第九十一話 東部戦線 2
昭和二十五(1946)年、東南アジアでフランスが苦境に立たされていたころ、東欧でも戦争が行われていた。
ドイツを盟主とした欧州同盟軍は着実に整備されつつあったが、主力はどうしてもドイツ軍だった。ドイツはこの十年、着実に軍備を整えていた。前世を知るヒトラーはその点で抜かりなかった。何より、公共事業で吸収しきれなかった労働者の吸収するにはうってつけだった。こうすることで失業率を下げ、経済成長にも貢献していた。もちろん、それはヒトラーの支持にもつながっていた。
警戒心の強いヒトラーは可能な限り前世の轍を踏まないように、突撃隊や親衛隊すら武装させていなかった。それどころか、軍の拡充と共に軍に吸収する形で解消していたほどだった。
年末には完成した東部の防御線は比較的落ち着いていた。ソ連軍も秋ごろまでと違い、白銀世界では動こうとしていない。南に下ってもそれは変わらなかったが、それが大攻勢前の静けさであることは誰もが予想していた。
均衡が破れたのは二月の事だった。多数のドイツ軍が展開するバルト諸国や河川を利用した重厚な防御線があるルーマニア方面ではなく、防御が薄く見えるポーランドへとソ連軍はその攻勢の矛を突き立てていた。
その考え自体は間違いではない。ポーランド軍はあまり協力ではなく、ドイツも積極的に援助してはいなかった。もちろん、ポーランド自身もドイツの援助を快く思わないのだから、これが自然な事と言えただろう。
そのこと自体は事実であり、防衛線が無いのもポーランドの対独感情によるものだった。
しかし、それはドイツ、もとい、この頃すでに体系化されていたドイツ軍の装甲軍団にとっては撒き餌のようなもので、ポーランドの意思にかかわりなく利用されていた。
二月初旬に始まったソ連軍の攻勢は最初の一週間は順調だった。そのまま突き進んでワルシャワまで攻め込めば勝てるという勝利の道が見えるとまで思っていたのだろう。
しかし、それは十日もすると疑問へと変わった。
バルト諸国にあったドイツ軍の一部が南下を始めたのだった。これが歩兵部隊ならば簡単に食い止めることも出来たのだろうが、相手は装甲車両で固めた装甲軍団と航空機の群だった。
エストニアへ進軍していた部隊がソ連領へと侵攻を開始したことで、リトアニアから南下した装甲軍団を横撃しようという作戦は実行不能に終わった。ソ連軍はまず、レニングラードの防衛を優先するためにエストニア周辺へと集められることとなる。
ウクライナから部隊を引き抜こうにも、防御線の向こうにも有力な軍団が控えている状態ではうかつに動けない。しかも、北部の動きに呼応するように爆撃機が各地に飛来するようになり、南部でも侵攻を警戒しなければいけなくなった。
当然割を食ったのはポーランドへと侵攻した中部の部隊だった。
攻めれば退くポーランド軍だが、自分たちの後ろには平たんではなくドイツ軍の装甲軍団が塞ぎにかかっている。攻め込んだところで包囲殲滅の未来しかない。かといって、退こうにも、退路も塞がれようとしている。援軍は期待できない状況だった。
ソ連軍はそれから半年ほど持ちこたえることが出来たのだが、抵抗はそこまでだった。八月にはレニングラードが戦火に包まれようとしていた。
幸いだったのは、フィンランドが旧国境線で停止した事で未だ包囲はされていないことだったが、それだけだった。
更には戦艦の通航を禁じられているボスボラス海峡を戦艦ではない「装甲艦」が悠々と通峡し、黒海に姿を現したことだった。
革命によって戦力の疲弊した黒海艦隊は大型艦を有しておらず、ドイツ艦隊の来襲で混乱が生じていた。
艦隊が現れたという事は、クリミア半島への攻撃、あるいは海からウクライナを狙う可能性が浮上し、レニングラードや中部の包囲網解放へ兵力を回す余裕が無くなっていた。
十月には中部のソ連軍は一掃され、南部の防衛線と装甲軍団が握手することとなる。当然ながら、ポーランド国境から東に防衛線が前進し、ソ連はまた領土を失っていた。
レニングラードはと言うと、フィンランド海軍の活躍もあって完全に制海権を失ったソ連軍は海を失い、とうとう陥落してしまった。
不思議とドイツ軍は大攻勢に出ることなく、生存圏と緩衝地帯の確保にしか興味が無いように思える状態だった。
十一月にはソ連とフィンランドは電撃的に停戦に合意し、1919年の国境線をソ連側が承認し、さらには緩衝地帯としてカレリア共和国の一部までフィンランドに割譲する、事実上のソ連の敗北で幕を閉じることとなった。




