三十七章『剣の結界』 その4
瀬戸秋緒は、鋭い目で周囲を見回しながら、慎重に足を進めていた。
ここは一体どこだ。
視界の届く限り、全ての方角に延々と白色だけが広がっている。
何もないし、誰もいない。
霧のようなものがごく薄く、まんべんなく空間内に漂っているが、吸引しても害はないようだ。
暑くもなく、寒くもない。
加えて、地面が妙にフワフワしているが、歩くのに支障はなかった。
重力は普通に作用しているらしい。
先刻、自身を襲った出来事を思い返す。
暴走の止まった瑞樹が眠って少し経った後、剛崎が戻ってくるのを待っていると、突然頭上に鏡が出現した。
巻き添えを食わせぬよう、咄嗟に瑞樹を突き飛ばすのが精一杯で、自分は鏡が放つ光を無防備に受けてしまった。
心身への影響はなかったが、気が付くとこの異様な雰囲気漂う場所にいた……というのが経緯である。
当てもないのに闇雲に移動するのはリスクが大きいと理解していたが、動かずにはいられない。
一刻も早く、瑞樹の所へ戻らなければならない。
せっかく全ての呪縛から解き放って、救い出したというのに。
「……誰だ!」
やにわに、秋緒は立ち止まって声を張り上げた。
研ぎ澄ませた感覚が、今まで何も感じなかった前方に、人の気配が浮かび上がるのを察知したのだ。
「フフフハハハ! 流石だ、瀬戸秋緒殿!」
「その声は……!」
甲高い男の声に、はっとする。
聞き覚えのある、いや、忘れようにも二度と忘れられない声。
秋緒の顔が瞬時に険悪なものに変化する。
「ようこそ、中島瑞樹の精神世界へ!」
声の主――衆寺壊円が、薄い霧の中からその姿を亡霊のように少しずつ顕在化させ、手を叩いた。
秋緒は素早く折れた愛刀を構え、戦闘態勢を取りながら、衆寺の姿を観察する。
先に対峙した奥平久志とは異なり、顔立ちや肉体からは二十数年という年月の経過を感じられない。
白いスーツさえもそのままだ。
同時にすぐ理解した。
「あの男が口にしていたのは虚言ではなかったということか」
「察しが良くて助かるよ。我が一度きりの秘術による道案内、いかがだったかね?」
歌舞伎のように首をぐるりと回し、衆寺は得意気に言う。
「秘術、だと?」
秋緒は記憶を探り始める。
確か衆寺の能力は……空間移動。
「既に御存知と思うが、貴女の想い人、中島雄二によって命を奪われた後、同志・奥平を恃みに辛うじて現世にしがみついたのだがね、肉体が滅んだ私はこの形而上の世界から出ることが叶わない。ならばせめてもの慰みにと、奥平に復讐を任せている傍ら、私は此方で我が情動の力を練磨し続けることにした。
努力は無駄にはならなかった! 長き時を費やした末、遂に発見したのだ! 人の精神から精神へと移動する術を! そして我が力の極地を! ……クククク、まこと人間の心の力とは奥深い! まさかこの世界に居ながらにして、現世へ干渉できる力さえも秘めているのだからな! 我ながら自らの可能性が恐ろしい!
光栄に思って頂きたい! 貴女は我が一度限りの秘術によって、生きながらにしてこの世界に招待された、全宇宙で唯一の人間なのだからァァ!」
「黙れ」
狂気を全身から迸らせての衆寺の演説は、秋緒の冷たい一言で切って捨てられた。
「貴様の戯言になど興味はない。ここから出る方法を吐け。そうすれば一瞬で消してやる」
衆寺は一瞬、目を剥いて両腕を広げた体勢で硬直した。
だが、すぐに大袈裟な挙動で頭を抱え、無情な事実を告げる。
「おお、おお、おおおお! 残念だ。誠に残念なのだが瀬戸秋緒殿、この術は一方通行、もうこの世界から出ることは叶わないのだよ」
「何だと!?」
「考えて頂きたい。秘術は秘められているからこそ秘術。誰も知ることは出来ない。貴女は現世の誰にもこの体験を伝えられない。ゆえに、貴女は帰れない。
……いや? 考えようによっては幸運かもしれぬ。そうだ、貴女は幸運なのだ! 何故なら貴女は生きながらにして、同時に死を体験してもいるのだ! 生と死を同時に味わう! このような体験、二人と出来るものではない! 貴女はやはり光栄に思うべきであり、私に感謝するべきなのだァァァッ!」
秋緒は絶句する。
自分を構成する全てが虚ろになり、取り留めのない思考だけが垂れ流されていく。
死んだ?
もう帰ることができない?
二度と、あの子に会えない?
あれが今生の別れ?
馬鹿な。馬鹿な……
「悲しむことはない。この世界も慣れれば中々愉快なもの。それに良いではないか、ここは中島瑞樹の精神世界。常に彼と魂を共にできるという特権も味わえるのだぞ」
しかし皮肉なことに、衆寺が放った言葉が、絶望に蝕まれるよりも早く秋緒を吹っ切れさせた。
翳りかけた瞳に光が戻り、崩れそうな体に力が漲ってくる。
「…………ふっ、そうだな。最悪でもないか」
「理解してもらえたかね。流石に聡明な女性だ」
このまま、あの子の内側を護る存在となるのも悪くはない。
青野栞、剛崎健、鬼頭高正――外側の世界は、彼女たちがきっと何とかしてくれるだろう。
秋緒は、このような状況下にも関わらず、信じられないほど穏やかな顔をした。
個人としての願望より、瑞樹を護る者としての気持ちが勝ったのだ。
もはや覚悟は決まった。
ならば、自分がすべきことは。
「まずはこの場で貴様を完全に消滅させてくれる! 貴様のような腐敗物を、あの子の心に巣食わせはしない!」
「おおお、瀬戸秋緒殿。そんな冷たいことを言わないでおくれ。折角の機会だ、私と共に彼の中で技を研鑽し合おうではないか。そうすれば」
「くどい」
秋緒の刃なき刀による斬撃が、衆寺を空間ごと横に切り裂いた。
空間移動による退避さえ許さぬ、絶対なる神速の一閃。
衆寺は驚愕に目を見開いたまま、上下に分断されていく自分の体を眺め――煙となって消滅した。
――終わった。
否、これは新たなる始まり。
これから自分は、あの子を護り続けるのだ。
何者にも侵されないように。幸福を掴めるように。
「私が護るから……あなたは何も心配しなくていいから。寂しさはきっと、傍にいてくれる人が埋めてくれるはず。だから……」
秋緒は天を仰ぎ、全ての想いを込めて伝えた。
この言葉がそのまま届くとは限らないが、きっと本質は心に伝わってくれるはずだ。
これから先、瑞樹が現実世界の万物に沙織を感じることはないだろう。
瀬戸秋緒という剣の結界が、彼を守護している限り。
歩く。
あてどなく彷徨う。
疲れはしないし、生理現象もないから、別に構わない。
孤独か。
慣れてはいるが、一体何をすべきか。
いつまでこうして自我を維持できるかは分からないが、精神が鎮まったら、まずは剣の修行でもするか。
「……こんな時も剣のことか。私って奴は」
秋緒が自嘲しながらも色々と思索を巡らせていた時、それは起こった。
奇跡なのか、必然なのかは分からない。
ただ確実だったのは、"起こった"という事実だけである。
秋緒は足を止める。
また気配を捉えたのだ。
しかし、衆寺の時のように気を尖らせはしなかった。
感じた気配に禍々しさが感じられないからである。
それどころか、懐かしささえ漂っている。
まさか、この先にいるのは……
「柚本さん!?」
「うおっ、秋緒おばさん! マジで? マジにホンモノ!?」
懐かしさの正体は、かつて短い時間ではあるものの、瑞樹と共に濃密な時間を過ごした少女・柚本知歌だった。
ビルの屋上では落ちかかっていたメイクまでもがしっかりと復活している。
「ぎゃーっ、ウレシーっ!」
知歌はいきなり秋緒に飛びかかり、抱きついた。
「こ、これは一体、どういうことなんだ」
受け止めた秋緒は目を白黒させて戸惑うばかりだったが、彼女から事情を聞いたことで、段々と得心がいった。
「んっとね、さいごに瑞樹兄と秋緒おばさんのコトをずっと考えてて、いっしょにいたいって思ってたら、いつのまにかココにきてたんだ。もーさびしかったよー! ハラへったりトイレ行きたくなったりはしないけど、だーれもいねーんだもん」
つまり、衆寺と奥平に起こったものと類似した現象だろうと、秋緒は推察する。
「えっと、秋緒おばさんもココにいるってことは……もしかして、死んじゃったの?」
知歌は言い辛そうに、上目遣いで尋ねる。
「まあ……実質的にはそうなるな」
秋緒は苦笑した。
「ココ、天国かな? 地獄かな?」
「どちらでもないよ。ここは、瑞樹君の心の中だ」
「は? イミわかんないんですけど」
知歌がそう答えるのを聞いて、秋緒は思わず吹き出した。
「……まったく、キミは変わらないな」
「そっかな?」
知歌も、ニカっと笑う。
「ところでさ。あたしら、これからどーなんのかな?」
「分からないが、悪いようにはならないさ。私がついている。キミのことも護ろう。あの子と一緒にな」
「じゃあ、瑞樹兄は生きてるんだ」
「ああ」
「よかったー」
「そうだな」
「…………んー」
そこで何故か知歌は首を傾げたが、やがて両手を合わせ、
「ねー、おねがいがあんだけど」
再び上目遣いになる。
「まだよくジジョーがわかんないんだけど、あたしら、とりあえずはいっしょにいられるんだよね? だったらさ……その、あたし、秋緒……さんに、ママになってほしいな、って」
「…………!」
秋緒は、細い目をいっぱいに大きくして、知歌を見た。
全身をわなわなと震わせ、何か言いたげに唇をもごもごとさせている。
「お、怒った?」
しまったと、知歌は誤解しかけた。
が、すぐに秋緒からの返答がやってくる。
抱擁、という形で。
「……私で、いいのか。本当に、こんな私でも」
「い、いたい、チカラ強いって。いーもナニも、ほかにいないっての」
「しかし、私は妊娠したことがないし、乳を与えたこともないんだぞ」
「そんなのカンケーないって! タイセツなのはそんなことじゃないっしょ!? だから瑞樹兄といっしょにいたんでしょ! 瑞樹兄のほうだって……!」
それきり、知歌は秋緒の胸に顔を埋め、泣きじゃくった。
「…………そうだな。その通りだ。……ありがとう」
秋緒もまた、知歌のプリンになった髪を撫でて、嗚咽した。
まさか、こんなことを言われる日が来るとは。
決してなれないと思っていた存在になれるとは。
私は、幸せ者だ。
彼女の魂が、真に救われた瞬間であった。
「私達は親子だ。これから一緒に、幸せになろう」
「やったー! えへへ、ママだママだー」
頭をこすりつけ、知歌は猫のように甘え出す。
秋緒はそれを受け入れ続けて、しばし母性を満たす喜びに浸っていたが、ふと思い出したようにぴしゃりと言った。
「あらかじめ言っておく。母親として、今後喫煙は許さんからな」
「わかってるよぉ。つーかもう吸うのずっとやめてたし。あれ、そもそも死んだんだからべつに吸ってもよくない?」
「そういう問題ではない」
「ぶー、口うるさいママだなぁ」
秋緒から離れ、知歌は膨れ顔を作る。
「やれやれ。あの子と違って、妹の方は随分と手がかかりそうだ」
秋緒もまた呆れ顔をする。
ただし、二人とも本気でいがみ合っている訳でないことは言うまでもない。
すぐにどちらともなく、元に戻る。
「ヤンチャだけどよろしく~」
「厳しく育てていくからな。……それと」
秋緒は微笑んで知歌の肩を抱き、天を見上げた。
「一緒に、あの子を見守っていこう。お兄ちゃんが幸せになれるように」
「うんっ」




