七章『二つの転機』 その3
二つ目の転機は、五相と知り合って更に一週間後に訪れた。
かつて両親や秋緒の同僚だった剛崎健から呼び出され、瑞樹は三鷹駅近くの喫茶店へと向かった。
「よう、瑞樹君。久しぶりだな」
「お久しぶりです。……そちらの方は?」
既に到着していた剛崎の隣には、スーツ姿の見知らぬ若い男が座っていた。
「先に紹介しておこうか。こいつは春からウチに入った五十嵐だ」
「五十嵐克幸です! よろしくお願いします!」
立ち上がり一礼する動きも、喋り方もキビキビしていた。
「中島瑞樹です。剛崎さん達にはいつもお世話になっています」
握手を交わし、瑞樹は失礼にならない程度に五十嵐を観察する。
剛崎に負けないくらい体格が良く、こうして向かい合うと、大人と子ども程の違いがある。
瑞樹は少し羨ましく感じる。
顔立ちは剛崎と対照的に、いかにも人が良さそうで、坊主頭が更に純朴風を加速させている。
年齢は新入社員ということを考えると、恐らく二十二歳、もしくはプラス数歳くらいだろう。
「野球をされてたんですか」
「なっ、なんで分かったんですか!?」
「手の平が固かったので」
指の付け根、手相で言うところの"丘"にできていた豆が、ガチガチに固くなっていたのだ。
「コイツ、六大学では主砲だったらしい」
「え、凄いじゃないですか!」
「いえいえお恥ずかしい! 自分などまだまだです!」
五十嵐は早口気味に言い、頭を掻いた。
瑞樹は席につき、やってきた店員にアイスコーヒーを注文する。
「すまんな、吸ってても構わないか」
どうぞ、と瑞樹が言うと、剛崎は煙草休めに置いていた煙草を取り、嬉しそうに煙を吹かした。
「良くないとは知ってても、この歳になると、どうにも止められなくてな」
誰ともなくぼやいてから、話を切り出す。
「大学は楽しいか?」
「ええ、充実してます」
「それは何よりだ。それじゃあ今日は、学生生活をもっと充実させてしまう魔法のアイテムを授けよう!」
「魔法のアイテム……ですか?」
剛崎はブリーフケースを開き、封筒を取り出した。
「聞いて驚くなよ、有明コロシアムのチケットだ! しかも特等席だぞ!」
"有明コロシアム"、"特等席"という単語を耳にした途端、瑞樹の顔がぱっと輝く。
「とある筋から入手したんだ。二枚あるから、彼女とでも観に行くといい」
「ほ、本当にいいんですか!?」
「ああ、ウチの連中は庄ぐらいしかEF闘技に興味のあるヤツがいないんだが、生憎この日は仕事が入っていてな」
「ありがとうございます!」
中性的な風貌に似合わず、瑞樹は格闘、特にEF闘技を観ることが好きなのである。
「先輩には……上手く言っといてくれよ」
剛崎は日に焼けた顔をくしゃっと歪ませた。
秋緒は瑞樹が格闘技観戦を好むことを、あまり快く思っていないのだ。
「分かりました」
瑞樹は答え、ちょうど運ばれてきたアイスコーヒーに、ミルクと砂糖をたっぷり入れてかき回してからストローで啜った。
「いつも色々とありがとうございます。僕も何かお返しをしたいんですが」
「そんなこと気にするもんじゃない。それに何度も言うが、君の両親、特にオヤジさんには本当に世話になったんでな。これくらい安いもんさ」
「初代社長はそんな偉大なお人だったんですか」
これまで黙ってレモンスカッシュを飲んでいた五十嵐が、口を開いた。
「そりゃ、凄いなんてもんじゃないさ。強さ、人柄、トライ・イージェスの基礎を作ったカリスマといっても過言ではない。かの先輩ですら……いや、これはいいか」
剛崎は口直しに、ブラックコーヒーを啜る。
「はあ、じゃあ中島さんは偉大な跡継ぎって訳ですね!」
「とんでもない。僕なんかとても……五十嵐さんの方が凄いですよ。高い倍率を潜り抜けて入社したんですから」
トライ・イージェス株式会社は創立以来、実力主義・少数精鋭を社訓として標榜している。
そのため、世間での人気や知名度に反して、求人を出すことは滅多になく、募集がかかっても極めて狭き門であった。
「いえ、自分などまだまだ未熟者です! 先輩方には迷惑をかけてばかりですし、早く会社の名前に恥じないよう、一人前になりたいです!」
「応援してます。ああ、敬語でなくて構いませんよ。五十嵐さんの方が目上なんですから」
「押、押忍ッ! ところで剛崎さん、トイレに行ってきてもよろしいでしょうか」
五十嵐が席を立った後、剛崎が声を低めて瑞樹に言った。
「瑞樹君が入るまでに、アイツのことはみっちり鍛えとくよ。頼れる先輩になるようにな」
「ははは、お上手ですね剛崎さん」
「何を言ってる。瑞樹君も将来的にはウチでバリバリ活躍してくれるんだろう。そのために"契約金"も、もう渡してあるじゃないか」
リップサービスだとしても嬉しかった。
また、契約金といっても、実際に金銭の授受が発生した訳ではなく、大学に入学した時、トライ・イージェスの社員バッジをもらっただけである。
言葉通り本当に入社できると、瑞樹がどうしても思えなかったのには理由があった。
炎を生み出すために必要な、憎悪という感情だ。
トライ・イージェスの精鋭に名を連ねるには、実力だけでは足りない。人間性も重要であった。
これには性格だけではなく、EFを発動させるための感情も含まれる。
安定して能力を使うことが要求され、かつ能力暴走のリスクを避けるためだ。
その観点から見ると、憎悪という感情は極めて危険であるし、実際瑞樹は何度か能力を暴走させかけた経験があるため、自分にはトライ・イージェスに入れる資格がないと考えていたのである。
尊敬する両親の会社に入り、力を役立てたいという思いがない訳でない。
しかし、そこまでの執着もしていなかった。
今はむしろ、秋緒の下で働きたい。
そしてゆくゆくは独立し、彼女のような変異生物駆除業者になれたならという思いの方が強かった。
五十嵐が戻ってきた後、瑞樹たちは適当な世間話をし、店を出て別れた。
帰路へつく瑞樹の歩調は軽やかで、家に戻ってからも高揚感は収まらない。
ついシャドーボクシングなんかをしてみせ、デスクの上に置いた二枚のチケットをチラチラと見る。
チケットを目に入れるたび、闘争本能がチリチリと火花を散らし、心拍数や血圧を上げる。
そんな行為を繰り返している内に夕方になり、秋緒が仕事から帰ってきた。
「何か嬉しいことでもあったのか」
秋緒は、出迎えた瑞樹が醸し出す雰囲気に、しっかりと気付いた。
「分かっちゃいます? さっき剛崎さんから、素晴らしいプレゼントをもらったんです」
ほう、と言い、秋緒はリビングのソファに腰を下ろして足を組む。
瑞樹は冷蔵庫を開け、冷やしたグラスと麦茶を出し、注いでから秋緒の下へ運ぶ。
「ありがとう」
「ところで先生、七月十九日なんですけど、外出しても構いませんか?」
「ああ、構わないが。彼女と出かけるのか?」
「そんな所です」
お伺いを立てた所、あっさり承諾を得ることができた。
あえて、EF格闘技の観戦へ行くとは明示しなかった。
嘘を言えばたちまち見破られてしまうだろうが、逆に正直に言った上で、余計なことを口にしなければ、深くは追及してこないことを瑞樹は知っていたのである。
瑞樹は心の中でガッツポーズを取り、自室へと戻っていった。
そして栞に電話をかける。
「気が進まないなあ」
誘いを耳にした栞の第一声は、案の定芳しいものではなかった。
「やっぱり興味ないよね。いいんだ、無理強いはしない。一応、一番最初に声をかけてみただけだから。誰か大学の連中でも誘って観に行ってくるよ」
予測の範疇であった。
栞が格闘技の類に興味がないどころか、物理的な争いを見ることを恐れている節さえあることは既に知っている。
そのため、最初から栞と一緒に観戦できるとは考えていなかった。一応知らせておきたかったから電話したまでだ。
瑞樹の友人に格闘技好きはいなかったが、誘えば一人くらいは食いつくだろう。
仮に誰も興味を示さず、予定が合わなかったとしても一人で行く。
いや、例え台風が来ようが、ミサイルが降ろうが、変異生物が津波となって押し寄せようが観に行く。
瑞樹の決意は超硬合金よりも強剛であった。
「それじゃあ……」
「……あ、まって!」
栞の声がスピーカーを振動させた。
「……わたし、ちょっと、行ってみたい、かも」
「え、ええええっ!?」
思いもよらない栞の一言に、瑞樹は声を裏返らせる。
「わたしがついていって、瑞樹くんが喜んでくれるなら」
「え、でも、別に無理はしなくていいんだよ」
「ううん、平気。わたし、これからも瑞樹くんと付き合っていくなら、いい加減慣れなきゃいけないし、試合を観ているぶんには別に危なくはないんでしょ?」
「……す、素晴らしいよ栞! 君は本当によくできた彼女だ! 電波に乗って今すぐ君を抱きしめにいきたい! そうそう、全然危なくないから安心してよ!」
瑞樹は心底から賞賛の言葉を贈った。健気で殊勝な心がけを持つ彼女が誇らしく、愛おしかった。
「おおげさだよ。えっと、七月十九日でいいんだよね」
「ああ、細かいことは大学で話そうか。それじゃあ」
電話を切った瑞樹は、思わず本体を握ったまま手を振り上げて跳び上がり、アッパーカットを放った。
まさか大好きな恋人と、好きな格闘技を観に行けるとは。
良いことは続くものだと、すっかり浮かれてしまっていた。
かくしてあっさりと二つのハードルを越えてのけた瑞樹は、七月十九日、栞と共に有明コロシアムへ、意気揚々と足を運ぶのであった。




