなラインであることが一目でわかった。それほど大きな差はないが、微妙な違いが動きやすさに与える影響は大きい。
「服の上に羽織っても動きやすいヤツじゃないと着ない。それに打合せは液垂れしても比較的安全なダブルみたいにしてくれ。それから袖口には紐を通して」
打ち合わせもボタンじゃなくて紐で結ぶタイプではある。海から遠い王都では貝ボタンは存在しない。海辺で貝ボタンが使われているかどうかは知らない。カスレに行った時にはそこまで気にしていなかった。ボタンがあったとしても、ボタンホールを開けてかがる技術はあるのか。ループ作って通すんかな。
『ええ~っ、そんなダサいの何に使うの?』
「実験?」
首を小さく傾げてみた。薬品に強くて汚れてもいい服があるなら、色々やってみたいことが無くはない。そしてできるなら、スカートの丈より白衣の裾の方が長いことが好ましい。昔々のことだが、ロングスカートを履いて希硫酸を扱い、わずかに液が垂れたのは失敗だった。濃硫酸には脱水作用がある。希硫酸ならそれは問題にならない。しかしだ。水分というのは蒸発するものである。そして硫酸は蒸発しにくい。つまり、こぼした時には薄かった溶液もいつしか濃硫酸になる。すると生地に焼け焦げを作るものだ。希硫酸に限らず、科学実験において溶液はこぼしてはいけないものだ。いけないものだが、少量飛び散ることがないとは言えない。そのために化学実験中は上っ張りとして白衣などを着用するものであり、もしものためにシャワーがあるものである。この場合のシャワーはお湯ではない。被った溶液を流すためだけに存在するもので、水が降ってくるだけだ。もちろん、風呂があったり、温かいお湯であっても問題があるわけではない。ただ、これを使うときは緊急なので温まるまで待つ余裕はない。バシャッとやっちゃったら、ドバッと流す。冬にはちょっと遠慮したい。
ふむ。実験する前に環境を整えなきゃな。隣の家の方に緊急シャワー付き実験室を作るか。事が起きてから共同井戸に行って水を汲むんじゃ危なすぎるな。シャワー設備の上に水タンクを設置して二階から桶で給水でいいかな。それなりの量の水を貯めるとなると給水も大変だが、何より固定する場所の強度が問題になる。水1Lで1kg、50Lのタンク(結局のところ木製の容器を想定している)で内容重量50kg。理論計算では無いことになる容器の重さも実際に作るとなるとバカにできないものになる。
実験室の上の階に小さな風呂桶を設置するような感じか。栓を抜くのが下からで、入ってるのが水ってだけだ。
普段は抜けなくていざというときには簡単に使えるようにしなきゃなぁ。あ、ついでに実験器具を買うか。となると薬師ギルドか錬金術師ギルドに仮免申請した方がいいな。割引価格で買える。ん?それよりリール商会からせしめよう。あそこには専属薬師がいるし、何より購入に際し私の名前は出したくない。何が作れるかは不明だが、やる気になった私にはいつも投資してくれている。有用なものができた場合には独占販売権を渡さなきゃなんないが、販路を開拓する必要がないから楽だ。自分の存在を出さないで販路を見つけるのは難しい。
『マリちゃん。怪しい薬とか作って悪いことしちゃダメだよぉ。ってか、女医さんでも看護師さんでもなくて薬剤師さん?』
「…いい加減、医療関係から離れろ。自慢じゃないが、性格的に向いてない」
『あっ』
勇者が急に目を見開いた。
『白衣って給食のおばさんも着てる!そっちかぁ』
勇者、お前なんで医療関係だと思ったか忘れただろう。いつの間にか白衣つながりになったらしい。
確かに白衣を着る職種は意外に多い。医療関係に食品関係、研究者にクリーンルームの作業着だって基本は白だ。あ、エステとかもあったかも。学校の先生も着てたな。うん。勇者は色々考えが浅い。
『あ、マリちゃんって料理やんないんだっけ?でも、自分のご飯は作らないけど、仕事でならやるかも』
勝手な想像をしても仕事で作ったことがあるのは、どんぐり料理とマヨネーズと…まだなんかあったような…カルメ焼きくらいだ。どんぐり料理はまあ、愛嬌だ。マヨネーズは乳化でカルメ焼きはカラメル反応と重曹(炭酸水素ナトリウム)の熱分解だ。科学屋が子供たちに理科に興味を持ってもらうために扱うには食欲でも釣れるし、まぁ、及第点じゃないだろうか。
ってか、私の料理の腕を見て、調理関係だと思う勇者の頭はどうかしている。
「食品関係でもない」
『…んじゃあ…マッドサイエンティスト?』
少し考えて勇者が出した結論がそれだった。
なんでそこに行くかなって思うけど、今までで一番近い気がする。
「電送で失敗して蝿人間とか作ったりしてないから」
『改造人間は?』
「人体実験はもめる元だし」
医療関係は面倒だから…材料開発関連だけで十二分。誰かが出向してたよな。誰だっけ?記憶にない。
『爆薬とか毒薬とか』
「法に引っ掛かるものは手を出してない」
毒劇に関しては自分も資格持ってたし。学校を卒業したらついてきただけだが。資格より実務の方を優先してきたから意識したことはない。危険物も合格したから持ってたけど、本人が一番の危険物と言われてたのはなぜだ。
色々巻き込まれる傾向にはあったが、特に他人に迷惑かけたことないし、海外で事件に巻き込まれたのは間違いなく偶然だし、私は解決の方に尽力したハズだし……前世のその辺のことについては忘れよう。誰も知らないわけだし。
『…マッドサイエンティストは否定しないんだ』
いや、マッドじゃない。そこは常識で判断しろよ。ごく普通に社会人やってたよ、多分。
「違う。そもそも、前世なんかどうでもいい」
今の法の範囲は甘い。錬金術がまかり通るくらい甘い。昔できなかったことも今ならできるかもしれない。環境破壊とかする気はないけど、護身に使えるものの開発くらいは許されるだろう。せっかく実験着を貰えるなら…あ、ゴーグルもいるなぁ。そこからやらんと危ないな。安全管理にだけは手を抜いたらいけない。
だからこそ、前世の記憶がうっすらと言えどあることは大々的に広めることはできない。あれがうっすらかどうかはさておき、あるハズのないものを持っているのは変に行動を起こすようなヤツらを刺激しかねない。召喚勇者ほど強ければ、力では屈伏させられないが、か弱い私ではどうにもならない。そのためにリール商会に隠れるし、身体も鍛える。
『マリちゃん。お腹空いた。今日の晩御飯は何?』
結局のところ、勇者にとっても前世はどうでもいい話らしい。
「ポトフとパン」
そろそろ肉類を増やさないと弟がうるさい。
『日本食が食べたい』
「自分で作れ」
『日本食美味しいじゃん。なんで再現しようとしないの?』
「手間に合わない」
『ええっ。おいしいから問題ないよ』
「いや、毎日、黒パンとレバーペーストと野菜スープでいいし」
『マリちゃん。元日本人として変だよ』
「変で結構。そういう日本人が良ければ、探せ。私に構うな」
ビシッと宣言した。
『やだ。マリちゃんがいい』
刷り込みか、刷り込みなのか。異世界で初めて出会った日本の知識を有する者を唯一の仲間と認識してしまったのか。
明らかな間違いだ。そもそも日本という共通点しかないじゃないか。しかもその共通点に大した意味がない。ここはキッパリ赤の他人であることを教え込まないと。
「というわけで、帰れ!二度と来るな」
『どういうわけだよ』
「気にするな。二度と会わなければ問題ない」
『今日は機嫌が悪いんだね。明日、ブランちゃんに甘いもの持って来るから』
妹は甘いものが好きだ。価格と汎用性を考えると
「じゃ、お砂糖で」
『任せて』
勇者は普通に歩いて帰っていった。何だかなぁ。絶対に慣れて来てるよね。このままじゃ、なし崩し的に勇者の相方扱いだ。でも、妹のために砂糖欲しいし、悩ましいな。




