第九十話 インドシナ戦争とフランスの混乱
昭和二十五(1946)年が明けるとすぐにタイが再び動き出した。
とりあえず停戦していたのだが、やはりそんなものは大した役には立っていなかった。何より、タイはカンボジア王と結託しての王国再興を期して再び戦争が始まったのだが、ここには共産勢力のベトミンも呼応する形でインドシナ半島全体へとその戦火が広がってゆく。
フランスは戦艦を含む艦隊をインドシナへと回航することを宣言したのだが、事態の波及を恐れた英国が話し合いでの妥結を促して回航への非協力を宣言してしまう。そのことでスエズ運河の通航が出来なくなったことから、インドシナでのフランス軍は苦境に立たされることになる。
日本はと言うと、タイへの協力を今更打ち切ることも出来ず、それどころかタイ支援の機運が盛り上がっている状況だった。
この時の周辺情勢として、米国は既にフィリピン独立を認め、数年以内に独立することが決まっている。英国もすでに英連邦内に留まることを条件にインドやマラヤの独立へと舵を切っているところだった。
英国の動きはここ十年程度、日本からの働き掛けによるところが大きい。
英国自身もすでに植民地経営が大幅な赤字状態であり、独立採算として利益だけを得る事の方が現実的であることを理解しつつあった。
もっとも決定的となったのが、タイとフランスの戦争で、小規模とは言え、フランス軍がアジアの小国に敗れ、遠隔地への派兵に無駄ともいえる費用を費やしている現状だった。
フランスがドイツの経済同盟へ加入する決定打は、この戦争の帰趨だったと言って良い。この戦争でフランス支配への疑念が広まり、タイによる工作が各地で盛んにおこなわれていた。
そしてとうとう、タイによる本格侵攻とカンボジア王朝が呼応しての武装蜂起に至った。二月には更にラオス王国の武装蜂起という形で戦争はさらに拡大、そして、本来支援を受けるはずの民国政府まで利権を求めて介入してくるという騒ぎとなり、独仏間での軋轢まで生まれる始末となってしまった。
事ここに至ってフランスは単独での戦争を強いられることとなり、日本製の豊富な武器によって武装したタイ軍とその支援を受けたカンボジア、ラオス、さらには共産中国やソ連と通じた民国内一派に支援されたベトミンとの戦争、海上では民国海軍による島嶼部への侵攻という状況にさらされることとなった。
フランス艦隊が長大な航海を経てインドシナに到着したのは四月の話になるが、戦艦二隻、空母に巡洋艦という陣容をもってまず相対したのはタイではなく、民国海軍だった。
民国は島嶼部の占領では飽き足らず、余勢をかって北部インドシナへも手を出そうとしていた。そのため、フランスがまず狙ったのは、民国が再整備中であった海南島だった。
日本軍による破壊の後、ようやく再建のめどが立った海南島が再び戦火にまみれて瓦礫となり、民国はフランス艦隊へと決戦を挑むこととなる。
しかし、練度の低い民国海軍はフランス艦隊によって致命的なダメージを受け、またもや逃げ帰る事態となってしまった。
流石にフランスも民国海軍を追いかけるような真似はせず、インドシナへと帰還している。
次はタイ海軍を叩く機運が高まったのだが、それは叶わなかった。
なにせ、シャム湾には日本海軍が展開してマラヤへの戦火の拡大に目を光らせる状況で、誤射でもあれば大変だった。
この頃、ソ連は各所で革命や武装蜂起を画策しており、フランスは対岸アルジェリアでも共産勢力の活動に目を光らせる必要があった。
そうした混乱した中でフランスは内戦の緊張下に置かれることになる。国内では植民地独立容認派と維持派が対立し、さらには直近のアルジェリアかインドシナかという駆け引きが行われていた。見事にソ連による欧州離間に引っかかっていたと言える。しかし、当のフランスからしてみたら自らの権威と植民地の問題であり、冷静に分析する余裕すら存在しなかった。
そして、六月にはアルジェリア防衛を主張する将校団を中心に、マルセイユにおいて反共和国政府宣言がなされ、俗にマルセイユ政権と呼ばれるクーデター政権が誕生するに至って混乱はさらに拍車をかけることとなる。
マルセイユ政権はアルジェリアの確保とインドシナに派遣した艦隊の帰国を主張し、アフリカに展開する陸海軍将校の支持を取り付けていた。
更には国内の多くの将校もそれを支持したため、パリ政府は容易に鎮圧することも出来ず、十月にはマルセイユ政府の主張を丸呑みする形でシンガポールにおいてタイ、カンボジア、ラオスとの和平協議によって、カンボジア、ラオスの独立が承認され、民国の南シナ海での跳梁を防止するため、英国に対して海南島の保障占領が要請されることとなった。
ただ、この決定は民国政府を共産主義へ転向させるようなもので、独仏関係にひびを入れる結果となるのだが・・・・・・




