031 哀れみ
『ギオォォォォオオオオ!』
それは本能的に恐怖を覚えるような叫びだった。
ギルドの自室から飛び出したレーナは、屋根に飛び乗って空を見上げる。
「何だ、ありゃ……」
街に飛来したその生物は、一瞬人型のように見えた。
しかし、背中から生えた翼や頭の形、そして恐ろしく発達したかぎ爪のついた腕がその印象を否定する。
「チッ……シドリー! 奴が見えるか!」
「は、はい! 確認しました!」
「近隣住民を避難させろ! そんでギルド内にいるBランク以上の奴らを屋根の上に呼べ! 他は避難誘導に回るように指示を出しておけ!」
「分かりました!」
ギルドの扉前にいた受付嬢のシドリーにそう声をかけたレーナは、周辺でもっとも高い建物の上に着地した魔物と視線を合わせる。
当然彼女はこの魔物がセグリットだと分からない。
引っ張り出してきた自分の大剣を構え、呼吸を整える。
「やべぇな……下を守りながら戦えるか?」
レーナの頬を汗が伝う。
セグリットの魔力量は、すでに本来保有していた量を遥かに超えていた。
元々彼はAランク冒険者としてそれなりの魔力を持っていたため、それを超えているということはSランク冒険者にも匹敵しかねないということになる。
冒険者を引退したレーナにとって、Sランク冒険者相当の相手と戦うのは少々状況的にも厳しい。
「デミドラゴンと言ったところか。見た目も黒いし、ディオンたちの言ってた竜の使いか何かか?」
『オォォォォオオオォオオォォオッ!』
「まあ話は通じないわな。さてと――――」
レーナは目を細め、へその下に力を込める。
「来いよ、あたしが相手だ」
彼女から魔力が溢れ出す。
その魔力に釣られ、セグリットは翼と腕を広げて吠えた。
『オォッ!』
「っ……!」
足場にしていた屋根が弾けるほどの脚力で飛び込んできたセグリットは、レーナに向かってかぎ爪を振り下ろす。
真上から叩きつけるように降ってきたその腕を、レーナは大剣で受け止めた。
「ほ、本気かよ……!」
『オオオオオオオッ!』
レーナの足場となっていたギルドの屋根に、無数のヒビが入り始める。
想像以上の威力の高さに、彼女よりもそれを支える足場が持たないのだ。
「うっ――――らぁぁぁああ!」
屋根が完全に崩れてしまう前に、レーナは渾身の力で押し返す。
セグリットはその力にあまり逆らわず、翼を動かしてふわりと彼女から距離を取った。
「おいおい、知能もあんのかよ」
『……ドラゴンブレス』
「っ⁉」
そんなつぶやきが聞こえた直後、セグリットの口に膨大な魔力が溜まっていく。
その様子を見て、レーナの顔から血の気が引いた。
「まさか……そんなもんを街に撃つ気か……?」
町民の避難は始まっているが、まだ完了には程遠い。
今彼が咆哮を放てば、多くの被害者が出ることは明白だった。
それを防ぐには、正面からレーナが受け止めるしかない。
「――――ッ! 上等だッ! あたしの街は壊させやしねぇぞ!」
覚悟を決めたレーナは、セグリットの正面から動かない。
大剣を振りかぶり、咆哮に対して自身の持ちうる最大威力の技で迎え撃とうとする。
そしてセグリットの咆哮が放たれる寸前、どこからか声が響いた。
「……竜ノ右腕」
突然セグリットの真横に現れた翼の生えた男が、いざ咆哮を放とうとしていたその頭を殴りつける。
それによって首の向きを変えられたセグリットの咆哮は、軌道を変えて何もない方向へと消えていった。
そしてセグリットの体自体も殴り飛ばされる形で吹き飛び、ギルド周辺の建物の屋根の上を転がる。
「大丈夫ですか、レーナさん」
「お前……ディオンか?」
「はい。奴は俺に任せて、今は下がっていてください」
レーナは目の前に現れた男の様子に疑問を覚えた。
(こいつは本当にディオンなのか……?)
明らかに今までの彼とは雰囲気が違う。
ほんのわずかにレーナが警戒心を抱いたその時、彼は抱きかかえていた何者かをギルドの屋根の上に下ろした。
「ぷはっ……ディオン! 私を強く抱え過ぎだ!」
「え? ああ、悪い。痛かったか?」
「そ、そこまでではないが……」
屋根の上に足をつけたのは、レーナもよく知るユキだった。
彼女がディオンと呼んで普段通りに接している姿を見て、ようやくレーナは安心する。
「と、ともかく援軍は助かる! 今Bランク以上の冒険者に集まってもらうところだから――――」
「いや、俺一人で十分です」
「え……?」
ディオンは一度翼を動かすと、ふわりと浮かび上がる。
「あいつとは、俺が決着をつけます」
「だ、だが……」
「周りには避難を優先するよう言ってください。それまでの流れ弾は……ユキ、お前に任せたい」
視線を向けられたユキは、ようやく納得がいった様子で頷いた。
「なるほどな。それで私の力が必要だったわけか」
「お前なら広範囲の街を守れる。頼めるか?」
「……他ならぬ貴様の頼みだ。貴様がどれだけ暴れようとも、街には被害が出ないように守ることを約束しよう」
ディオンに頼られたことをどこか喜ぶ様子を見せたユキは、ボロボロになってしまった剣を抜く。
その姿を見て頷いたディオンは、さらに上空へと舞い上がった。
「できるだけ上で戦うようにする。……決着をつけてくるよ」
最後にそう告げて、彼はセグリットの下へと飛んでいく。
対するセグリットはようやく殴れられたダメージから立ち直り、体を起こした。
「……意識は戻ってるんだろ? セグリット」
『――――ドウシテ』
「……?」
『ドウシテ……! オマエハボクノジャマヲスル!』
しゃがれた人ならざる声で、セグリットは喚く。
その瞳に浮かんでいるものは、憎悪と殺意、そして絶望。
彼の感情の昂りに合わせ、その体から黒い魔力が立ち上る。
『ボクハ……僕は貴族なんだ! 選ばれた存在なんだ! なのに……! それなのに! どうして僕が奪われなきゃいけないんだよ!』
吠えたセグリットは漆黒の翼を大きく広げ、ディオンと同じ高さまで舞い上がる。
魔力が膨れ上がる度に彼の体はさらに肥大化し、徐々に徐々に竜そのものに近い形に変わっていった。
ディオンはそれを哀れみのこもった目で眺める。
『何だよ……何なんだよその目は!』
「……セグリット。お前にはもう怒りを通り越して哀れみしか湧いてこない。哀れで、可哀想で、あまりにも惨めだ」
『お前ごときが……! お前ごときがッ! 僕を哀れむなァァァアアアアア!』
絶叫しながら、セグリットはディオンへと飛び掛かる。
ディオンは振りかざされたかぎ爪を紙一重でかわすと、セグリットの頭部を鷲掴んだ。
「翼を持つ俺たちが、こんな地面に近い場所で戦う必要もないだろ?」
『なっ――――』
頭を鷲掴んだまま、ディオンはさらに上空へと飛び上がる。
そしてセグリットの頭から手を離すと同時に、その胴体に拳を一発叩き込んだ。
『ごっ』
「ここなら街への被害も最小限。そしてその最小限の被害もユキが守ってくれる」
ディオンの魔力が高まっていく。
ただでさえ圧倒的に増えていた魔力がさらに増幅し、そこから放たれる圧倒的な威圧感がセグリットを委縮させた。
『何だ……どこからそんな力が……』
「決着をつけよう、セグリット。俺がお前を終わらせる」
ディオンの背中に生えていた双翼の色が、徐々に変化していく。
エメラルド色だったその翼は、片方が金色、そしてもう片方が漆黒に染まった。
続く形で、彼の瞳もエメラルド色と赤色へと変化する。
それはまるで、エルドラとアビスの特徴をそれぞれ反映したかのような姿だった。




