第三十五話 大鑑巨砲の時代
土佐型戦艦の就役以後しばらくはこのような艦に注目が集まることはなかった。
時代は小回りが利く高速艦の時代だった。しかし、その流れはユトランド沖海戦によって大きく様変わりし、世界は大鑑巨砲の威力を知る。そして、各国でその試みが始まることとなった。
ドイツは敗戦により脱落したがそれ以外の国では土佐に倣った艦、さらに強力な艦を求めて計画を始める。
そんななかで、米国やイタリアでは早くから三連装砲の試作が始まることになる。
それらが実際に姿を現すのは大正九(1920)年頃になるが、日本もそれに追随すべく計画を練る、ただ、三連装砲にするか14吋砲をめざすのかで意見が割れてなかなか決まることがなかった。
そんな中で米国、イタリアが三連装砲艦を完成させる。
方や英国は連装で13.5吋砲へと舵を切っていた。では日本はどうするのか?
その時、英国への三連装砲の試作依頼という話が出てくることになる。いわば、先送りと丸投げを同時に行おうという話だ。
ただ、ここには背に腹は代えられない問題もあった。
土佐型や金剛型の水圧機の能力では三連装砲や14吋砲の斉射には力量が不足していたのである。
国内開発も当然行ったが、まだまだ芳しいものではない。そこで、英国に依頼しようとなった。
それが大正八(1918)年の話である。
英国でも新型艦、新型砲塔の在り方を研究している段階であり、日本が三連装砲塔に出資するのは願ってもないことだった。
こうして開発が行われた砲塔を搭載する戦艦の設計が行われ、後の出雲型が出現することになる。
これに黙っていなかったのがフランスだった。
疲弊したとはいえ英国への対抗意識から自力建造を目指して四連装砲の試作を発表した。
フランスは34センチ砲を四連装砲塔に載せ、前後に各一基搭載する計画だった。それならば旧来艦の延長として8門装備が可能となる。
こうして各国が建艦競争を続け、昭和七(1928)年には列強のすべてが12吋超の巨砲を6門以上装備した戦艦の保有を果たすことになる。
前世であればそろそろブレーキがかかりそうなものだが、この世界ではここに至ってもいまだにブレーキがかかることはなく、フランスが破綻を恐れて自ら競争から離脱する。
日本はというと海軍計画自体が12隻であり、出雲型をもって一応の終了となっていた。
出雲型を建造した英国は自国向けの三連装砲戦艦であるリヴェンジ級を建造している。それに追随するように米国ではとうとう14吋艦の建造に着手。
しかし、この14吋戦艦、コロラド級は翌年起きた株価暴落で二隻しか完成せず、ほかの計画艦は歳出削減により中止されてしまう。
結局、この世界では軍縮条約を結ぶことなく不況の到来によって建艦競争は収束に向かう。
少し話は変わるが日本が戦艦の副砲として装備した5.5吋砲、これは夕張型巡洋艦の主砲として日本で開発された砲である。前世の三年式十四糎砲と思えばよいだろうか。
しかも、出雲には夕張型の砲塔を装甲厚を増したうえで搭載している。対空砲こそないがいわゆる「新戦艦」の考え方で作ってある。
コロラド級には採用されていないし、リヴェンジ級も採用を見送っている。
まだこの当時、砲塔にしたほうが良いのか砲郭が良いのか意見が割れており、砲塔を採用しているのは日本以外では伝統的に副砲塔を装備してきたフランスだけだった。




