5.臨戦態勢―8
そんな状況に、恭介は踊らされていた。琴との噂が立つ事自体に、嫌悪を感じているわけではなかった。ただ、琴が、自分に対して好意を抱いている事は分かりながら、ただ、琴が迷惑するだろうが、と言い訳していた。そして、困っていた。
付き合ってるわけじゃねぇんだからよ、と。
そんな考えを持ってしまっている恭介は、当然、琴が嫉妬していた事にも、琴が美紀と共に教室を出た事にも気づけていなかった。
そこがまた、琴に嫉妬をさせるのだ。悪循環。
それに、気づけない二人であった。
22
隣り街には小雨が振っていた。霧も少し出ていて視界がほんの少しだけ悪い。傘を差す派と差さない派の人間は五分五分で分かれていた。空から見下ろす地上の光景は、妙だった。
足元が悪いが、おしゃれを優先にする若者は足を滑らせながらアーケードのタイルを歩いて進んでいた。アーケードには天井があるが、それでも、人が通れば足元は悪くなっていた。
平日だが、この街に仕事に出てくる人間は多く、夕方五時過ぎのアーケード北は、バス停や駅へと向う人間、晩飯を取る人間で溢れ返っていた。そんな人混みの中を自らのペースで闊歩する女の影。薄手の大きなパーカーのフードで顔を隠した、遠目に見たら性別も分からないようなその姿。身長は、男で考えれば確かに小さい。だが、彼女は女だった。
鼻歌混じりに人混みの中を裂くように歩く彼女は、ある目標を持って進んでいた。
今日こそ、そう思っていた。
彼女はアーケード北の中間辺りにあるビルの中へと入っていった。ビルの中は表で見た通りの、ちょっとしたバーだ。個人店という雰囲気が漂っているこじんまりとしたバーである。雰囲気は極々普通で、どこにでもありそうなそれである。
女が入った時点で客は数名いた。が、気にせず女は、カウンターで接客をしている店主と思われる若いが、何処か危ない雰囲気の男に、
「お疲れ様です。今日も悪くないね」
と言って、女はカウンター横の扉から、店の中の更に中へと入っていった。
店主は、その女の言葉に「あいよ」とだけ呟くように返し、その小さな背中を視線で追ったが、その一連の行動に気持ちが篭っていなかったのは一部の人間だけが知る事実である。
女が入った扉の先は、バックルーム――ではない。入ってすぐには、何もない暗い、三畳程の空間があるだけだった。目を凝らして見れば、そこに降りの階段がある事に気づけるが、女は気づくよりも前に、知っている。女は軽快な足取りで階段を下り始める。階段の途中には証明は僅かしかなく、視界は悪かった。だが、女はつまずくこともなくそれを降りきった。
降りきった先。そこは、『受付』。
広い部屋だった。薄暗いといえばそうだが、スモークがかかったような、クラブに近い薄暗さだった。部屋の中央にはリング状のカウンターがあり、そこには三人の受付嬢と、その上に何かの文字の羅列を映し出すモニターが受付嬢と同じ数だけ会った。四二型程の大きさだった。
そして、辺りにはベンチや似たようなモノ、そして『企画』の様子を映し出すモニターが並んでいて、そこに人が集まったりしていた。ざっと見て、四○人程の様々な人間がここにはいた。それぞれがそれぞれで会話をしたり、モニターを見て、何か考えていたりする。
そこに、女は降り立った。
女はそこでフードを背中に落とす。そうして見えてきた、自身たっぷりな、凛とした表情は――霧島雅。彼女だった。
そう。ここは所謂『闘技場』である。当然、日本にそんなモノは合法では存在しない。そう、合法では。
「霧島雅。リーグエントリーね」
霧島雅は受付嬢に近づき、そう一言言うと、受付嬢は頷き、手元のパソコンを操作し始めた。すると、数秒後に、受付嬢の頭上のモニターに、霧島雅の名前が羅列された。
それを見上げて確認すると、霧島雅は満足そうに口角を釣り上げて、部屋の奥にある扉の中に入っていった。その先は、所謂控え室。霧島雅の他には、一人の、『死体』があった。
霧島雅は、壁際に放置されている、明らかに死んでいるそれを一瞥はするが、特に気にもせず、霧島は備え付けの安っぽいベンチに腰を下ろした。そのまま身体をひねるように振り返って、背後のロッカーを開け、その中に携帯電話や財布等を突っ込んで、そして、一服。
一息付いていたしていた霧島雅にアナウンスの音声が届くのは、十数分してからの事だった。
『霧島雅。入場してください』
この控え室にだけ響く声だった。何処からか流れる音声だが、スピーカーは部屋の薄暗さに溶けていて見つけられなかった。
アナウンスに呼ばれて立ち上がった霧島雅は、部屋の奥に通じる空間へと、溶けるように消えていった。
歓声が場を支配していた。円形のリングが、そこには会った。そして、それを囲むように出来ている客席は、満席で隙間が存在しなかった。客席で騒ぐ連中は歓声と雄叫びを上げ続けて、騒いでいた。
中央のリングは天井まで伸びる鉄柵で囲まれていて、逃げ場がない。
その中に、二人の人影があった。一つはガタイの良い男だった。上半身裸で、下はタイトなジーパン一枚。薬物で強化し続けてきた異常なまでの肉体が身体をより大きくみせていた。男は、挑戦者。
そしてそれに向かい合うのは、霧島雅だった。二人は睨み合いを続け、その場から一歩たりとも動かなかった。まだ、動く時ではないのだ。
二人が動くのは、アナウンスの後。
『無差別級、郷田榊vs、霧島雅の戦いを開始します。ブザーの後、両者とも行動を開始してください』
会場全体に静かに響くアナウンス。そして、そのすぐ後、耳障りなブザーが鳴り響いた。歓声が、更に音量を上げた。
同時、戦いが始まる。
「ふんっ!」
郷田が先手を打った。踏み出し、その巨大な拳を、思いっきり目の前の霧島雅に向けて振るった。その大きさ、速度から、威力は見て分かる。当たれば、郷田の身体の半分もない小さな霧島雅は、一撃でノックアウトしてしまうだろう、と。
悲鳴に近い声が歓声に混じった。だが、それもすぐに歓声に戻ってしまった。
華麗な動きで身を翻して、その一撃を、霧島雅は容易く避けて見せたからだ。
ドッと音量を上げた歓声の勢いに乗るように、身を翻した霧島雅は、その流のまま、郷田の隙のできた懐に、拳の一撃を放った。
衝突音、衝撃音。霧島雅の拳は、郷田の筋肉で固められた水月を突いた。だが、やはり、無駄に増やされた筋肉がその程度の攻撃は防いで見せた。
霧島雅の頭上で、郷田の険しい表情が緩んだ。
郷田の両腕が郷田の懐にいた霧島雅に振り落とされる。
「ッ、」
だが、霧島雅も『熟練者』だ。それは早急で、正しい判断で即座のバックステップで回避した。空を切った郷田の両腕だが、態勢はすぐに立て直された。
どう見ても郷田の攻撃が霧島雅を一撃で倒せるため、会場は郷田の攻撃が放たれるたび、『霧島雅に賭けた者達』の悲鳴が上がった。上がっていた。
だが、霧島雅は攻撃をうまい具合に回避する事で、会場に上がる悲鳴を歓声に戻し続けていた。
(どうしようかな)
霧島雅は、郷田を見上げ、睨みながら考えた。
普通の攻撃では、いくら急所をつこうが、あの無駄に分厚い筋肉が邪魔をしてダメージにすらならない。なりそうにない。
だが、答えは簡単だ。普通の攻撃が通用しないならば、普通でない攻撃をしてしまえば良いだけの話。
霧島雅は、睨み合いを中断した。今度は、自らが攻める番だった。




