10.休戦/帰還―15
そして、香宮の前の地面にただ足跡が浮かび上がり、足音が僅かに響く。
イニスが、いた。当然だ。彼女は既に香宮から話を持ち掛けられていた。このタイミングで仕掛けない理由はない。
イニスは分かっている。
(ふふん。いくらセツナっても、天然の無制限な複合超能力者の可能性がある郁坂恭介には苦戦するでしょ。その隙をついて私が郁坂恭介の首を取ってあげるわよ)
得意げだった。この好機は大がかりだが、確かにモノにできると確信していた。
だが、彼女にとっても、そして、香宮にとっても予想外な事態が一つ、この場には残っていた。
(きょーちゃんに知らせないと……)
「狩りに来たのはこっちだ、愚か者が」
セツナはそう静かに言って、胸元を緩めた。それが、戦闘開始の合図。気付いたその瞬間には、恭介はセツナのすぐ上前方にまで迫っていた。
セツナは反射的に上を見上げる。そこには当然、拳を振り上げた、鬼のような形相をしている恭介のその姿がある。
だが、次の瞬間には、恭介は後方に大きく吹き飛んでいた。そして、乱雑に並ぶ木々にぶつかって地面に落ちた。
一瞬で、何が起きたのかは理解できた。
むしろ、これが狙いだった。
やっぱりそうだ、と恭介はここで掴んだ。
態勢を立て直すと同時、恭介はこれで今は十分、と瞬間移動をしようとする。当然、琴の下へと行くためだ。
(セツナの超能力は分かった。とりあえずこれで対処は出来る。後回しにする。まずは琴だ。さっきの悲鳴が気になり過ぎるッ!!)
そして、瞬間移動――とは、行かなかった。
激痛が、背中の左側に走った。鋭利過ぎる、一発で刃物で突き刺されたと分かる痛み。
「ッう、」
背後は木だったはずだ。敵なんかいなかった。そうは思うが、恭介は振り返る。だが、そこには何の影もない。
答えは実に簡単で、態勢を立て直した際に出来た木と恭介の背中の間の僅かの隙間から、イニスが手を伸ばして無防備な恭介を刺しただけである。
だが、恭介にはすぐには理解できなかった。そんな馬鹿な、と思うしかなかった。
そして出来てしまう一瞬の隙。その隙に、イニスの攻撃が二度、続いた。
恭介が見えていたのは、先にいる敵であるはずのセツナが複雑そうな心境を見せる表情で足を止めていた不可思議な光景。恭介でさえこのタイミングは好機だろうと思うのに、セツナは攻撃を仕掛けてこない。
一撃は左膝の裏に、二撃目は右膝の裏に。
恭介の膝が地面に落ちた。セツナの表情が更に歪んだ。そして、足音が増えた。
「ッ、な……、」
恭介が地面に膝を着いたと同時、恭介の背中と、両膝の裏に突き刺さったナイフが出現した。イニスが手を離したのだろう。
恭介の表情に絶望が浮かぶ。この状態でも、足音が増えたのは分かっていた。
(誰が来た……三人、いや、違う。四人か……)
「イニス、出過ぎた事をしたな」
セツナがそう言うと、膝を地面に落とした恭介のすぐ横に、イニスが出現した。その光景を見て、恭介はやっと気付いた。
(透明化か……ふざけた真似を……四つ目の足音はこれか)
だが、立てない。
そして、セツナの視線がイニスを越えてその後ろに新たに出現した三人と一つの人影を見つけて、更に表情を険しくする。
「香宮霧絵と……、増田典明、近藤林檎か。何故ここにいる」
セツナの視線がずっと持ち上がる。近藤林檎が片手で引っ張っているその影を見て、あぁ、と思わず呻いた。
恭介は典明達の出現に気付いて、首だけで振り返った。そして、見てしまう。
「あ……、なっ、あぁ……!?」
近藤林檎が脇を抱えて引きずって運ぶ、顔の目の周りが焼きただれ、目も当てれない状態になって死にかけている、長谷琴のその姿を。
セツナは琴の姿を見て、この状況を照らし合わせて香宮の目的を把握した。
(結局は、郁坂恭介の暗殺か。ミヤビがダウンしている今となっては問題はないが、こうも勝手に動かれてしまうと納得いかない部分があるな)
セツナはこの状況を好都合だ、と結局思ったのだが、最高だ、とは思わなかったようだ。どちらにせよ、セツナには零落希華を殺さなければならない。まだここで命を落とすわけにはいかない。好都合ならば、問題はない。
恭介の表情の絶望が更に悪化した。恭介も、誰もが分かっている。超能力には時間の操作と、治癒系のモノは存在しない。つまり、あれ程酷い状態になってしまった琴の目はもう、治らない。
典明がわざとらしく辺りを見回して、振り返ったまま固まってしまった恭介に厭らしい視線を向け、言う。
「火の手が回ってきたなぁ、恭介。さっさとケリを付けようか」
そして、笑む典明。最悪な状況が更にどん底に沈んだような気分だった。
辺りには先程の車の爆発による火が広がっていた。肌が焼ける様だった。セツナはスーツが痛むのを気にしていた。イニスは肌が焼ける事を気にしていた。
近藤林檎は何も言わず、琴のその身を恭介の目の前に放り投げた。恭介の前に転がる事のその華奢な身体。恭介は首を戻して足元に転がった琴を見下ろす。
(琴……そんな……)
恭介には絶望が張り付いていた。だが、同時に、
「……ろす、」
怒りもこみ上げてきていた。これまでにない、今までに経験した事がない程の、怒り。流が殺された時に近い、自分でも恐ろしく思う程の、怒りが、湧き出していた。
琴の頬の上に恭介の涙が落ちていた。
「……殺す」
恭介は、静かにそう呟いた。
だが、それとほぼ同時、傍らで待機していたイニスが恭介の背中に刺さっていたナイフを掌で押した。
「ぐっあ、」
恭介は思わず一瞬怯む。そんな恭介を弄ぶように、イニスがニタニタと笑いながら言う。
「あのさぁ、このナイフ、心臓に刺さってんだよ? 引き抜けば今すぐにでも死ぬし、このままでも死ぬから。無理して痛い思いして死ぬのか、楽に死ぬのか、どっちが良いかなんて考えなくても分かるでしょ?」
そう言って、嘲笑う。
だが、次の瞬間だった。
イニスの傍から、恭介の姿が消えた。
全員が戦慄した。そんな、まさか、もう動けるはずなんて、と驚愕した。
まず気付いたのが、セツナだった。当然、セツナからは、恭介が新たに出現したのは、正面だからだ。
「近藤林檎! 後ろだッ!!」
ここで初めてセツナが叫んだ。だが、遅い。
恭介が移動したのは当然、瞬間移動だ。一瞬の内に位置が移動する。気付き、叫ぶではワンテンポ以上遅い。
近藤林檎が振り返った時には、目の前に体の右半分が燃え上がっていた、まるでバケモノの様な容姿をした恭介がいった。
身体が動かなかった。今までにも恐ろしいモノを散々見てきたし、相対してきたが、ここまでのモノは初めてだった。
次の瞬間には足が震え、失禁してしまいそうだった。だが、次の瞬間には、恭介の攻撃が当たっていた。
ただの裏拳だった。燃えていない方の手でのただの攻撃。だが、恭介には複数の超能力が宿っている。
近藤林檎の身体は殴られた頬から引っ張られるように、横に大きく吹き飛び、燃え上がる木にぶつかって落ちた。
一瞬だった。その一瞬のせいで、誰もが反応を遅らせた。
「ッ!! ……典明ィ!!」
危機を感じた香宮が今までに訊いた事のない声で叫んだ。その声に応え、典明は香宮の前に護る様に出現した。近藤林檎が吹き飛ばされ、恭介の正面には香宮が位置してしまっていた。こうするのは当然だ。そのために典明を狙って意識操作を使ったのだから。
だが、前提に不足している事がある。今、恭介はこれまでにない以上に、『キレて』いる。そこまで考慮してれば、分かったはずだ。
「っが、」
恭介を止めるには、友人では圧倒的に不足している。
気付けば、恭介は燃え上がる手で引き裂く様に典明をそこから退けていた。ただ、頭を掴んで横に投げただけだが、それでも、圧倒的威力。先の近藤林檎とは比べ物にならない程の威力だった。典明は弾かれたピンポン玉の様に真横に吹き飛び、燃え上がる木々をなぎ倒しながら燃え上がる森の中へと一瞬にして消えてしまった。典明が投げられたその勢い、威力だろうか、風が爆発する様な音が聞こえた気がした。
そして、恭介と香宮が対面する。琴の事を何よりも大事に思っている人間が、琴をこんな状態にした女と、対峙したのだ。
気付けば、燃え上がっていなかった方のもう半分には、稲妻が這っていた。そんな恭介を見て、香宮はついに覚悟した。
(か、勝てるはずが、……こんなバケモノに、勝てるはずが……ッ!!)




