38話 魔王、米の素晴らしさを語る
「魔王。今日は悪魔はいないのか?」
まさか、勇者がいるとは思わなかった。
え? 何? この人何なの?
「置いてきたよ」
内心の動揺を隠すために、淡々と答える。
しかも本日の勇者は、いつもの勇者っぽい鎧装備ではなく、ラフな格好をしていた。
「勇者。ここに来たってことは、私と東州に行くってことで、いい?」
「もちろん、そのつもりだ」
私は今日、勇者に殺されて死ぬ可能性がある。でもそれは勇者も同じだ。そんなにアルフレッド様のことが心配なのだろうか?
「勇者、私は、今日ウェルス卿と話をするだけで、危害を加えるつもりは全くない。
けれども今日私が無事にここに戻って来れなかったら、部下には王都を攻めるように言ってある」
「承知した」
私は自分のために予防線を張った。
私に対して、何の脅しもしてこない、この人は何者なのだろう。
「では、行こうか」
私が、勇者の手を掴んで空に転移すれば、勇者は死ぬ。実は飛べます、なんていう隠し技がない限り、勇者は死ぬ。
そうであるはずなのに、勇者の手に触れようと、伸ばした手が震えていたのは私の方だった。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
「ここは、どこだ?」
「東州の森。あっちに歩くと門がある」
私の言葉に勇者はキョロキョロと周囲を見渡している。
「あぁ、場所はわかった。このまま町を突っ切ると目立つ。裏から回ろう」
勇者はそう言って、さっさと歩き始めた。
颯爽と森の中を歩く勇者の後ろについていく。
おかしい――勇者と二人っきりなのに、私はまだ生きている。
ウェルス卿の安全を最優先するのであれば、ここで私を殺すのがベストなはずだ。
森の中に伏兵がいる? いや昨日の今日で、この森に兵を配置するのは不可能だ。町の中に入ってから私に手を出すのは、私の能力の全貌を知らない以上、勇者的にリスクが高い。恐らくそれはないだろう。やはり私を殺すのであれば、この森の中のはずだ。
それなのに私が生きているということは、勇者は私を殺したくない――いや今のところは殺す必要がないと考えているのだろうか?
でも、勇者は『魔王を倒す』存在なはずだ。
うーん、さっぱりわからない……
まぁ、考えてもわからないことは、考えるのをやめよう。今日のところは、『勇者は私に生きてもらってもよい都合がある』ということにしよう。
黙々と、白金色の髪の背の高い男性のあとに付いて歩く。
地図で場所を示してくれたら、転移で先に行くと、歩き疲れてそんな邪なことを考えていたときに、森の隙間から建物が見えた。
勇者がこちらを振り返る。
「あちらに小さな門がある。そこから領主の館はすぐだ」
そう言って、勇者には珍しく私の全身をじろじろと見た。
今日もいつも通り、真っ黒のローブ姿だ。だが、今日の私はいつもとは違う――
「勇者。下には普通の服を着ている」
今日は領主の館に行って、初めて領主と会うのだ。そのために今日は、王都でオーダーメイドした服を着ている。
店ではもちろん浮いていた。もう二度と行きたくはない。
ローブを脱いで脇に抱える。
「魔王。顔を隠さなくていいのか?」
「できれば隠したいんだけれど、顔を隠して領主の館に行くと目立つよね?」
いや、よくよく考えるとお供に勇者がいる。王都にファンクラブがあるほどの男だ。その存在だけで、十分に目立つことを忘れていた。
ローブ姿に戻るかと頭を抱えていたときに、勇者から声がかかった。
「顔だけ布のようなもので、隠してはどうだ?」
あぁ、そういや王都の高級住宅街でそんな女性をたまに見かけるな。
「わかった。取ってくるからちょっと待ってくれ」
パメラのもとまで転移をして、用件を告げてパメラに布を用意してもらう。ローブのかわりにその布を抱えて、元いた場所まで戻った。
「取ってきた」
さぁこれで顔を隠そうと、布を持ち上げたが、巻き方がわからない。パメラに巻いてもらえばよかったと、四苦八苦していると、
「貸してみろ」
勇者が私の手から布を取り上げて、器用に巻き始めた。さすが、高級感あふれる顔立ちをしているだけのことはある。
「ありがとう」
「では、行くか」
再び勇者を先導に、小さな門に向かって、森を抜けて歩み始めた。
それからは、私はうつむいて勇者のあとに付いていくだけでよかった。勇者のおかげで顔パスで領主の館にすんなり入ることができ、さらに領主がいる部屋の前までメイドさんに案内してもらえた。
それにしても、広い屋敷だ。魔王城と違って低い建物が平面に広がっているため、余計にそう感じる。始めは領主に会うために、この場所に特攻することを考えていたけれど、勇者を連れてきてよかった。精神面では胃に穴が空きそうだったけれど。
勇者と並んで、扉の前に立つと、衛兵さんが扉を開けてくれた。
「レグルスト、久しぶりだね。会えて嬉しいよ」
領主と思われる人物が、手元に積み上げられた紙を処理しながら、親しげに勇者に声を掛けた。40代半ばくらいだろうか、焦げ茶色の髪に白髪が少し交ざっていて、どっしりとした落ち着きがあるが、親しみのある男性だ。
「でも、突然どうしたのかな? 私の覚えでは、君は王都に監禁されてているはずではなかったかな……?」
領主はそう言いながら、顔を隠すように巻いていた布をちょうど外し終えた私に視線を移した。
「その女性は……?」
領主は、勇者と私を交互に見る。
「アルフレッド様。こいつは――」
領主は、私のことを説明しようとした勇者を遮った。
「レグ。私はこれから人と会わなくてはならないのだが,すぐに終わらせよう。すまないが、控えの間で待っていてくれ」
領主はそう勇者にやけに嬉しそうに告げたあと、部屋を出て行ってしまった。
領主の部屋に取り残された私たちは、衛兵さんに連れられて、控えの間に移動した。衛兵さんが部屋を出て行くのを見計らって、勇者に声をかける。
「勇者。領主とやけに親しげだったけれど、親戚とかだったりするの?」
「まさか。私はアルフレッド様に家名を頂いたけれど、単なるこの地方の一小貴族に過ぎない」
「家名を頂いたって、勇者は王都の貴族ではないの?」
白金色の髪に、薄い青色の目で、どこから見てもまさに貴族といったその容貌を見る。
「よく言われるが、違う。私はここの寒村の生まれの庶民だ」
「『ここ』って、勇者は東州出身なの?」
「そうだ。ここといっても、私の村はもっと端――魔族領との境近くだがな」
あそこの出身なのか……華やかな王都とは一転して、しがみつくように生きている、国境沿いの貧しい村々を思い出した。
「まさに今日、その地域の話をするよ」
だから、勇者は私に付いてきたのか。やっとわかった。
やりにくいなぁと思いながら、立っている勇者を見上げる。だけど、たとえそうだとしても、今日話す内容も、私がやることも変わらない。
「勇者。あのさ、家名っていうのは簡単に貰えるもの?」
この世界の貴族というシステムが、私はいまいちよく分かっていない。
「そんな訳はないだろう。私は、アルフレッド様に非常に親切にして頂いてる」
勇者はそう答えながら、嬉しそうな顔をしていた。
勇者は、東州領主ウェルス卿のことを相当尊敬しているのだろう。これまでの行動を見ていると、そう思う。ウェルス卿の方も、先ほどの様子を見ると、勇者を愛称で呼んでいたし、勇者のことを大切に思っているに違いない。
だとすると――
「勇者。今、何歳……? ちなみに私は覚えていない」
「突然何だ? 私は27歳だ」
「ご結婚は……?」
「していない」
そ、そうか……
領主の先ほどの、やけに嬉しそうな態度に一つ心当たりができて――これからその気持ちを私が木っ端微塵にぶち壊すのかと、憂鬱な気分になった。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
「レグルスト様。領主様が、応接室でお待ちでございます」
執事さんに連れられて、ある意味死刑台に向かうような気分で、応接室まで歩く。応接室の扉が開くと、中にいた領主が私たちを見て立ち上がった。
「レグ、すまない。待たせてしまったね」
「いえ、お気になさらず」
部屋の入り口で領主に向かって挨拶をしている勇者を追い越して、部屋の中央に置かれたテーブルの、領主の向かいの席まで移動する。私たちのために用意されたカップは、当然のようにこちら側に2つ並んでいた。
挨拶の済んだ勇者が、テーブルに置かれたカップの並びを見て立ち止まったあと、私の顔を見た。
「勇者。君はそっちだ」
領主の隣の席を指す。私の席の隣にあるカップを、向かい側に移動させた。領主は私たちの行動に、戸惑っていた。かわいそうではあるけれど、理由はすぐにわかるだろう。
私が席に座ると、領主は困惑した顔で私の向かいの席に座った。それを見て、勇者も席に着く。
「悪いが、あそこの彼には出て行ってもらってもいいかな?」
部屋の中にいた、執事に視線を投げながら領主に声を掛けると、領主はいぶかしげに私を見つつも「席を外してくれ」と執事に声を掛けた。
カップの紅茶を飲みつつ、執事が部屋を出て行くのを待つ。うーん、エミリーの家で飲んだやつの方が美味しかったな。
静かな音と共に、扉が閉まった。
「初めまして、東州領主アルフレッド・ウェルス卿。私は――魔王エーネだ」
領主の表情が一瞬止まったあと、疑うような顔で、隣の席の勇者を見た。
「ウェルス卿。勘違いしてもらっては困るが、勇者はあなたを裏切ったのではなく、今日あなたと話をするために来た私のお目付役として付いてきただけだ。
私は、今日あなたに危害を加えるつもりは全くないが、もしそうなれば勇者は私に剣を向けるだろう」
「レグルスト。こちらの女性は本当に魔王なのか」
「はい」
領主は、まだ信じられないと言った顔で私を見ていたが、ふいに私をまっすぐ見つめた。頭の中を切り替えたようだ。
「ご無礼をいたしました。魔王様は、本日私にどのようなご用件でしょうか」
「私はあなたの王ではないし、そうかしこまらなくていいよ。今日は、東州の未来について話に来たんだ」
笑顔でそう告げる私を見ても、領主はもう驚いたりはしなかった。
貴族という生き物を初めて目の当たりにして、その興味深さのあまり――笑みがこぼれた。
「ウェルス卿。私が4年程前から、国境沿いの森のゴブリン退治を行っているのは知っているのか?」
「はい。そのことはレグルストから聞きました」
「単刀直入に言うが、あれは、できれば早めに止めた方がいい」
領主の顔色はあまり変わっていないが、勇者が大きく驚いていた。
「魔王。どうしてだ? そもそもなぜ、ゴブリンを退治していた? それを止めた方がいいとはどういう意味だ?」
勇者が矢継ぎ早に私に質問してくる。
「私がゴブリンを退治していたのは、前も口にしたと思うが、あなたたち人族がゴブリンを魔族の仲間だと勘違いしていたからだ。数を減らせば、今後人族が攻めて来ることがなくなるのではと期待していたのだが、それ自体は意味がなかったどころか逆効果だったな……
あぁ。それで、止めた方がいい理由だが、ゴブリンという生き物は二足歩行だけあって、見た目よりも遙かに知能が高い」
ゴブリンを追い出すために一番始めに使っていた、ただの煙玉はすぐに効かなくなった。今、使用している、刺激剤入り煙玉はまだ使えているが、ゴブリンを巣穴から追い出すために必要とされる数は段々増えていっているし、これもあと数年もすれば使えなくなるだろう。
「全滅させるのが不可能な以上、このまま争い続ければ、いつか私たち魔族であっても手に負えなくなるような時代が来る」
何百年、何千年先かもしれないが進化とはそういうものだ。ゴブリンが、将来ガスマスクを発明しても私は驚かない。
「ここまでは理解できるかな?」
「魔王。なぜ魔族がゴブリンと戦い続ける……?」
勇者の苦々しい言葉に、きょとんとした。
「ゴブリンは、本当にすさまじい勢いで数が増えるんだ。見たことないから理解しにくいかもしれないけど、私たちは毎回死体の山ってくらいゴブリンを殺している。それが半年もしないうちに元の数まで戻るんだ。
現状では、半年ごとに退治しないと、森の中のものだけでは食料が足りず、森からあふれるようになってしまう。そうすれば、以前と同じように、人族領を襲い始めるだろう。
だから、今回、私が相談したいのは――」
「魔王!」
勇者が私の言葉を止めた。
「勇者、なんだ突然」
驚いて勇者に確認するが、勇者は自分自身が声を出したことに驚いた様子で、私から目を逸らしたあとは、口を固く閉ざして答えない。
どうしようかと勇者のことを待っていると、勇者を優しい目で見ていた領主が口を開いた。
「魔王様、私から、一つよろしいでしょうか。あなたは、なぜか我々人族の心配をしているように聞こえるのですが、どうしてでしょうか?」
「どうしてって、ひいては魔族のためだ。あなたたちが楽しく暮らしていけるようになれば、我ら魔族に手を出そうとは思わないだろう?」
「そういうことですか……」
納得してもらえたのかは分からないけれど、領主は考え込むように頷いていた。
さっき勇者は何を言おうとしたんだろう。
「レグルスト、話を続けるよ?」
私が声を掛けると、勇者は手を組んで見つめていたカップから、顔を上げた。
「すまなかった、続けてくれ」
「ゴブリン退治は、継続してやらない方がいい。けれども、突然止めると人族領に被害が出るようになるだろう。
そもそもゴブリンが、魔族領ではなく人族領を襲うのは、すぐ近くに手軽な食料があるからだ。そこでウェルス卿には、国境沿いの村々を、ゴブリンが手を出しにくい位置まで移動させてもらいたい。それには時間がかかるだろうが、少なくとも現在行っている森を燃やして畑を広げるのは、今すぐに止めるべきだ。今はたくさんの作物が得られていても、すぐに土が枯れて、いずれ作物が取れなくなるだろう」
「魔王様、あなた様がゴブリンを退治してくださるおかげで、作物の収穫量は増えております。新たに森を焼くのは止められるでしょう。ですが……」
領主は言いよどんだ。領主の立場では、私の機嫌を損ねたくはないので、なかなか言いにくい問題だろう。
「あぁ、畑を捨てて移動しろなどと、簡単にはできないのは私だって理解している。だから、助けになりそうな案を持ってきた。取りに行ってくるから、少し待っていてくれ」
立ち上がって、魔王城まで転移する。今朝、準備をしていたものを抱えて、領主の館に戻った。
「これだ」
さすがに今回は驚いた顔をしている領主の前に、持ってきた花瓶を置く。中に入っているのは――ぱっと見雑草だ。
「これは……?」
「これはな、稲だ」
かつてのあの世界にあった植物とよく似ているが、雑草化していたし、同じものかは分からない。
「この植物は、水路を整備しなければならないという大変さがあるが、東州に手付かずで残っている南部の湿地帯が使える。また、麦に比べて、同じ面積あたりの収穫量が多いという特徴がある。その上、連作障害が起きないから、畑を休ませる必要はないし、同じ土地を使い続けられる」
「本当に、この植物はそれほど素晴らしいものなのですか?」
領主が、稲の有用性について何も理解してくれない恐れもあったけれど、この領主はその素晴らしさの意味を正しく理解してくれたようだ。
「そうだ。だが、私は、知識としてそういうものだとは知っているけれど、それをどうやって育てるのかという、肝心なことを知らない」
水田、田植え、などの漠然としたイメージはあるけれど、水田の作り方だとか、メンテナンスの方法、いつ田植えをして、どう手入れをするのかなんてことは、農家でなかった私に分かるはずがない。
「ウェルス卿、すまない。これをちゃんと育てるのにはずいぶん長い時間――それこそ数世代かかるような時間を必要とすると思う。だけど、この植物は、この地方にとって必ず役に立つと思うんだ」
そう言って、領主の顔を見ると、領主は無言でテーブルの一点を見つめていた。
そんなに簡単に結論は出ないだろうと、カップを持ち上げて冷めた紅茶に口をつけたとき、
「わかりました。やりましょう」
領主が断言した。
「えっ、今決めなくてもいいんだよ?」
「どのみち、私たちにできることは限られています。今ある森を焼き尽くせば、次に向かうのは魔族領でしょう。魔王様、あなたが、魔族領の土地を我々に貸してくださるのならば、話は別ですが……」
「だめだ。魔族領の国境沿いの平野は、有事の際に戦場にする」
何のために、住民を引っ越しさせたと思っている。
「はい。我々もそのような都合の良いことができるとは思っておりません」
領主は、自嘲するように笑ったあと、花瓶から一本の稲を抜き取った。
「これが、東州の民の希望となる。私は、その希望に賭けましょう」
領主はそう言ってから、覚悟を決めたように私の目を見た。
一人の人間の真剣な目を見つめ返す。
「私たち魔族は君たちよりも長い時間を生きる。私はそれを、最後まで見届けよう」
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
やることが決まれば、領主は私から必要なことを聞き出して、それはもうテキパキと働き始めた。
森を焼くのは領主命令で止めさせることができるけれど、国境沿いの村をすぐには移動させることはできないので、私はこれからもしばらくはゴブリン退治を続けることになった。
東州南部の沼地開拓団は、国境沿いの村々から募集するらしい。うまく行けば、そのまま、南部に引っ越してもらえるだろう。
「ウェルス卿。金はあるかい? こんなこと、国には頼めないだろう? 私からの頼みでもあるから、足りなければ融資しよう」
「魔王様。我々はすでに、ゴブリン退治ということに関して、あなた様に多大な恩を受けております」
「そう? 困ったら言ってね」
私は宿題として、来年までにできるだけ多くの種類の稲を集めることになった。あまりその辺の雑草なんて、気にしてこなかったので、この稲っぽい植物にもいろんな種類があるのだろう。また、世界を跳び回ることになるが、それはもういつものことだ。
「ウェルス卿。最後にいいかな? あなたはアウシア教徒ではないの?」
「建前上はアウシア教徒です。東州のために信じる神がころころと変わる不真面目な信徒ですが」
「ふふ、そうなんだ。魔王も、遠慮なく使うといいよ」
領主は、神に挑戦するような爛々とした目をしていた。
「じゃあ、私は帰るよ。今度来るときは、日が沈んでから、直接さっきの執務室に行くよ」
領主は一瞬何かを考えるように上を見てから、「はい。承知しました」と返事をした。
「魔王。それは……」
勇者がいぶかしげに私を見る。
「殺さないよ、別に。ここまで手配して、殺してどうするのさ」
むっと睨みながら答えてから、「さぁ、帰るよ」と勇者の方に手を伸ばす。
勇者は、そんな私の手を見てから、困ったように領主の方に視線を移した。
「魔王様。失礼ですが、門から入ってきたお客様は、門から出て行かれなくては、管理上少し困ります」
「そっか、そっか、すまない」
門から入るという経験があまりないから忘れていた。
またあの距離を歩くのかと、少し憂鬱になりながら、勇者が開いてくれた扉に続いた。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
やっと森が見えてきて、ぱーっと顔が輝く。
イスカとアーガルがあの丘で待っている、早く帰ろう。いや、そういえば今日はイスカはいないのか……
「魔王」
考えごとをしている最中に、勇者が振り返ったので少し驚く。
「何?」
私の方を向いて、まっすぐ私を見る勇者に、しばらく忘れていた緊張感を思い出した。
勇者の薄い青色の目から、転移で逃げ出しそうになって、つばを飲み込んだ。
「魔王。ゴブリンを退治してくれた件、感謝する」
なんだ、そのことか……私は、こわばっていた体の緊張を解いた。
「あの場所が君の故郷なのはわかったけれど、別に人族を助けることが目的でゴブリンを退治した訳ではない。まぁ、もちろん魔族への心証が良くなれば、いいな、なんて考えはあったけどね」
今更,その話か……そんなことでいちいち驚かすなよと、文句を言いたい気分で、私は答えた。
「魔王。助けられた側からすれば、魔王の目的など別にどうでもいい。やってくれたことには変わりない」
勇者が静かな目でじっと私を見つめる。怒られているように感じて、その目から視線を逸らした。
「わかった、わかった。感謝の言葉を受け取るよ。レグルスト、どういたしまして」
「なんだそれは」
そのとき、勇者が私に向かって、初めて薄く笑った。
「イスカ、アーガル。ただいま!」
「魔王様、ご無事で」
アーガルの言葉がだけが返ってきて、聞こえない声にその姿を探して――頭を掻いた。
「帰ろっか」
「はい」
「あぁ、そういえば勇者!」
危うく聞くのを忘れていた。まだそこにいた勇者に声をかける。
「毎回、毎回、エミリーに頼むのはかわいそうだし、直接君に会うのはどうすればいい?」
「私は、王城の中に住んでいる。王城の私宛に手紙を出してくれ。手紙が私まで届くように、門番に手配しよう」
「わかった」
勇者の部屋さえわかれば、王城の中に直接転移するのだけど、それはさすがにまずいのか。
「魔王。手紙の差出人名に『魔王』と魔族語で書くのは止せ。読める者がたまにいる」
人族の中にも、魔族語が読める人がいるのか。それは良い情報だ。
「じゃあ、差出人名には『エーネ』と記すよ」
「エーネ? そういえばさっき名乗っていたな」
「あぁ、私に名前がないことを教えたら、ユーリスが代わりに付けてくれたんだ。人族領にある花の名前らしい」
いつかユーリスを連れて、見に行こう。そう考えて、私は人族領に行っても,敢えて私の名の花を探そうとしなかった。
何も言わない勇者のあの顔は恐らく――どの花か分かっていないな。
「じゃあね。レグルスト」
「あぁ」
私が東州の役に立つ間は、勇者はきっと私のことを殺さないだろう。
魔王と勇者。
魔族と人族。
この世界に来てから、その関係はずっと変えられないものだと信じていた。
そうじゃないのかもしれない――そう信じたいと、私は願うようになった。




