第九十七話 北京事件
昭和二十七(1948)年、日ロ軍がバイカル湖線区でソ連軍の大攻勢を受け止めていたそのころ、華北戦線では米軍が共産党ゲリラに苦戦していた。
内蒙古の権益は何とかその物量でとにかく押し寄せる共産党の人の波を防いでいた。物量(武器弾薬)対物量(人)の衝突だった。毎分毎に数万の弾薬と数百の人命が消し飛んでいく。そんな戦いだった。
その様な地獄絵図を数週間にわたって続ければ、米兵は心身ともに疲弊する。精神を病み、自殺や奇行に走る者すら珍しくはなかった。
それでも物量(人)の攻勢は幾波にもわたって押し寄せてくる。
肥沃ともいえない土地は今や荒涼とした風景が広がっている。後に人々はこの土地を血による呪いによって草すら生えなくなった死の大地と呼ぶようになった。それほどまでにここでは血が多く流れている。
ここでは半年の間に大都市一つ分の人の血が流れたと言われるが、その後数十年経っても正確な戦死者数は把握できていないという。
米軍はとにかく陣地を、拠点を、権益を守り抜くことに成功した。
そこには確かに星条旗がはためいている。しかし、そこに米国人の笑顔は一切存在しなかった。
昭和二十七(1948)年六月十六日、北京を走っていた米軍の車列に投石が行われたらしい。
本来なら些細な事件だったのだが、僅か二週間前まで地獄のような戦場にいた兵士たちはほんの小さな事態に過剰に反応した。
車列に居た六十人の兵士はトラックが停車するとともに散開し、近くの人ごみめがけて射撃を開始してしまった。
銃声によって駆け付けた米軍憲兵や他の部隊すら敵と誤認して射撃を続ける兵士たち。
三十分にわたる銃撃戦の末、同士討ちで二十人が死亡、周囲に居た一般人千二百八十三人を巻き添えにする大惨事となってしまった。
事件の報は翌日には米国でも大きく報じられ、華北戦線に対する疑問と反対運動の引き金となって米国全土を駆け巡っていく。
おりしも大統領選挙の年にあたり、事態の鎮静化は急を要した。そのため、捜査は迅速に行われ、すぐさま結果の発表を行う様に動いたのだが、事件の発端となった投石の証拠は見つからず、射撃を指示した当人は死亡。生き残った兵の多数も精神疾患が疑われる状況とあって、捜査は難航し、結局、精神的なストレスによる錯覚が招いた事件として発表されることとなった。
ある面では戦場における精神疾患の存在が広く認知され、後遺症のケアなどが大きく前進することになったのだが、同時に戦争反対の機運も高まり、野党側の批判や選挙利用も相まって、早くも八月には米軍の段階的な撤退と米軍占領地を民国が引き継ぐ合意がなされることとなった。
米軍の撤退が具体化すると、共産党の攻勢はさらに激しくなり、支持基盤の弱い民国軍は各所で苦戦を強いられることとなっていく。
米軍の撤退は政治的な理由による唐突なモノであり計画的な撤退など出来る状況にはなく、その中身はほぼ敗走と言って良い状態を呈したもので、近傍の民国軍への兵器供与なら良い方で、各所で邪魔になった戦車や砲を遺棄しながら撤退していく有様だった。
日本でもこの事件は大きく取り上げられた。一部には反米の動きもあったが、それが盛り上がることは無かった。
北京での事件よりも、その少し後に起きた大事件に関連した対ソ戦の話題が持ちきりだった。
それは、九月二日にレニングラードへ向けてソ連軍が侵攻し、欧州で再び戦火の火の手が上がったことで、北海へ海軍を派遣すべきではないかという論争だった。
日本は有力な海軍を持ちながら今次の戦争で全く活躍していない。そのため、一部にはこの機を逃すなという機運が盛り上がり、ひと月近く議論が続くことになった。しかし、その議論は突如として終了を迎えることとなってしまう。




