獅子と乙女
どこか遠くでヒイナの声がする。
お疲れが出たのでしょうねと。
誰か知らぬ人の声がする。
あのように弱くいらっしゃって大丈夫だろうかと。
憐憫を含んだ声がする。
雪の種をもらったのでしょうと。
雪の種とはなんだろう。
問おうにも部屋には誰もいない。
足音が消えた後には人の声はしなくなった。
日の光が差すうちから寝台から起き上がれないなど情けない。
サンディアが寝込んでから三日経つが、いまだに体は自由にならない。
ため息は熱いが背中も足先も強張るばかりに冷たい。
どれほどキツク体を抱きしめても、震えは止まらない。
さりさりと雪が降る音がする。
それ以外に音は無く世界に閉じ込められるよう。
目を閉じて、暖かなヒューロムを想う。
おぼろげになる記憶に心が冷える。
このまま、忘れてしまうのだろうか。
ひやりとしたものが頬に触れる。
それが人の手だとわかり、サンディアはうっすら瞳を開けた。
「どうだ」
寝台に座ったロードがサンディアを見下ろしている。
翠の瞳のなかでランプの炎が踊っている。
いつの間に夜になったのか。
大きな体を照らすのはランプの明かりだけだと言うのに銀の髪が輝き、ロード自体が光を発しているかのような錯覚を起こす。
「……陛下。うつります」
「私には雪の種は根付かん」
「雪の種?」
「アリオスではこの時期の風邪は雪の種のせいだと言われている。何かの拍子に雪の種が体に入り病になると」
「そうなのですか」
大きな手がサンディアの額に張り付いた髪を払う。
優しい手つきに再び瞼が閉じてくる。
どうしてだろう。
この男にはヒューロムを思わすところはどこにもない。
それなのに、翠の瞳に覗きこまれれば思い出す。
玉砂利に落ちたサクレの花の赤。
震える娘が差し出した紅の赤。
屋敷のてっぺんで翻る旗の赤。
ヒューロムの誉れと呼ばれた母の赤く染まった指。
一度だけ染まった自分の指先。
サンディアは再び頬に触れたロードの手に己の手を重ねた。
冷たい手だ。
先ほどまで外にいたのだろう。
「どうした。辛いか」
「ここは少し寒いですね」
「寒いのか。何か用意させよう」
慌てて人を呼ぼうとするロードの手をぎゅっと握る。
「……もう少し、ここにいてください」
大きく見開いたロードの瞳が嬉しげにとろけた時、サンディアは己の失態を悟った。
「……誰が寝台に入れと言いましたか」
「寒いのだろう? これで解決だ」
頭の後ろでロードが笑う。
冷たいと思ったのは一瞬だった。
背後から抱え込まれるとほわりと温かい。
とくとくと鼓動が聞こえる。
「…………少しと言いました」
「居てほしいと言ったな」
出ていきそうにない気配に諦めて体を預ければ、更に強く抱きこまれる。
安心している自分がおかしかった。
始めたロードに会った日は、敵のように思っていたのに。
初めてアリオスを訪れた日は、死地に立つような思いだったのに。
「雪は降っていますか」
「朝まで降るだろうな。寒いぞ」
「そう、ですか」
サンディアは目を閉じた。
暖かいヒューロムを想いながら自身に問いかける。
いつかアリオスを恋しいと想うだろうかと。




