3話 再会
ネットカフェで夜まで時間を潰したミコトはホテルに戻ってきた。
帰りがけに夕食をとってきたので後は風呂に入って寝るだけだ。
(ここの風呂ってどうなってるんだっけ。げ、大浴場しかないのか)
言うまでもないが大浴場は不特定多数の客が裸で利用する施設だ。
現在の姿のまま男湯に入れば完全に痴女そのもの。
男達に裸体を見られるばかりか、ホテルの警備員が駆けつけ迷惑客として追い出される未来が予想できる。
女湯に入るのが波風の立たない選択だろう。
だがミコト・ヒラガは異性との交際経験が皆無だ。
年頃の少年として興味は無くもないが、不可抗力であっても異性の体を見てしまうのは駄目だと分別している。
もし若い女性が大勢入っていたら気が咎めるどころの騒ぎではないだろう。
予約する前にホテルの特徴をよく調べておけば良かったと後悔するが後の祭り。
さりとて風呂好きのヤマト人的に考えて入らないという選択肢はない。
ではどうするかと言えば「時間をずらして入るか。他の宿泊客が寝静まった頃を狙おう」と、自然な成り行きとして決めた。
方針を定めて数時間後。
ミコトは不審者のように辺りを警戒しつつ女湯の暖簾をくぐった。
ホテルのスリッパが出入口の靴箱に置かれていないことに安堵する。
(よかった。誰もいないみたいだ)
深夜の浴場は後から人が来さえしなければ貸し切りも同然だった。
いそいそと奥まった場所にあるコインロッカーの前まで移動すると、何度か深呼吸を繰り返してから巫女装束に手をかけた。
幾重にも重なった布を剥いでゆくのにはそれなりの事前知識と手先の器用さを要するかと思われたが、こなれた手つきで一枚一枚丁寧に脱ぎ、綺麗に畳んでロッカーにしまい込んでいく。
所作の一つ一つに気品が感じられた。
一朝一夕に身につけたものでないことは素人目にも明らかだ。厳しく、しかし愛情をもって作法を躾られたのだとうかがい知れる。
着物の下は意外にも純白の女性もの下着だった。
これまた手こずることもなく脱いでいる。
くどいようだがミコトには異性との交際経験がない。
もっと有り体に言えば童貞だ。
でありながらブラのホックを外す手並みの鮮やかさときたら最早少年技の域を脱している。
(こんなこと、自分の体で慣れとうなかった……。もっとも彼女ができるなんて可能性は万に一つもあり得ないけどさ)
いよいよ裸になったミコトは無意識的にか、タオルで乳房までも隠しながら浴場の戸を開けた。
「お、寮の浴場より断然豪華だ」
感動したようにそう呟く。
寮の風呂も大浴場なのだが、そこは天下のブロンズクラス御用達の施設である。
老朽化が目立ち、使えない蛇口があるという始末。
浴槽の手入れもまた雑なせいで室内の空気はおろか、お湯までもが黴臭い。
極めつけは日によっては湯がおぞましきぬかるみを帯びている点である。
衛生上の不安ですらも拭えない、憩いの場と言うには大いに疑わしい要素をも含んでいる。
誰が名付けたか、ダンジョンレベルEX“亡者の釜”。
そう畏怖をこめて呼ばれている。
(こういう風呂に入りたいならシルバークラスの家賃を払えるようにならないと)
湯煙の中裸で意気込むミコト。
これもまた湯浴みを楽しもうとしている様子ではどうにも格好がつかず、弛んだ頬を見れば瞭然なように些か説得力に欠けていた。
さて、入浴前にすることと言えば一つきりである。
体を洗って清潔にしておかなくてはならない。
手近な洗い場に腰を下ろすと同時に持ち込んでいたマイシャンプー、マイトリートメント、マイボディソープ、マイ洗顔を取り出す。
十代の少年の持ち物にしてはやや高級感があった。
密かな贅沢である。
洗顔をして、手間のかかる髪を入念にケアし、最も精神的ハードルの高い体を洗う。
(いいか。これは体を洗っているだけ。決していやらしい意図があってやっている訳じゃない)
自室から持ち出していたボディタオルで肌を擦りながら心の中で必死に言い聞かせる。
しかし少女特有の玉の肌の感触は嫌でも指先に伝わってくるのだ。
滑らかで、水をも弾く皮膚の弾力は得も言われぬ官能を脳髄に伝えてくる。
いかに着替え慣れしようと変身するたび魅力を増す体の方に理性が瓦解しそうになる。
思いのままに触れてみたいという欲求と、それをしてしまったら人として色々と終わりではないかと抗う魂が、互いを好敵手と認め名乗りを交わし合い激突する。
(洗い終わった……。俺はやり遂げたんだ……!)
結果として勝利したのは自制心の方であった。
ミコトは煩悩よりもヒューマニズムこそが尊いのだと体を張って証明したのである。
いかに矮小な動機であれ鋼鉄姫の力を他人のために使った功徳が彼女を支えたのかもしれない。
湯船に身を沈める頃には午前中の戦闘よりも激しい疲労を感じていた。
体を休める場所でかえって疲れるなどある意味稀有な才能である。
「はあー、疲れたー。でも最高。冬の楽しみと言えばやっぱり風呂だよ風呂」
かび臭くもなくぬかるんでもいない湯は至福の一言に尽きた。
女性向けのサービスなのか、ほんのりと甘く香るインセンスもリラックスを促してくれる。
(長風呂確定だな)
ゆっくりと肩までつかり手足の力を抜いて、目を閉じる。
眠ってしまいそうになるのを防ぐのに時折湯をすくっては顔にかけた。
そしてほうと艶かしい吐息をこぼす。
本人は無自覚だが、老若男女構わず虜にする眼福な光景を演出していた。
この様子を撮影し、ホテルのCMとして流せばカプセルホテル“ミヤビ”は株価がうなぎ登りどころか登り竜のように経済界を駆け上がり、世界を席巻する大企業となったかもしれない。
「お隣いーい?」
完全に気を抜いていた時だった。
真上から若い女の声がかけられる。
(誰?いや、この声どこかで)
記憶を刺激するものがあった。
それもごく最近である。
「こんばんは。半日ぶりだね」
ゆっくりと首をもたげて見上げるとそこにいたのは昼間ネットカフェで出会った金髪美女であった。
「……こんばんは」
長い睫毛をぱちくりとさせ、遅れて返事をする。
人の少ない時間帯に入りたがる客がいるであろうことは予測していた。しかし、絡んでくるとまでは想定していない。
ここは駅前の安ホテル。客同士旅情気分を共有する観光ホテルではないのだから。
そんなロケーションで二度と会うことはなかろうと思っていた人と日付を跨いですぐの再会だ。
しかもその人はタオルで体を隠すことなく堂々と仁王立ちしている。
これがもしボーイミーツガールなら色々と重要な階段をすっ飛ばしての出会いではなかろうか。
(って裸じゃん!前ぐらい隠せよ!)
抜群のプロポーションを惜しげもなくさらすだけでなく、例え同性であっても他人がおいそれと覗いてはならない部分まで丸見えである。
青少年的には実に目の毒だった。
「また会えたなんて運命感じちゃう。ね、お隣入ってもいいかな?じゃないとおねーさん風邪ひいちゃう」
「ど、どうぞ」
相手から視線を外して承諾する。
「ふいー、やっぱヤマト人には手足を伸ばせる広いお風呂が一番よねー。癒されるわあ。極楽極楽」
ミコトと同じようにしかと肩まで湯につかり気持ちよさげに息を吐く美女。
隣に顔を合わせることができず、いたたまれない気持ちになったミコトは彼女の独白に食いついてみることにした。
「ヤマトの人なんですか?」
「お、あたしに興味ある?嬉しいなー。そうだよ。ハーフなの。パパがウィンザ人でママがヤマト人」
「そうなんですか」
初対面の時に抱いた推測は正鵠を得ていたらしい。
「そうなのよ。キミは純粋なヤマト美人だねえ。どこの出身?」
「キョウノミヤです」
「へえー確かにそれっぽい。高貴な顔立ちしてるものね。ヤマト神話の女神様みたいだわ」
「それはいくらなんでも大袈裟です」
「大袈裟って言う方が冗談よ。鏡見たことないの?かなりモテるでしょキミ。彼氏とかいる?」
「要りません」
「いるいない以前にいらないと来たか。まー、キミレベルだとまず釣り合う男の方がいなさそうだもんね」
彼氏彼女がどうのこうのどころかボッチである。
男としてなら漠然とモテたいと思うところはあるが、この人でなければという異性に出会ったことはまだない。
「それにしてもキョウノミヤかあ、もしかしてキミって舞妓さんだったりする?」
「違います」
「ありゃ、思いつきの割にはいい線いってると思ってんだけどなー。残念」
言葉とは裏腹に表情は楽しげである。
(俺なんかと話して何が面白いのやら)
内心で卑下しつつも会話を広げる努力はしてみようと思った。
沈黙の方がそれはそれで耐え難い。
「お姉さんはどこから来たんですか?」
「あたし?あたしは生まれも育ちもカマクラよ。ヤマトの行政の中枢、幕府のお膝元だね」
「中学の修学旅行で行ったことがあります」
「軍事施設とかビジネス街ばかりであんまり面白くなかったでしょ?海辺なら昔は風光明媚な海水浴場があったらしいけど今は埋め立てられちゃって、それでも土地が足りないからメガフロートなんてものまで次々と建設してる。ホント夢がないわよね。経済大国の地位がそんなに大事かっての。どうせ旅行に行くなら自然保護区のあるエゾかリュウキュウにでもしてくれればいいのに」
「どちらも行ったことはないですね」
「それは人生損してるよ。時間があるなら一度は行くべきよ。いいえ、ここはおねーさんと一緒に行きましょう!しばらくは無理かもだけど必ずね」
(社交辞令というやつかな)
黙って適当に相槌を打つミコト。
「連絡先教えてよ……っていっけない。まだお互いの名前も知らなかったわね。あたしはソフィア・カンザキ。23歳。現在無職よ。明日から学生。ね、キミはまとまった休みとかとれる人?お姉さんと旅行行ってみたくない?来年の予定はどんな感じ?」
まるで十年来の友人のように接してくる。
対人経験の少ないミコトには手に余る状況だった。
(え?本気なのかこの人。悪い人じゃなさそうだけど、できれば変身はしたくないからな。お断りしよう)
「すみません。そういうのは遠慮させてもらいたいです。昨日の今日でほとんど初対面ですし」
物怖じせずに言うことができた。
変身していると気分が高揚し、普段より自信がつく。
その作用なのかもしれなかった。
「うーん、ガードが固いわね。せめて名前!名前だけでも教えて!」
ドアインザフェイスという交渉術だろうか。
最初に難易度の高い要求をつきつけてから、段階的に要求水準を下げていく手法だ。
(名前くらいならいいか?いや、でもそれもまずい気がする。どこから正体がバレるとも限らないしな)
「ミカゲ。ミカゲ・アメノ」
咄嗟に考えた偽名で答えたミコトだった。
「ミカゲちゃんか。名は体を表す綺麗で神秘的な響きのする名前だね。あたしの心に深く刻んでおくわ。ところでミカゲちゃん」
「何ですか?」
「そろそろ何をしている人なのか教えてプリーズ」
職業当てクイズにもしびれを切らし始めたらしい。
(それぐらいならいいか。この人と関わりなさそうな業界だし)
「冒険者です」
そう告げた瞬間、隣のソフィアが肩を密着させてきて手を取り合わんばかりに喜んだ。
「おお!じゃあ、あたしの先輩ってことになるじゃん。あたしさ明日から冒険者学園の学生になるのよ」
「えっ!?」
ソフィアとは逆にミコトはしくじったかと表情を険しくした。
(学生ってそっちのか!?やばっ!いやいや落ち着け。まだ大丈夫だ。ミカゲなんて学生は最初から存在しないんだ。いないものは探せない。したがって今の俺がミコト・ヒラガだとバレることもない)
ただし、懸念すべきはミコトの対人スキルである。対照的にソフィアの方は驚くほど人見知りしないコミュニケーション能力の塊だ。
このまま会話に付き合っていたら嘘を重ね続けた代償としていつか何処かで矛盾が露呈するとも限らない。
撤退が最善手だと判断する。
「おーい、どうしたの?何か焦ってるように見えるけど。んー、もしかしてのぼせちゃった?」
ソフィアが体勢を変えて心配そうに顔を覗きこんでくる。
つい、目が合ってしまった。
濡れ髪の美女が対面で密着するかしないか。わずか数センチの距離にいる。
視界を埋めつくすのは扇情的なまでに艶めかしすぎる肌。大きすぎず小さすぎず形のよい乳房。
16歳の少年には刺激が強すぎた。
顔面が沸騰しかねないほどの熱を帯びる。
「わ、滅茶苦茶顔赤いよ!無理させちゃってごめんね。先にあがった方がいいわ」
意図せず噴出した少年らしい初な反応がこの場を切り抜ける奇貨となった。
(ありがたい、湯中りだと勘違いしてくれた)
「ええ、そうみたいです」
「大変!お水とかいる?肩貸そうか?」
「いえ、お気持ちだけで十分です。お先に失礼しますね」
湯船から出ると振り返らず危なげない足取りで脱衣所に向かう。
不審に思われても構わなかった。
(元の姿に戻ったら関わることもないだろう。でも、ちょっともったいない気もする。いやいや、何を考えてるんだ)
雑念を振り払おうとしながら浴場を出たミコト。
先ほどまでの肌色な光景を脳内に保存しておくべきか否か。
悶々とした眠れない夜を過ごすのだった。
それから6日後。
変身が解けたミコトは浪費した時間分の遅れを取り返すべくソロでも攻略できる最下級ダンジョンに出発しようとしていた。
前回と異なり制服を着込み、その上に厚手の鉄鎧を装備している。
今日も今日とて一人だ。
ゲートまでの道中、6日間の間に温めていた考えを反芻する。
鍛練ができなかったからといってサボっていたわけではない。
「ねえ、キミ。ちょっといいかな」
(次の試験こそ『日の御蔭』は封印してクリアしないと。そのためにはまずレベルだ。生体エネルギーを貯めなければ始まらない)
「ねえ、聞いてる?」
(金銭効率は二の次でいい。装備の質を上げたところで今の力量じゃもて余す)
「ねえってば、無視しないでよ。おーい」
(試験は基本的にソロクリアが無理なように設定されている。だからいずれは誰かと組む必要がある。けど、こっちが10強くなって喜んでいる間に周りが100強くなっていたら意味がない。他人が休んでいるこの休暇期間中の成長が勝負の分かれ目になる)
「聞いてますかー?キミに用事があるんだけど。ねえ」
(ただし無理は禁物だ。蘇生費用の10万は現状ではかなり痛い。いざというときは躊躇せず変身しなくてはならないが、だからといって軽はずみにしていいものでもない。変身の時間が長くなってきている。その間は男としての俺を育てられなくなるから一番貴重な時間を失う羽目になってしまう)
「こんのーぅっ!人の話を聞きなさい!」
突如何者かに耳を掴まれて盛大な叱責をぶつけられた。
直接打撃を受けるのに等しい激痛で鼓膜は麻痺し、耳鳴りを起こす。
(痛ッ!何なんだ!?)
先ほどまで呼び掛ける声は聞こえていたが、対象が自分だとは露にも思っていなかった。
もし、他の誰かに向かってのものだったなら、反応して目が合いでもしたら気まずい思いをするではないか。
(ボッチにいきなり道端で話しかけられることを想定しろとか無理があるだろう。宗教か?キャッチセールスか?N〇Kの集金か?え…………?)
「あ……え…………う……?」
「やっと気づいてくれた」
俯いていた顔を上げると目の前にはレディースもののビジネススーツを着た女性が。
陽光の下で眩しく輝く金髪。生き生きとした感情豊かな碧眼は記憶に新しい。
三度目こそ交わることはないと思っていたその人は――
ソフィア・カンザキだった。




