祈りと乙女
細く白い指先が、平らな己の腹を撫でた。
まだここに別の命が宿っていると自覚できるほどの印はない。
侍医が満面の笑みで懐妊を告げたけれども、サンディアは「そうなのか」とそれほどの衝撃は受けなかった。
性格なのだろうか。
周りが熱狂すればするほど、己の熱は冷めていく。
どうせ、この子も政に利用されるだけなのだ。
けれど、確かに平らなそこはいつもより温かい気がして、不思議な感覚だ。
まだ生まれもしない子どもなのに、いたるところから祝いの品が届く。
「サンディア! どうした? 腹が痛いのか?」
腹を撫でながら考えに耽っていたせいか、ロードが風を起こし、とんできた。
この人はどうも騒がしい。
「いいえ、痛くはありません」
サンディアがそう言うとロードは二カッと口を大きく開けて笑うのだ。
子どものようなお人だと何度も思ったことだろう。
「そうか。無理はするなよ。少しでもおかしな所があれば医者を呼べ。この中には、私たちの息子がいるのだからな」
ロードはサンディアの腹に頬を摺り寄せると、まだ何も聞こえはしないというのにぴたりと耳を引っ付けて嬉しそうに笑う。
「息子だとなぜわかるのです」
「私には分かる! 男だ!」
そんな馬鹿なと思いながら、この人ならありえるかもしれないとサンディアも笑った。
何気なく梳いた髪は獅子の鬣ようだといわれるには柔らかく心地よい。
生まれてくる子も、これほど見事な銀の髪なのだろうか。
美しい新緑の瞳をしているのだろうか。
梳いていた手は大きな手につかまれ中断を余儀なくされた。
まるで幼い子どもにしてやるような行為に不快に感じたのかと慌てて下を向けば、ロードの瞳に怒りは無かった。
「お前に頭を撫でられたのは初めてだ。良いものだな」
もっとしろとばかりにぎゅっと腰に抱きついてくる。
そのくせ最低限の負担しかかけまいとする姿勢が可笑しくてもう一度、指を通せば満足したように喉を鳴らす。
温かくて、幸せで、全てを忘れてしまいたくなる。
生まれたばかりのルーファを抱いてシェラもまたロードを待っているということも。
供物のようにサンディアを差し出した親族からの手紙の存在も。
この間まで妊娠しないことを詰っていたというのに、懐妊の知らせが届くとすぐに、是が非でも王子を産めという。
「なぁ、息子」
「聞こえませんわよ」
「否、シェラが話しかけるのは良いことだと言っていたぞ」
胸の奥がツキリと痛む。
もうずいぶんと諦めていたというのに、ロードの口から彼女の名がでると針で突かれたような痛みがはしるのだ。
「……そうですか」
ロードはシェラの腹にも同じように縋って、同じように話しかけたのだろう。
「なぁ、息子よ。お前がどんな奴でも構わん。無事に生まれて来い。母親に迷惑をかけるなよ」
いつのまにか髪を梳く手を休めていたのだろう。
ロードは不満を表すように腰に回していた腕の力を強くしたが、サンディアはロードに起き上がるように促した。
「もう、こんな時間ですわ。シェラ殿の所へ。ルーファ殿も待っていましょう」
此処にいてほしい。
側に居て欲しい。
いいや、醜い内面を晒してしまう前にどうか別の場所へ。
サンディアのドロドロした胸のうちなど知らぬロードは時にとてつもなく厄介な相手だ。
今だって、むすりと機嫌が悪いと全面に出す。
そのくせ、ルーファの小さな手に触れるときには、これほどの幸せは他にないと頬を弛ますのだ。
どうしろというのだろう。
後ほんの少しだけ、胸の痛みをサンディアが我慢して髪を梳いてやれば満足なのだろうか。
「シェラ殿も不安でありましょう。初めてのお子ですもの」
「お前は不安ではないのか?」
「私は……」
もう一度平らな腹を撫でた。
不安になるにはあまりにも存在が感じられない。
まだ、こんなにも小さな命にかけられる想いはとても重い。
王子を!
次の王を!
早く早く早く!
弾けた涙は、守るように置いた手の上に落ちた。
冷たい。
熱い。
「早く行ってくださいませ」
ロードの腕から逃れるためにむちゃくちゃに暴れたが、力の差は知れている。
抱きすくめられれば逃げ場などどこにも無い。
涙の溢れる目じりに口付けされても悲鳴すら上げられない。
「此処にいる」
「いって、くださいませ」
怖い。怖い。怖い。
この子はいったいどうなってしまうのだろう。
自分のように利用され傷ついて泣くのだろうか。
罵られ詰られて一生を終えるのだろうか。
不安でたまらない。
「不安ではないか?」
なんて愚かしい質問なのだ。
いつもいつもいつも、ただ安らかな時などひと時とて無かったではないか。
男のロードには絶対に分からない。
怖くて、いつも押しつぶされてしまいそうだった。
「いって」
「嫌だ!」
子どものように泣いてしまいたい。
怖い帰りたいと。
けれど、故郷と決別したサンディアには絶対に出来ないことだ。
だから、つんと澄まして完璧な王妃の姿だけが弱い自分を隠す鎧なのだ。
それなのに、それすら剥ぎ取ってしまうのだ。
なんて酷い人だろう。
そう思うくせに、我を張って縋られてしまえば許してしまいそうになる。
「お前が泣き止むまでここにいる」
「泣いてなどいません」
抱きすくめられて視界が半分になる。
潤む視界に太陽を咥えたカラスの彫刻見えた。
サンディアにとっては異国の神。
アリオスに来て初めて祈った。
英雄王マルス。
この子をお守りください。
戦女神エイナ。
この子をお守りください。
名のない魔物だっていい。
この子をお守りください。
傷つきませんように。
苦しみませんように。
どうか、この子をお守りください。




