018 竜の怒り
雨の中、家屋の壁に寄りかかり項垂れる男を、一人の女が見下ろしていた。
男の方はぴくりとも動かない。
意識を失っているのか、それとも死んでいるのか。
その二つの間で判断がつかないほどに、彼の体は酷く損傷している。
「……ふん。想像以上じゃったな」
彼女————神竜アビスは、口から溢れた血を強引に拭った。
ディオンによるシュヴァルツでの斬撃。
最後の竜ノ強双撃。
その二つの攻撃は、アビスに大きなダメージを与えていた。
「肉体変化で傷を治す? そんなことできるわけがなかろうに」
アビスは自分で口にした言葉を、自身の言葉で否定した。
シュヴァルツにて斬られた傷は、決して治ったわけではなく、表面を肉体変化で補ったに過ぎない。
もちろんそれで止血はできていたが、ダメージが消えたわけではなかった。
実際今もダメージは回復しきっておらず、あの瞬間ばかりは焦りを感じたのは言うまでもない。
(全力を出すまでもなかったが、意外にも人間とは侮れんものだな)
アビスはディオンの前にしゃがみ込むと、その顎に手を当てて強引に上を向かせる。
「ふん、冴えない顔じゃな。しかし————これが中々そそるではないか」
彼女はまるで自分の唇を湿らせるがごとく、一度舌なめずりをする。
そうしてゆっくりとディオンへと顔を近づけ————動きを止めた。
「くはは……! 遅かったではないか、我が同胞よ」
ディオンの胸倉をつかみ上げながら、アビスは立ち上がり、振り返る。
目線の先には、金髪の女が一人立っていた。
その背後にもう一人白髪の女がいたが、アビスの目は正面に立つ女から離れない。
「————ディオンを離して」
「ん? この小僧か? さて、どうするかのう。このまま食ってしまおうか?」
笑顔で言うアビスに対し、エルドラの表情はさらに険しくなる。
彼女自身が発する威圧感はさらに増し、生憎その被害を受けてしまったのは、共に駆け付けたユキの方だった。
(っ……これが本当のエルドラの圧力か……)
今まで、ユキの前でエルドラは本気を見せたことがなかった。
ディオン相手にも見せたことのないその姿を目の当たりにし、ユキは久しく感じていなかった恐怖という感情を思い出す。
「おー、怖い怖い。自分のことですら怒り狂わなかったのに、この男のことになるとずいぶん態度が違うのう」
「その人は、私の特別。どうしてあなたが手を出したの」
「はっ、そんなの決まっとろうが」
アビスは無理やりディオンの体を引き寄せると、その唇に自分の唇を重ねた。
小さく水音が響く。
それはアビスが自分の舌を彼の口の中にねじ込んだ音だった。
「くははっ、血の味しかせんなぁ」
ディオンから手を離せば、彼の体は力なくその場に崩れ落ちる。
「何……を……?」
「我は竜王になりたい。そのためには、一番王に近いお主を陥れるしかない。だからまずこの男から潰すことにしたのだ」
「理由になってないッ!」
エルドラの口から怒号が飛び出す。
無意識のうちに声に魔力が乗ったせいで、周辺の家屋の壁が軋んだ。
彼女は一歩、また一歩とアビスへ迫る。
「私を陥れるなら勝手にして。でも、ディオンは関係ない」
「————そういうところが心底苛立つぞ、エルドラ」
「っ!」
家屋が、世界が揺れる。
二人の圧力が中心でぶつかり、唯一近くで立っていたユキの意識すらも大きく揺らいだ。
「か……はっ」
「ユキ、もっと下がってて」
ここまで培ってきたユキの危機回避能力が発揮され、彼女はエルドラに言われた通りその場から大きく下がる。
臨戦態勢であったならともかく、混乱が勝っていたユキに耐えられる空間ではなかった。
自分の不甲斐なさを自覚してしまったからこそ、彼女の表情は暗い。
「どうして私は、あなたに恨まれなければならないの?」
「己の立場を自覚してないところじゃよ。自分が我らのような他の竜王候補とは違うということを認識しておらず、終いには竜王になどなりたくないなどとほざく」
「……それが、何?」
「竜王も竜王じゃ。竜王になるための条件すらお主に伝えておらんということは、お主が竜王になることがすでに決まっているからじゃろ」
アビスの怒りが増す。
お互いの圧力がぶつかり続けている結果、空を覆っていた分厚い雲が徐々に渦を巻き始めた。
自然すらも影響を受けてしまう。それが神竜という存在である。
「よく聞け、竜王になるための条件とは————それぞれの竜が力を授けるに値する人間を一人選び、その者同士を争わせ、最後の一人にすることじゃ」
「どうして……わざわざそんなことを」
「そんなもんは竜王に聞け。決めたのは奴じゃ。……最初にこの男を見た時、お主が竜王争いにようやく乗り気になったのかと嬉しく思った。じゃがそれすらも偶然だったと知り、我は増々貴様を恨んだぞ」
どこまでもコケにしおって————。
ついに二人の距離は、腕を伸ばせば届く距離にまで縮まった。
「だから、我もこの男を選ぶことにした。竜が選ぶべき人間はたった一人。では逆に、二人から選ばれた人間はどうなる?」
「……っ」
「くはは! そんなもの誰にも分らんよなァ! 今さっきこの男に我の血を注いだ! 二つの竜の力を宿した時、果たして人間の体はまともな状態で存在できるのか……くくくっ、くはははは! 見物じゃ! 実に見物じゃぞ!」
「……あなたの話が本当だとして、もしディオンが壊れれば、その時はあなたも困るはず」
「困らんよ。まだ竜王争いまでは時間がある。その時までに新たな人間を選び直せばいい」
アビスの表情が、怒りから邪悪な笑みに変わる。
その分エルドラの怒気も強まり、益々場の空気は張り詰めていった。
「さて、どうする? エルドラ。ここで我を殺せば、今この男に注いだばかりの血の効果は消えるかもしれんぞ? 我の力が宿る前に我が消えるわけじゃからなぁ」
「そうするしか、ないのなら」
エルドラの体が動く。
超至近距離からの、側頭部へ向けた上段蹴り。
アビスは笑みを浮かべたまま、その蹴りを屈んでかわす。
そのまま一歩後退し、エルドラとの距離を取った。
「くはは! 相変わらず人間体では蹴りばかりじゃな! そんなに足に自信があるのか?」
「威力を考えれば、当然の選択。使わない手はない」
「それもそうじゃな!」
アビスは一歩踏み出し直し、蹴りを放つ。
そしてエルドラもそれに合わせて、同じく再び蹴りを放った。
拳を振るうより、蹴りを放つ方が高い威力が期待できるのはよく聞く話。
竜であるこの二人に、スタイルと呼べるものはない。
己の肉体という武器を、力に任せて振るうだけ。
隙や反動などは考えない。
故に蹴りが多用されるのは、最大火力を考えれば必然と言えた。
「がっ————」
蹴りがぶつかり合った結果、弾き飛ばされたのはアビスの方だった。
彼女は表に出ないように努力しているが、ディオンによるダメージがそのままの意味で足を引っ張っているのは間違いない。
エルドラはよろけたアビスの首を強引に掴むと、そのまま力任せに地面に叩きつける。
地面が激しく揺れ、アビスの体は大きく跳ねた。
「ごほっ……本当に容赦ないのう……」
「————竜ノ右腕」
「チッ」
かろうじて体勢を正したアビスに向け、片腕だけ竜に戻した巨大な拳が放たれる。
足元がおぼつかない彼女では、このタイミングで放たれた拳はかわせない。
「虚構の壁」
突然、エルドラの耳に男性の声でそんな言葉が届いた。
次の瞬間、彼女の目の前に鋼鉄の壁が出現し、その拳が阻まれる。
「どうやら窮地のようですね、アビス様」
「……そう見えていたのなら、お主の目もまだまだ節穴じゃ」
「おやおや、それは申し訳ありません」
アビスの隣に、一人の男が現れる。
エルドラがそう認識した時には、すでに彼女の拳を防いだはずの壁は消えていた。
「……誰?」
「おっと、これは失礼いたしました。私、虚ろ鴉と呼ばれる組織にて長を務めさせていただいております、フィクスと申します」
以後、お見知りおきを————。
そう告げると同時に、フィクスは酷く歪んだ笑みを浮かべた。




