030 仕組まれた変質
まるで暗い水の中にいるような感覚だった。
重くて、苦しくて、冷たい。
その水は俺の動きを阻害するばかりか、口から中に入って肺を満たそうとしてくる。
藻掻いても藻掻いても体は浮上せず、逆にどんどん沈んでいった。
自分が消えていく。
身の毛がよだつようなそんな予感がし始めた時、突然水面に強い光が見えた。
この黄金色の光は――――。
「エルドラ……?」
泡を吐きながら、俺はその光に向かって懸命に手を伸ばす。
そして、俺は。
「……ディオン」
目を開いた。
そして目の前で揺れる金色の髪を見て、心の底から安心する。
「ありがとう、エルドラ。おかげで戻ってこれた」
「よかった……おかえり」
「ああ、ただいま」
潤んだ彼女の瞳と目を合わせ、そっとその頬を撫でる。
肌から指先へと伝わってくる体温が、今は何故か熱いとすら感じられた。
「ディオン!」
「ディオン様……!」
ユキとメリーが駆け寄ってくる音がする。
地面に近いからか、その足音がやけに大きく聞こえた。
(いや……違う)
すべての感覚が鋭くなっている。
風の音、周りの存在の息づかい、心音、匂い。
エルドラから力をもらってから感覚が鋭くなったことには自覚があったが、今の俺の状態はその比ではない。
全能感にも近い何かが、俺の中に湧きあがっていた。
「皆……襲い掛かって悪かった」
「大丈夫だ。私たちに怪我はない」
「だけどユキ、その剣ボロボロだろ?」
「……よく分かったな」
ユキは気まずそうに、背中に隠していた自身の剣の刀身を見せる。
ああ、やっぱり。そんな気がしたんだ。
「……くくく、くははははははははははは! してやられたのう。今回に関しては素直に我の完敗じゃ」
アビスの高笑いが響く。
彼女は愉快そうに、そしてどこか不満の残る顔で、俺を睨みつけた。
「認めよう。お主は人間の中では特別じゃ。我のパートナーになるだけの資格があるかもしれん」
「別に俺はお前のパートナーになりたいわけじゃない」
「そう連れないことを言うでない。我と組めばさらに上に行けるぞ?」
そんな甘い誘惑をするアビスの視線を遮るように、エルドラとユキが俺の前に立つ。
アビスはそんな彼女らを一瞥すると、ため息を吐いた。
「まったく、面倒臭いボディガード共じゃ。……まあよい。結局はエルドラさえ潰せばお主は我の物じゃ。今日のところは預けておくとするかのう」
「……あなたには絶対渡さない」
竜と竜がにらみ合う。
しかし今の俺は、彼女らのやり取りにまで気を裂いている余裕がなかった。
「――――まだ終わってない」
俺がそう一言告げれば、彼女らの視線が俺に向く。
ふらつきつつも立ち上がった俺は、炭と化した奴の体に目を向けた。
「鼓動が聞こえる。あいつはまだ生きている」
そう告げた直後、セグリットの体が突然大きく跳ねる。
そして体を起こし、俺たちへと潰れた顔を向けてきた。
『ガギ……ギガアオ』
「奴は……何故動けるんだ?」
ユキの疑問はもっともだった。
体の組織は死滅している状態なのに、魔臓からまるで湧き上がるように魔力が製造されている。
まるでさっきまでの俺のように。
「アビス、何をしたの?」
「……我は何もしとらん。こうなることは想定外じゃ」
アビスの顔が憎々しげに歪む。
どうやら本当に彼女の計画の内ではなさそうだ。
「どういうつもりじゃ――――フィクス」
「たまたまゴミが道端に落ちていましたので、環境のためにリサイクルでもしようかと思いまして。まあ、慈善活動ですよ」
アビスの視線の先には、長髪の男が浮いていた。
あの男が、クリオラの追っていた"虚ろ鴉"の頭――――フィクス。
「言い訳はいい。我は言ったはずじゃ。くれぐれも我の邪魔だけはするなと」
「ええ、言われました」
「ならばこの茶々入れは命を捨てる行為と見て構わぬな?」
ぶわりと黒い魔力がアビスの体から立ち上る。
この場が一気に冷えるような彼女の怒りが、フィクスに対して向けられた。
決して人間が耐えられる圧力ではない。
――――が、フィクスはどこ吹く風と言った様子でため息を吐く。
「おやおや、怒らせてしまいましたか。まあ、そろそろ契約の切れ目だとは思っていましたので、ちょうどいいかもしれませんね」
「もうよい。お主は黙れ」
「お?」
アビスの片腕が肥大化し、本来の竜の腕となる。
そしてそのかぎ爪を振りかざし、フィクスへと伸ばそうとした。
「アビス、無駄だ。奴に実体はない」
「何?」
俺の声に耳を傾けたアビスは、そのかぎ爪を止める。
どこか驚いた表情を浮かべたフィクスは、俺に対して拍手を送ってきた。
「よく分かりましたね。かなり存在感は出したつもりだったのですが……」
「さっきからお前を貫通して空気が動いている。匂いも、存在感も、全部作り物だ」
「……なるほど、アビス様はとんだ化物を作り出してしまったようだ」
笑みを消し、真顔になったフィクスから、初めて敵意というものを感じ取った。
しかし彼はそれをすぐに引っ込め、さっきまでの胡散臭い笑顔へと戻る。
「やはり私の"虚ろの台本"は魔力が高すぎる存在には効果がないようですね。それが分かっただけでも収穫といたしましょう」
いつの間にか、フィクスの手には黒い本が乗っていた。
彼はその本に何かを書き込んだ様子を見せると、そのページを俺たちへと向けてくる。
「"セグリットはアビスの力によって暴走し、レーゲンの街にて暴れ回る"。さて、これにて今日のところは終幕としましょうか」
フィクスが本を閉じれば、彼の体は徐々に透け始める。
どうやらこの場から離脱するつもりらしい。
「ま、待ちなさい! 私は聖騎士団のクリオラ! 秘密結社"虚ろ鴉"の重要参考人としてあなたをセントラルまで連行します!」
「おや?」
今までまったく展開についていけなかったであろうクリオラが、険しい顔でフィクスに向かって魔術を放つ。
しかし俺の予想通り、彼女の魔術はフィクスの体を貫通した。
「無駄ですよ、国家の犬さん。それと、私に構う前にセグリットさんをどうにかして方がよいのでは?」
「っ……!」
その時、彼らの喋る声をかき消すかのような雄叫びが轟いた。
『ギアァァアアアアアアアアアアアアアア!』
セグリットの体が、さらなる変質を迎える。
全身に黒い鱗が生え、腕と足が竜に近い造形へと変化した。
顔の造形も大きく変わり、さながら全体像は人間大の竜。
歪な翼を広げ、セグリットは風を起こしながら宙に浮いた。
「街に行く気か」
セグリットは口に魔力を溜め、俺たちに向かって放つ。
想像以上の魔力を持っているようで、溜めの少ない"咆哮"だった割には火力が高い。
「っ! エルドラ! ディオンを連れて避け――――」
「大丈夫、当たらないから」
「なっ……」
ユキが驚いた直後、セグリットの咆哮は俺たちの目の前の地面に着弾した。
舞い上がった煙が俺たちの視界を塞ぐ。
そしてその煙が晴れた頃、俺たちの前からセグリットの姿は消えていた。
「ディオン……何故今のが当たらないと?」
「今の一撃に殺意を感じなかった。俺たちに邪魔されず街まで行くための目くらましだと予想したんだ」
セグリットはすでにはるか遠くを自身の翼で飛んでいる。
予想外だったのは、その速度だけ。
速く追わなければ街が危険に晒されるだろう。
「奴と決着をつける。ユキ、ついてきてくれ。お前の力が必要だ」
「あ、ああ……分かった」
俺は背中に力を込め、翼を生やす。
この前アビスと戦った時とは違い、今は自由自在に動かせそうだ。
俺はユキを抱きしめると、そのまま翼を動かす。
「なっ、こ、この姿勢で行くのか?」
「ああ、これならお前を振り落とさずに済む」
「こ、ここここ心の準備が――――」
ユキの言葉を遮るようにして、俺の周囲に風が巻き起こった。
そして俺たちはふわりと浮かび上がる。
「ディオン、私も行く」
「いや、エルドラはここにいてくれ。俺に力を与えたせいで、今は疲れてるだろ?」
「うっ……」
俺を救うために、エルドラは細心の注意を払って力を注いでくれた。
よく見れば顔色も悪い。
かなりの集中力を用いたせいで、極度の精神的疲労を抱えているはずだ。
「大丈夫だ、すぐに戻ってくる。メリーと一緒に待っていてくれ」
「……うん、分かった」
今一度翼を動かし、俺はさらに上空へ。
そしてユキを抱きしめる力を少し強め、一気にセグリットの後を追った。




