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幕間 因果応報天罰覿面

 

 冒険者学園の程近く。

 郊外に聳える高層マンションの一室で男がソファーに背を預け、酒杯を傾けていた。

 ソフィアの叔父、リチャードその人である。


 時刻は20時過ぎ。

 湯上がりなのだろう。バスローブ一枚のみを羽織ったリラックスした姿でグラスに満たされた琥珀色の液体を旨そうに啜っている。


「うん、私の見立て通りこれはいいウィスキーだ。しかしこの芳醇な香りを引き立て役にする主役の華が不在なのが残念でならない」


 キザったらしい独白に自ら酔う。


 現在のリチャードに交際中の恋人はいなかった。

 基本的に彼は特定の相手との付き合いが長続きしたことはない。

 求めているのは常に新鮮で刺激的な関係だ。

 安定は望んでいない。

 もし恋人が結婚話をちらつかせてこようものならリチャードはその瞬間に相手への興味を失っている。


 例外的にかつて交際してきた相手の中にはごく一部、彼のどうしようもないサガ(・・)をよく理解していて、結婚願望は一切なく恋人と友人の関係を行ったり来たりする奇特な人がいたりする。いわゆる腐れ縁というやつだ。


 気兼ねする必要のない間柄と言えど、約束もなく、夜更けになってから酒席にお誘いするのは迷惑千万。

 自分の都合だけで呼び立てるのはあまりに礼を失する上、紳士の道にももとる。

 浮気は紳士の道にもとらないのかという質問はしてはならない。

 多くの美しき女性達に愛の種をまくのは男の務めだからだ。

 

「他のもので彩りを添えるとしようか。ソフィアが採ってきた果物をいただこう。今夜が味のピークだからね」


 ちょうど口寂しさを覚えていたところだった。

 ソファーから立ち上がり、キッチンへと向かう。

 冷蔵庫の扉を開けるとそこにはハート型をした果物が鎮座していた。

 庫内に充満していた果実の甘い芳香は瞬く間に外気へ伝播し、キッチン全体に広がっていく。

 

 リチャードは目を閉じてその空気を吸う。

 どこか性的欲求をかきたてられる蠱惑的な香りだ。

 果実は捕食を自ら誘うように皮から透明な蜜を滴らせていた。

 食べ物に似つかわしくない表現は百も承知だが、不気味なまでに妖艶な媚態を醸し出している。


「何かの薬効が隠されているのは確かだ。しかし、何度()てもはっきりとしない。私の目をもってしても価値を完全に見抜けないアイテムがあるとは。やはりダンジョンというものは奥が深い」


 最初に鑑定した通り、食品であり、少なくとも毒ではないことしか判明していない。

 あれから仕事の合間に様々なデータベースをあたってみたが、名前と味の記述以上の情報は見つからなかった。

 それ以前にミチャカフルーツという名前すら登録されていないのがほとんどである。


「買い手がつきにくい生鮮食品でも特定の品目であれば大金を積んででも欲しがる美食家はいる。アンブロシアやネクタールが最たる例だろう。ほとんどは彼らの手に渡る前に痛んでしまうが。しかし、このミチャカフルーツにはリピーターが存在しない。極上の美味と知られているにも関わらず」


 その一点が喉に刺さった魚の小骨のように気にかかった。

 危険はない。ないのだ。だというのにリチャードの本能は食べるべきではないと警鐘を鳴らしていた。


「何を躊躇っているのか。私は一流の鑑定士だぞ。この目で判定したものに自信を持てないでどうする」


 リチャードの鑑定眼は学園の内だけでなく外からも高く評価されている。 

 本人もまた自らが鍛え上げてきたスキルと積み重ねてきた膨大な知識に全幅の信頼を寄せていた。

 そのプライドに懸けて根拠の無い臆病風に吹かれるなどあってはならないのだ。


 リチャードは果実を手に取るとまな板の上に置き、フルーツナイフを握った。

 刃を入れると新鮮な桃を切るような程よい手応えが伝わってくる。

 二つに分けると果肉は淡雪のように白く、ほのかに黄金色の輝きを放っていた。


「ふむ、この果肉、見た目はドリアンに近い。とても美味しそうだ。きっとウィスキーにも合うことだろう」


 一口サイズに切り分けた段階で、「しまった、皿を出すのを忘れていた」

 と順序を違えていたことに気づき、戸棚の前へと移動する。


「希少価値、味、共に最高の果物だ。生半な器では務まらないだろう」


 ここは故郷の名器、ウェッジツリーの皿に盛りつけるべきか?

 王道だ。悪くはない。

 悪くはないが、無難さを重視したようで遊び心に欠ける。

 斬新さがない。刺激がない。

 芸術を愛する数奇者としてそれでは失格だ。


「ミチャカフルーツは今が絶頂なんだ。のんびりと吟味している暇はない」


 美意識に適う器はないか。


(極上の美味には極上の美を合わせてみるのはどうだろう)


 ()

 それについてリチャードはごく最近途方もなく強烈なインスピレーションを与えられたはずだ。


(そうだ、こないだ口説き損ねたあのレディ。東洋の美の極致ともいうべきあの美しさを片鱗でも感じられる品がないものだろうか。……ふむ、だとするならあれしかないだろう)


「宗匠から頂いた古伊万里の皿がいいな。普段使いする品ではないから秘めおいてきたが今が使い時だろう」


 天啓を得たかのようにリチャードは迷いなく動く。

 戸棚の最奥。

 そこに小型の金庫が備え付けられている。

 ダイヤルを回して開けるといかにも歴史を感じさせる古い桐箱があった。

 リチャードはこれを本職の学芸員さながらの丁寧な手つきで取り出す。

 包みを解き、蓋を開けると――

 箱の中には瑠璃の顔料で菖蒲の池が描かれた絢爛な皿が納められていた。

 下世話な話になるがこの一枚に値段をつけるとするなら億単位となる。

 それなりの目利きが備わっている美術商が知ったら、観賞用であって果物を盛るなどとんでもないと悲鳴を上げて騒ぎ立てるほどの代物だ。


「おお!彼女のあの美しい瞳を彷彿とさせる瑠璃色だ。生きた本物には到底及ぶべくもないが、この色を出すために職人がどれだけの研鑽を積んでどれだけの魂を注いだことか。実に素晴らしい」


 なぜ一介の国家公務員が国宝級の名物を所有しているのか。

 それはリチャードが鑑定士としての修業時代、あらゆる分野の芸術家から薫陶を受けたからに他ならない。

 ダンジョンのアイテムに限らず様々な骨董品に目で触れて眼力を養っていたリチャードは、その道の第一人者とも言うべき人々に可愛がられていた。

 そして、彼らの元を発つ時に審美眼を認められた証として貴重な品々を譲られたのだ。


 ミチャカフルーツを古伊万里に盛り付け、リビングに戻ったリチャードは一かけらつまみ口の中に放り込んだ。


「ほう……。確かに極上の美味だ。他の食材に例えるなどこの果実に対する冒涜とさえ感じるほどに」


 舌触りはドリアンに近かった。しっとりとしたカスタードクリームのようである。

 味は別物だった。

 真っ赤な果皮から酸味が強いかと思いきや、優しく、それでいて濃厚な甘さが舌を駆け抜けていく。

 林檎か?白桃か?桜桃か?葡萄か?様々な果物の高級品種を脳内に浮かべるが、どれも似ているようで違う。

 これがこの果実固有の味なのだとしか他に説明しようがなかった。


 咀嚼して果汁の余韻が残っている内に上等のウイスキーを一口含むと、得も言われぬ多幸感に体中を満たされる。


「食べたら無くなってしまうのが惜しくてたまらないな。幸いとこれを求める好事家がいないことだし、今後学生が持ち込んできたら個人的に買い取るとしよう」


 独りごちるものの、また次お目にかかれるか期待できそうもないのが残念でたまらなかった。


 幸福な時間ほど短く感じるものだ。

 あっという間に器が空になってしまう。

 この時のリチャードに次食べられないかもしれないという不満はなくなっている。心地よさだけが体を満たしていて他の感情を抱く余地はなかった。

 リチャードは丁寧に皿の手入れをして桐箱にしまうと戸棚の金庫の中へと戻した。


(まだ宵の口だが寝てしまうか。ベッドの中でいつまでもこの余韻に浸っていたい)


 普段通り歯磨きを済ませ、寝間着に着替えると寝室に入り、そのままベッドに潜り込む。

 毛布と掛け布団を被るとほどなくして寝息をたて始める。

 今までの人生で体験したことのない至高の快楽を味わっていた。


 だが、眠りに落ちてから数時間後。


「んっ……、ぅぅ、はぁ、あっ、あ……ああっ……!」


 熱病に侵されて浮かされているかのような荒い息遣いがベッドルームに響き渡っていた。


「うーん……、うう……はぁ、はぁ……」


 快楽とは苦痛を水で薄めたようなものだ――と説明した人がいる。

 だとするならばほんの少しさじ加減を変えてやるだけで、最高の快楽は最高の痛みに容易く姿を変えるのかもしれない。


「はあ……はあ……」


 毛布にくるまったままリチャードは苦し気に呼吸し続けている。

 それでもなお彼の意識は覚醒せず、深い眠りの中にあった。

 起き上がろうとする気配はない。

 1時間、2時間、男の苦しみにのたうつ声だけがベッドルームに木霊する。


 そして、丑三つ時を越えた頃。

 リチャードの呼吸は急に静けさを取り戻していた。

 

 まさか苦しみのあまり命を落としてしまったのだろうか?

 否。

 毛布の中から微かな、しかし規則正しい寝息が聞こえてきている。

 苦痛の原因となる病の峠が過ぎ去ったのだろうか。

 いずれにしても彼は生きている。

 30を過ぎた男のものにしては小さい、とてもとても小さい、すうすうというささやかな寝息が毛布の隙間から漏れていた。


 ――3時間後。


 カーテンの隙間から差し込む朝日を瞼に受け、同時に目覚まし時計が奏でるアラームの音を聴いて、リチャードは眠りから覚めた。

 

(朝か。ひどい寝汗だ。すぐにシャワーを浴びなくては)


 そのためにはまず目覚まし時計を止めなくてならないが、


(やけに遠いな)


 いつも手が届く範囲に置いているはずなのに指先は空を切るばかりだ。

 そもそも腕全体の感覚が何だか妙だった。

 まるで短い棒でも振り回しているかのような……。


(指先が寝間着の袖の中にあるような感覚がする。どんな寝相を発揮すればそんなおかしな現象が起きるんだ)


 袖がだぶつくほどにまくってみるとようやく手首から先を外に出すことができた。

 ベッドの上を這いずって移動し、アラームを止める。

 時計はいつもと変わらない位置にあった。


 リチャードはまじまじと自分の手を眺めた。


(何だこれは……。私の手なのか……?やけに小さいぞ)


 細い腕だった。二の腕にふっくらと柔らかそうな肉がついていて、体毛が非常に薄く淡い。

 7、8歳くらいの子どもの腕だ。

 試しにグーとパーを繰り返そうとしてみると、目の前の子どもの手は意思の命ずるままに動く。


(どういうことだ!?何が起きている!?)


 跳ね起きてその場に胡坐をかこうとすると、一房の長い髪がこぼれて視界を邪魔する。

 色は間違いなく自分のものと思われるライトブラウンだったが、こんなには長くなかった。

 昨日の10倍以上は伸びているだろう。

 後頭部に触れて手櫛をかけてみると同じように長く重い手応えがあった。

 さらさらとした絹のような手触りは数多の女と浮名を流してきたリチャードには馴染み深い感触だった。

 女と男では頭皮の環境が違う。脂の量に差異がある。栄養状態の違いで必然的に生えてくる髪の質も異なる。

 これはどっち(・・・)の髪なのか?

 人を見る眼にも優れたリチャードが間違えるはずもない。


(……まさか、そんなことがあり得るのか……?魔法でだって不可能だというのに!?私は夢でも見ているんじゃないのか……?ええい!夢でも現実でもいい!とにかく事態を把握しなければ!洗面所へ!姿を確認するんだ!)


 化け物にでも追い立てられているかのようにベッドの縁へ移動する。

 寝起きでまだ意識が明瞭になっていないのか、どうにも見えているものの距離感がおかしい。


(おいおい、床が遠くに見えるじゃないか)


 リチャードの身長は178センチ。

 少年時代から長身の部類で、べッドの高さで不自由な思いをした経験は一度もない。

 なのに今の彼はベッドから降りる。ただそれだけのことに驚きを覚えている。


 リチャードはゆっくりと床に足を下ろすと、盛大に寝間着のズボンの裾を引きずりながら洗面所へ向かった。

 樹齢千年を越える木々が乱立する森に迷い込んだかのようにあらゆるものの位置が目線の遥か上に見えた。

 小人にでもなった気分だった。

 フラフラとした足取りで廊下を進むと裾を踏んづけてバランスを崩し、転ぶ。


「ふぐっ!あうぅ……痛いのです……」


 痛くて涙がこぼれた。

 まったく堪えるということができなかった。

 大人なのに。

 大人なのに小動物を擬人化したような愛らしい声が出ていた。


 (この声は一体……)


 耳元で囁くだけであらゆる女を骨抜きにして虜にしてきた私の豊かなテノールボイスはどこにいったのだ!?

 

 思わず手の平で喉を押さえる。

 

 散文的に言えば、男の人体になくてはならないはずの部品が欠けていた。

 詩的に言えば、御仏かアダムのリンゴがその首にはなかった。

 

 「ふええ……」


 リチャードは泣きべそをかきながら立ち上がる。

 何度も裾を踏んで転びそうになりながらも必死の思いで洗面所に辿り着く。

 しかし、鏡は目線より上の位置にある。自分の姿が映らない。


(そうだ、脱衣カゴを裏返して踏み台代わりにすれば)


「んしょ」


 それで足りない身長は補うことができた。

 後は鏡を覗き込むだけだ。


 観測したが最後、認めたくない仮説は真実に昇華してしまう。

 けれども確かめなくてはどこにも進めない。

 意を決してリチャードは背伸びをした。


「嘘だ……。そんな馬鹿な……」


 その顔が一瞬にして凍りついた。

 自慢の伊達男の姿は鏡の中のどこにもいなかった。

 そこには転んだことで鼻の頭を赤くしたとても可愛らしい――の姿が。


「アハ……ハハ……ハハハッ!アハハッ……!アハハハハハハハハハハッ!!!!!」


 壊れた笑いが朝の洗面所にいつまでも響いていた。

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