第三十四話 極東ロシア公国
大正七(1918)年にニコライ二世、ミハイル大公救出が行われた後、日米はシベリアへの本格侵攻を開始した。
米国は大連から鉄道を利用してハルビンを抜け、日本はアムール川を遡上しハバロフスクで合流した。これが大正七(1918)年十月のことだった。両国ともそこから先は共同でバイカル湖畔までシベリア鉄道沿いを進むことになる。
バイカル湖畔まで到達したのは、ハバロフスクを出て間もなく冬が訪れたことや事態を把握していない白軍との行き違いもあり大正八(1919)年五月になってしまった。
しかし、前年のうちに極東ロシア公国の建国が宣言されていたこともあって事情を知った白軍の多くが極東に集まり、次第に戦力も強化されていく中での進軍とあって、前世のような事態には至っていない。
ただ、米国はさらなる権益確保のために内モンゴル、さらにはモンゴルにまで介入していく。これが後に米国が中華大陸から足抜け出来なくなる最大の要因となるが、まだこの時は極東ロシア公国の防波堤としてモンゴルを陣営に引き込むという程度の認識だった。
その結果、バイカル湖南岸ではベルサイユ条約締結までに地歩を固めることに成功する。バイカル湖以北は混沌とした状態が続き、昭和三(1924)年に入ってようやくバイカル湖を境に東西で分割することでソ連と合意に至る頃が出来た。その裏には、アナスタシアの写真によって欧州各国がソ連と接触し妥協を促し、日米による極東ロシア公国への支援によって優位な体制を整えることができた事が功を奏していた。アナスタシアの写真がなければ欧州は動かず、米国の支援も目減りしていたことだろう・・・
この時、朝鮮半島で起こった赤軍蜂起はロシアにとっては寝耳に水だった。形としては赤軍であるが、内実は朝鮮独立運動であり、彼ら自身もその事実を隠そうともしなかった。のだが、そのことが米国を刺激することになる。
ロシア建国支援として多くの米軍が満州からモンゴルにかけて配備されていたこの時期、交代として到着した部隊をそのまま「赤軍排除のため」として朝鮮へ差し向け、九年前同様に蜂起を鎮圧している。当時、米大統領によってなされた平和原則に真っ向から対立する行動であったが、米国にとって「朝鮮は別」であった。この行動に日本でも批判の声が上がり、行動しようとする者が出たが、それら人物、団体の多くは検挙、拘禁されることになる。この中には大東亜云々という後に左右団体の重要人物がいたのだから驚いたが、まあ、前世のことを考えるとさもありなん・・・
これも、あの総理暗殺未遂に繋がっているのだが、それよりも、彼らを野放しにして日本が朝鮮や中国と結託する方が俺には困る。
中国での反帝国主義運動や領土回収を叫ぶ声が広がり、米軍はさらなる軍閥支援と満州、内モンゴル警備を強いられることとなる。更に、米国内にも華僑による自治回復運動がおこり、これが後に米国において黄禍論を広めてしまう原因となる。
満州以南では不穏な空気が一部に漂っていたが、ロシア沿海州や大連を中心とした米国租借地では経済発展が目に見えて進んでいた。
ハバロフスクを首都としたことで、ハルビンや奉天などへ伸びる東清鉄道沿線、ハルビンから満州里を経てシベリア鉄道へ戻る沿線にもその恩恵がもたらされている。
沿岸部ではウラジオストクを中心とした地域と樺太と隣接したアムール河口地域が特に発展を見せている。ウラジオストクには新潟からの定期連絡便もあり、これが新潟から秋田にかけてが発展する呼び水ともなっていた。相互に恩恵を受け、環日本海経済圏とも呼ばれることになるが、まだそれは少し先の話だ。
こうして、極東ロシア公国は日本と米国からの資本が流入して発展していく。そして、それは日米が抜き差しならない協力者となることを意味していた。
米国は極東ロシア公国建国という行動によりソ連とは敵対関係にある。米国にとってロシアを失うことは中国市場の足掛かりを失うことであり、許容できることではなかった。そして、日本が提示した北太平洋航路を使うということは、上海と大連の結節点として済州を必要とし、その喪失はアジア戦略の破綻を意味してもいた。昭和初期における米国は、フィリピンよりもさらに北にその生存権を有し、俺の知る前世とは全く違う道を歩もうとしているのだった・・・




