第七十話 上海侵攻
昭和二十二(1943)年十二月三日、揚陸艦神州丸や秋津丸を中心とした部隊が上海に現れた。
中国軍が使用していた港の一角は瞬く間に占領し、日の丸がはためく。
そして、三千人の海兵団と千人の陸軍部隊が上陸した。
中国軍は抵抗しようとしたが、そもそも相手にならなかった。中国兵が銃を構えるころには眉間に、胸に風穴があく。
僅か八百人の歩兵部隊相手に万は居たであろう軍勢は成す術なく撃滅されていく。
それは恐怖でしかなく。次の日の明け方には一部、市内で略奪や乱暴を働く一部敗残兵が見られる程度となる。
そして残された警官や民兵たちは日本軍に抵抗する気力を失っていた。
上陸した海兵団によって民兵の拘束が行われる。
上海では日系企業襲撃のどさくさ紛れに米英系の企業も襲われており、日本軍の行動に呼応したように米英軍も各地で活動している状態だった。
一週間もすれば上海は完全に日米英の占領下となり、反撃を試みた中国軍は『攘夷志士』の戦車小隊や砲兵小隊による正確極まりない砲撃で粉砕されていった。
そこに米英軍が襲い掛かるのだから、彼らは何もできずに逃げ去るしかない。
どうやら、英軍もSBSを投入しているらしく、少数の英軍によって中国軍の退路が断たれ、敗残兵として周辺の村に逃げ去っていくという姿がそこかしこで目撃されている。SBSの連中も『抜刀隊』に刺激されたらしく、相当暴れている様だ。
年末には総理に作戦完了の報告を行う。
「上海は現在、日米英の占領統治下にあります。今後は米英に統治を委ねて陸軍は撤退、中国軍の襲撃に備えて海兵団のうち一個大隊だけ残留させる予定です」
俺は、そのように報告を行う。
「ところで参謀長、南京を爆撃するという話はどうなっているのだろうか?」
総理からもっともな質問が飛ぶ。
「それに関しては外務省が送り込んでいる情報員からの報告待ちです。南京の大物が確実に庁舎に居る時間に攻撃を実行予定です」
国民党や南京の軍閥首脳部を巻き添えに出来ればそれが最も良い、殺害できなくとも、爆撃を目の当たりにしただけでも効果はあるだろう。
南京爆撃が実行されたのは総理への報告から二日後だった。
当日は政府庁舎において盛大な行事が行われることになっており、南京軍閥の幹部が勢ぞろいしていた。残念ながらそこに蒋介石は居なかったが。
台湾の基地から飛び立った43式軽爆撃機四機は胴体の爆弾倉に1000听爆弾を二発搭載していた。
低空進入してそのまま南京へ向かうが、途中の村で牛がのんびり日向ぼっこする上空を飛ぶが、牛は直前まで爆撃機に気づくことなく草を食べることに夢中だった。
これを上空から目撃した爆撃手の報告で実際に低空侵攻が単にレーダーを掻い潜るだけでなく、人や動物による発見すら抑える効果があることが実証された。
少々疑問視されていた低空侵攻がいかに有効か示すことが出来た。さて、問題は爆撃そのもの。
低空を進んで南京市街が見えるころにはラジオでその日の行事において軍閥トップの演説が生放送されていた。
そこへ爆弾を投下したのである。
放送は途中で中断。政府庁舎は瓦解。軍閥首脳部も多くが犠牲になっている。
ソ連系のラジオや新聞が速報でこの爆撃を報じ、世界をそのニュースが駆け巡る。
国民党もそれに乗じて南京無差別爆撃と盛んに日本批判を展開していたのだが、その実態は軍閥や国民党関係者の被害は甚大だが、見事なピンポイント爆撃で市民への被害は相当限定されていた。
ソ連系新聞社が配信した写真に、建物ががれきと化した目の前で泣き叫ぶ子供という構図のものがあり、日本による無差別爆撃の証拠として広く宣伝された。
しかし、年が明けたころに英新聞社によって南京市内の実態が報じられ、少なくとも米英国内では反日機運は沈静化していくことになる。
ただ、この宣伝報道は欧州では効果的で、国民党への支援がより大々的に行われる事態となっていく。




