43話 士道不覚悟
見目麗しい美女二人と少年一人。
両手に花でダンジョンに出かければ何も起きないはずがなく――
「そいつは誰だよ!?」
眼鏡の奥の鋭い眼光と視線が衝突したミコトは気まずそうに顔を逸らした。
ログヴィルとて推量ならぬ憶測を働かせてはいるだろう。
ダンジョンへの部外者の出入りを制限している以上、消去法で少女の正体があの大人しげな少年だと断定するしかないのだと。
「誰ってミコトさんですわ。わたくしもミコトさんがこのような姿になると知った時は驚きのあまり腰を抜かすかと思いました」
エステルが屈託のない笑顔で真実を暴露したが、そこは人体というものを熟知しているログヴィルだ。
馬鹿馬鹿しい冗談には付き合っていられないと大きく首を振りかぶった。
「有り得ないだろ畜生め!またお前が何かろくでもないことをやらかしたのか!?」
真っ先に疑われるあたり余程の前科があったらしい。
糾弾はしかし修道女の分厚い面の皮にいささかの痛痒も与えることはなかった。
穏やかで、押し隠してはいるのであろうが愉悦の混じった微笑をたたえている。
この状況を楽しんでいる様子なのは明白だった。
「いいえ。わたくしが罪深き咎人であるのは否定いたしませんが、男の子を女の子に変えるなどという器用な芸当は不可能でございますよ。それはあなたがよくご存知ではありませんか」
そう言われては反論の返しようがない。
エステルはダンジョンで獲得してきたリソースのほとんどを近接戦闘能力の向上に集約させている。
徹底的に小細工に向いていない。
それ以前にいかなる手妻を用いれば少年を少女に変えられるというのか。
また、絢爛かつ雅やかなヤマト風の異装にも説明のつけようがなかった。
ミコトは室内にあった簡素な折り畳み式のベッドにソフィアを寝かせてから、興奮したログヴィルを宥めにかかった。
「あの、エステルさんの言ったことは真実です。あるスキルを使うとこういう姿になってしまうもので」
当人に肯定されれば疑念は引っ込めざるを得ない。
ログヴィルは眉間に指先を押し当て険しい顔で数秒間瞑目すると、諦めを多分に含有した吐息をついて一言尋ねた。
「先天性のものか?」
「はい。私の家系でごく稀にしか発現しないスキルらしいです」
ログヴィルは少女を足のつま先から頭の天辺まで子細に観察する。
得も言われぬ幻想的な色香を纏った絶世の美少女だ。少年の面影はどこにもない。
身長と外見年齢でしか少年との共通点を見出だせず、低く唸った。
「眉唾だと思っていたんだがな……」
「え?」
「体組織が部分的に獣の姿に先祖帰りする人狼化という特異体質について考察した論文を読んだことがある」
彼なりに納得しようとしているのか、唐突にそのようなことを語りだす。
「人と他の哺乳動物の遺伝子の差異はせいぜい10~20%に過ぎないという話をどこかで耳にしたことはないか?」
意図の読めない質問だが、訊かれている内容だけならばミコトにも心当たりがあった。
「あ、中学の授業で聞いたことがあります。動物だけじゃなくて植物ともそんなに違いがないんですよね?生物の先生が人間の遺伝子とバナナの遺伝子は6割が同じだって言い出して笑いをとってましたけど」
その生物教師は授業内容を生徒に興味を持ってもらうための"つかみ"としてそういった知識を披露したのだろう。
「意外性で言うならウニはおよそ70%だぞ」とミコトの返答に合わせてからログヴィルは講義を始めた。
「進化の過程で失われた器官を再び形成する魔法があるとしたらどうだ?例えば人間の尾てい骨は尻尾の名残だ。遺伝子から尻尾の情報だけを抽出し、魔力で代謝を促進させてやれば尻尾の生えた人間になれるかもしれない。毛皮や骨格にしても同様の手法で再生できるだろう。特異体質者は誰に教わらずとも直感的にそれらの魔法を行使できるとしたらそう不自然なことじゃないのかもな」
これにエステルが合いの手を入れた。
「つまりその理論に則れば世の中には人狼がいて、バナナ人間がいる可能性もあるのですね」
「絶対にいないとは言い切れないがバナナはないと思うぞ。遺伝子の6割が共通といっても生理機能がかけ離れすぎている。肉体が拒否反応を起こして術式そのものが成立しないはずだ。仮にできても恒常性を維持できず、すぐに細胞が壊死するだろうな。生態系のびっくり箱のダンジョンでも体を植物に変異させるモンスターと遭遇したことはなかっただろ?それぐらい無理があるんだ」
「顎からバナナの房を生やした緑色の怪獣ならばお見掛けしましたが?虚仮威しかと思うほど貧弱なモンスターでしたね。確か学名はトロ――」
「やめろ!それ以上名前を言うんじゃない!」
突然血相を変えてエステルのセリフを遮るログヴィルだった。
その傍らで――
(変身でバナナになるのは嫌だなあ)
埒もない長閑な思考を弄ぶミコトだった。
「とにかく名前を言ってはいけないそのモンスターは植物に細胞を変異させた個体だとは考えにくい。植物型のモンスターに寄生されたとするのが妥当だろう。こちらの世界に存在するもので例えるなら宿り木や、菌類のケースになるが冬虫夏草などがあたるか」
「そうなのですか。夢がありませんね」
「現実は往々にしてそんなもんだ」
ここでエステルは一つの問いを発した。
「ところで魔法とおっしゃいましたが術式の構成さえ判明すれば他の方でも獣に変化したり、ミコトさんのような美少女になることも可能なのではないでしょうか?」
(び、美少女……)
美少女という単語に美少女が頬を赤らめる。
幸いにしてその様子を聖職者の二人は見ていなかった。
……先ほどの疑問に戻るとしよう。
理論さえ理解できてしまえば特異体質者でなくとも変身スキルを扱えるのではないか。
この問いをログヴィルは間髪入れず否定した。
「不可能だ。那由他に一つもない。可能性は限りなく、限りなくゼロに近い。無限の猿定理だな。猿にタイプライターを預けていつかはハムレットを書き上げてくれるのをお前は期待できるのか?つまりはそういうことだよ。シェークスピアと寸分違わず同一の感性を持つ者にしかハムレットの文章は書けない」
「いかにも、おっしゃる通りでございますね」
「それとこれが最も重要だが、変身スキルの術式がいったいどれだけ複雑かつ膨大な情報量になるのか、まったく想像もつかん。ヒトの核ゲノムは約31億塩基対。体のほんの一部ならまだしも全身、性別に及ぶまで変異させるとなると天文学的な数字になるぞ」
魔法は知識と思考力と魔力だけでは発動できない。
大前提として術者の才能が求められる。これだけはいかな努力を積み重ねても決して埋められない差異だ。
「論文が眉唾だと信じていたのはな、論拠が穴だらけだったのもあるが、変身スキルの実在する確率が絶望的に低すぎるからだ。極めて繊細な固有幻想だよ。まったくふざけすぎている」
説明できることはそれで全てだとして講義を締めくくった。
エステルはしみじみとした顔でゆっくりと相槌を打っている。
「途方もない話でございますわね」
「ああ、魚類の性転換とはわけが違う。後学のために聞いておきたいぐらいだ。どうやってスキルを発動させてる?」
水を向けられたミコトは授業で脈絡なく教師にあてられた生徒のように困惑した。
ミコトにとって変身は当たり前のように付き添ってきた感覚だ。むしろその感覚を他人が理解できないということ自体が理解できない。
「えっと、高度な計算は何もしてません。直感で使えます」
(それどころか自分の意志で制御できてない)
「だろうな。発動させる時に頭に何を思い浮かべる?」
(うーん、溶岩かな?いや、少し違う)
「溶けた鉄の海……ですね」
「続けてくれ」
「その中を漂っている感じで。詠唱がありますけど必須のものではないです。迂闊に発動させてしまわないための閂――と言ったらいいんでしょうか」
自信なさげに変身のコツを教えると二人とも腑に落ちていない様子で顔を見合わせた。
「鉄……ですか。女の子のイメージにはそぐいませんわね。どちらかといえば男らしいというか」
「温度の高い液体の中と抽象化して考えれば羊水を連想する。生まれ変わりレベルの変異を起こす術式じゃないかと考えたが、金属の要素が不可解だ。肉体に必須の栄養素には違いないが、無機的で生命の誕生とは距離を置いた概念だからな」
それぞれ着眼した点について考察を披露するものの、真理に迫るには遠すぎることを知っただけだった。
術者本人が論理的に説明できないものなのだから無理もなかろうが。
「お前がイメージしているスキルのどこをどう因数分解すればその姿に行き着くのか想像もできん」
その結論に達するまで大した時間は要しなかった。
「わからないことばかりなだけに俄然興味が増しますわ。ミコトさんはどなたに先祖返りしているのでしょうね」
エステルがこぼした呟きを耳に拾って。
ミコトはふと腕のデバイスに視線を落とした。
ステータスの各種項目がディスプレイ上に羅列されている。
それらの内、クラスの項目に視点を定める。常ならば"バトルメイジ"の文字列が表示されているはずだが――
クラス:天之御影命
(自分のことながら冗談みたいなクラス名だ)
いっそ本当に冗談であったならと空想することは一度ならずあった。
(このスキルがなかったら、冒険者になろうなんて考えもしなくて、今頃ヤマトで普通の高校生活を送っていたのかな)
なければどれだけ心を乱さずに生きてこられたかと恨み節を吐き捨ててやりたいほどの艱難辛苦をミコトにもたらしたスキル。
女ならば誰もが羨むに違いない恵まれた容姿。
男ならば誰もが求めてやまぬ絶大な武力。
両方とも持っていながら何を贅沢なと人は罵るかもしれない。
けれどミコトにとって世界は力だけで意のままにできるような単純ものではなかった。
(スキルと決別できなかったとしても、幕府と朝廷の水面下での対立がなければ、巫女なんていらなかったのに。もし、このまま男に戻れなくなったらもう一つの約束を――)
「急ぐでもない余計な話に時間を割いてしまったな、悪い。今すぐ起こしてやる」
ミコトが思い詰めている傍らで青年が医師としての本分を果たそうとしていた。
ソフィアに手をかざし、魔力の燐光を灯らせる。
(ちょっ、それはまずい!)
「まって!」
ミコトは猫のような俊敏さでログヴィルの腕をひったくるようにして抱え込んだ。
「おわっ!いきなり何をする!」
少女の異常な瞬発力に対する驚きもあろうが、まさか治療を妨害されるとは思わず、ログヴィルは目を白黒とさせる。
「……待ってください」
青年が冷静さを取り戻すのは早かった。
短いながらも医療現場で経験を積んだ恩恵であろうか。
憮然とした顔で少女に問う。
「理由は……?」
「ソフィアさんにスキルのこと言ってないんです」
「どうして?」
ミコトは躊躇いに口を噤んだ。
他人からすれば失笑を買う以外の何物でもない、ひどく馬鹿馬鹿しい話をありのままに聞かせてよいものか。
「それは……」
逡巡しているとエステルが助け舟を出してくれた。
「ログヴィル、言わせずともお分かりになりませんか?ミコトさんの立場に立ったつもりで想像の翼を広げれば、全てではないにせよ心情を汲むのは難しくはないと思うのですが」
人面獣心、化生の魂を持つシスターにしてはまともな意見。
しかし、これをログヴィルは一蹴した。
「だからなんだ?一時の恥だろう」
そしてミコトを見下ろす。
「見た目が変わったぐらいで仲間を解消されるほど浅い関係だったのか?この女を胸襟を開くには値しないと過小評価しているのか?」
彼の言葉も正しい。
だが、ミコト・ヒラガの弱さをより深く理解していたのはエステルの方だ。
「その一時の恥を尊重すべきではないでしょうか。心の準備というものがございますから。ね、ミコトさん?」
同意を求めるアイコンタクトに、ミコトはこくりと頷きで返した。
「ソフィアさんの症状は迅速な処置が必要というわけではないのでしょう?」
「……ああ。患者の抵抗力ならおれが何もしなくても3日も眠れば自然寛解するだろう」
「ではミコトさんに考える時間を与えてはいただけませんか?」
それはミコトへ重く配慮する一方でソフィアの事情は一顧だにしない、優しさの化粧を施されただけの横暴で卑劣な提案だった。
「あの、私からもお願いします!」
自らの覚悟のためにソフィアの時間を犠牲にする。
そのことに罪悪感に苛まれながらもミコトはエステルの案に便乗した。
2対1。
さらに冒険者両名は暴力を背景に無理矢理首を縦に振らせる芸当が可能ときている。
面倒くさがり屋を自認するログヴィルは抗弁せず、早々に白旗を上げた。
「好きにしろ。看護は任せる」
ぶっきらぼうに吐き捨てられた言葉にミコトは感謝を捧げる。
「ありがとうございます」
「別に。パーティーメンバーの健康管理は同じパーティーメンバーの役割だろ。おれの仕事じゃない」
ログヴィルは縋るように見上げている瑠璃色の双眸から視線をそらして素っ気なく肩を竦める。
そこへエステルが咳払いをして口を挟んできた。
「ところでミコトさん。申し上げたいことがあるのですが」
「は、はい?」
「内面がどうあれそのお姿で殿方に抱き着くのは感心いたしませんね。妻帯が戒律で禁じられていないとはいえブラザー・ログヴィルは生涯修行の身。異性との望まぬ接触は大変酷な試練でございます。どうか慎まれませ」
「え……?」
指摘されてミコトは遅まきに気づく。
胸の膨らみが青年の腕で形を変えていた。
布越しであれ、その柔らかさを存分に主張している。
また、密着した状態でかつ、青年の長身さをもってすれば蠱惑的な白い谷間を覗き放題である。
その状況を認識するのに5秒もの時を費して。
酸欠した鯉のように口をパクパクとさせ、相貌をみるみる朱く染め上げた。
「あ……ご、ごごっ、ごめんなさい!」
ミコトは年頃の少女らしい初々しさで慌てふためいて、青年の腕を解放した。




