さん 暗黒遊戯
薄暗い部屋の中で少年は蹲っていた。彼の前には、木の実が落ちている。木の実は綺麗に二つに割れており、殻だけが小さく揺れていた。
少年は、自身の左手の甲をもう片方の手で押さえながら小さく震えていた。
「……なんだ、これは。手が熱い。……それに、力がみなぎってくる」
信じられないとばありに目を丸くした少年は、両手を目の高さまで持ち上げる。そして、恐る恐る右手を外した。
「……これ、は?」
露わになった左手の甲には赤い汚れが付いていた。
「…………」
少年は無言で右の手の平を見る。やはり赤い汚れがベッタリと付いていた。
少しだけしょっぱい顔になった少年は、眉尻を下げて部屋の隅にいた幼馴染たちに声をかけた。
「絵の具、消えちゃった。どうしよう?」
汚れた手を彼女たちに向けた。お付きの侍女たちがカーテンを開けていくので、小さな手が赤く汚れているのが良く見えた。
元は紋章のような良くわからない模様だったのだが、原型が分からないほどに塗りつぶされている。それを見た護衛騎士の一人が「力作だったのに……」と肩を落とし、同僚が慰めるように肩を叩いていた。
オリバーが侍女に手の汚れを拭き取ってもらっていると、ナビアとリズが台本を手に近づいてきた。
「乾いたと思ったのに、残念ね」
「困りましたわ。消えない絵の具を使うわけにはいきませんもの」
「でも、手の甲の模様は外せませんわ」
「暗黒超パワーの源になる悪魔の模様なんだよね?」
オリバーが手に模様を描いてくれた騎士に問いかけると、騎士は姿勢を正した。
「はい。木の実に封じられていた悪魔が取り憑いた証拠となる模様です。悪魔は主人公に取り憑き堕落させようとするのですが、彼は巧みな計略で悪魔を利用し味方にしていくのです。さらに……んぐぅ!」
少し興奮気味な騎士は物語の愛読者らしく、更に語りそうな口を同僚が物理的に抑え込んだ。
騎士を視界から排除すべく、巧みに位置を変えた侍女が「綺麗になりましたよ」と微笑む。
綺麗になった手を見たオリバーが侍女にお礼を伝えると、彼女は笑顔を返しながら楚々と元の位置に戻った。その際「尊い」と呟きながら鼻を抑えていたが、幸いオリバーには聞こえなかった。
そんな周囲を他所に、子供たちは台本を手に打開案を話し合っている。
「模様もそうですけど、この後には額にも模様を描かなきゃいけないわよ?」
「額は、ちょっと嫌かも……」
「もし目に入ったら大変ですものね」
ナビアの言葉にオリバーが難色を示す。
流石に、王族の顔に落書きができる者はいない。ナビアやリズならやりかねないが、流石にお供の侍女が止める……はず。
「あのね……」
そんな中、座り込んだままのオリバーがナビアとリズを見上げて話しかけた。
「今更だけど、他のお話にしない?このお話って悪魔が出て怖いし、それに難しい言葉が多くて覚えるの大変だよ」
同い年とはいえ二人よりも少し背の低いオリバーは、三人の中では弟のような存在でもある。
意図せず上目遣いとなったオリバーの願いは、二人の母性本能を甘くくすぐった。
「殿下がそうおっしゃるなら、仕方ありませんわね。ねぇリズ?」
「そうですね。私もそれが良いと思います。それに、この物語に出てくる女の人ってお馬鹿さんばかりで楽しくありませんもの」
「リズもそう思っていたのね。私もよっ」
「やっぱりナビアも?そうよね。口を開けば『すごい』と『さすが』ばかり。語彙力があっとうてきに足りてませんわ」
「そうなのよ。主人公が何かする度に褒め称えるだけなんて、思考力もないお馬鹿さんには魅力を感じませんわ」
「こんな女性が王女や侯爵令嬢だなんて納得がいきませんわ」
ああだこうだとダメ出しを始めるナビアとリズを見ながら、オリバーはどうしてこの話を選んだのだろうと不思議に思った。
二人のダメ出しを聞いてしまった愛読者の騎士が崩れ落ち、同僚は哀れみの視線を向けるだけで彼の味方をする者はいなかった。
「たまには男の人が主役のお話にしようと思ったのに、全然ダメでしたわ。もぅ!お父様ったら、もう少しマシな本を買うべきですわ」
あ、伯爵の本なんだ。
その場にいた大人な使用人たちは表情を動かすことなく、ヴィランデス伯爵のデータを上書きした。
「こんなこともあろうかと、私、お父様の書斎から本を持ってきましたわ」
可愛らしく怒っているナビアに向かって、リズは得意げに一冊の本を掲げてみせた。
最近流行りの表紙絵や煌びやかな装飾もない落ち着いたデザインの本。正に当主が持つに相応しい品格のある本である。
何やら難しそうな事が書いてありそうで、ナビアもオリバーも目を輝かせた。
「それは、なんというタイトルなの?」
オリバーの質問にリズは持っていた本をじっと見る。
慌てて持ってきたので、タイトルをきちんと見てはいなかった。ただ、時折父が楽しそうな顔をして読んでいたので男の人が面白いお話なのだろう。
幸い、皮の表紙に刻印された文字に難しい単語はなかった。
「エロウティ……エローツィッシュ伯爵夫人の……」
「「「どぅわぁあああ!!!!」」」
リズがタイトルを読み切らぬうちに護衛騎士が三人悲鳴を上げ、その中の一人がリズから素早くそっと本を取り上げた。
突然の出来事に子供たちは目を丸くして本を取り上げた騎士を見上げる。
「ど、どうしたのだ、ブレント」
「うひぇ……おわっ」
オリバーの声に我に返ったブレントは、両手で掲げた本を見た。ほぼ無意識に奪い取ってしまったことに気がついて真っ青になる。慌てた際に取り落としそうになり、落とすまいと滑稽なダンスを踊りなんとか床上でキャッチできた。
叫んだ騎士二人が「よくやった」と拍手をしたが、子ども付きの侍女たちからは三人に極寒のような視線だけが注がれた。
「これは、この本はいけませんっ。殿下たちが見てはいけないお話ですっ」
騎士ブレントは子どもたちに見えないように本を抱え込み、ふるふると首を横に振る。
「ダメよ、返しなさい。それはお父様の本よ」
「見てはいけないお話ってなんなの?内容を聞かないと納得できないわ」
令嬢二人に詰め寄られてブレントは泣きそうになった。いや、もうほぼ泣いている。
言えるわけがない。
『エローツィッシュ伯爵夫人シリーズ』が濃厚な艶本だなんて。
未亡人となった伯爵夫人がいろんな男性と関係を持つシリーズ作品。女性たちが好む比喩的表現やロマンスは欠片も無く、直接的表現で夫人と致している描写しかない。
そんな話だなんて死んでも言えないし、本を返すわけにもいかない。
どうすればいいんだ。
追い込まれたブレントは必死で考えた。
「こ、これは、とても恐ろしい幽霊や悪霊が出てくる本なんですっ!!」
考えた末に出てきた答えに、見守っていた大人は「は?」と理解できない顔をした。そんな嘘があの令嬢たちに通用するのか、と。
だが、彼らは一人見逃していた。
「……そんな、怖い本なのか……」
純真無垢な殿下は怯えるようにブレントからゆっくりと距離を取った。
内容を知っているブレントが、騎士で大人なブレントが、ここまで泣いて止めるのだから、それはそれは恐ろしい内容に違いない。
そう理解した令嬢二人もそっとブレントから離れる。
みんなから遠巻きにされ少し傷ついたが、本の中身を子供たちに読まれずに済んで本当に良かったと安堵の涙が溢れた。
「皆様、お茶に致しましょう」
空気を変えようと、城の侍女が三人の子供達を連れて部屋を出ていった。
本はネヴィル家の侍女が受取り伯爵に返却してくれることとなった。
この日を境にブレントは「怖がり」だとオリバーに認識され、何かと心配されるようになる。同僚からは揶揄われることも多くなったが、一部からは「勇者」と讃えられた。
余談だが、翌日のネヴィル伯爵は憔悴した顔で現れ、最愛の娘から「お父様の趣味って変わっているのね」と衝撃の言葉を向けられたという。
「ブレントは、夜の勤務を休ませてはどうだろうか」
就寝前に、護衛騎士を気遣う王子の言葉に侍女は感動した。
「ブレントももう大人ですから、苦手なものを克服しなければなりませんわ」
「そうか。……逃げてばかりではいけないということだな」
自分もがんばらねば。と両手の拳を握る王子、マジ尊い。
身近な侍女や騎士たちの名前を覚えてくれる王子のために、自分たちも精進しなければと心に誓うのであった。




