015 長すぎる五分間
「————っ」
判断は一瞬だった。
俺は跳び上がって衝撃をかわし、そのままアビスに向けて殴りかかる。
「引かずに向かってくるか……! 面白いのう!」
こっちは面白くも何ともない。
俺の拳は容易く受け止められ、アビスにまったくダメージを与えられない。
エルドラには到底敵わないとは言え、竜の力で強化された腕なのにこの様。
最近になってようやくつき始めた自信が、いとも簡単に打ち砕かれる。
(考えろ……時間を稼ぐ方法を)
ここで跳びかかったのは、引けば背中を撃ち抜かれると思ったからだ。
こいつから目を離すわけにはいかない。
それに万が一全力でアビスの視界から逃れられたとしても、竜には発達した嗅覚がある。
————いや、待て。
(どうしてエルドラはアビスに気づかなかった?)
その疑問を抱いた瞬間、俺の体はアビスによって投げられ、後退を余儀なくされる。
奴は不敵な笑みを浮かべたまま、一歩ずつ俺に近づき始めた。
今のところはまだ、俺のことを舐めたままでいてくれるらしい。
(ブランダルに乗り移っていた時ならともかく、エルドラの鼻がこんなに堂々と実体化したアビスの接近に気づかないはずがない。だとすると……)
俺はちらりと、地面に視線を向ける。
整備された道は雨によって濡れており、馬車などの通行によって欠けた部分に水が溜まっていた。
雨————そうか、これか。
(雨だから嗅覚が半減してる……視界から外れることさえできれば、今なら逃げられる……!)
最悪逃げられなくても、隠れることができれば五分程度はすぐに稼げるはずだ。
そして次は、視界から逃れる方法を考えなければならない。
「まさかお主、今更逃げようだなんて思っておらぬか?」
「っ⁉」
気づかれた————しかし、だからと言って俺のやることは変わらない。
「……いいじゃろう。逃げるがよい」
「……は?」
「その代わり、貴様が再び我の前に現れるまで、十秒ごとに人間の家屋を一つずつ破壊する」
アビスは自身の指先を、周囲に建っている家屋に向ける。
ぞわりと全身の毛が逆立つような嫌な感覚がして、口が震えそうになった。
奴の威圧感のせいで、どうやら俺の中からここが街のど真ん中であるという事実が抜けてしまっていたらしい。
「先に言っておくが、人間に助けを求めることはできんぞ。魔力をあらかじめ撒き、周囲の人間の意識は刈り取ってある」
「何だと……⁉」
「安心しろ、害はない。————ただ、意識がないということは、逃げられないということじゃなァ」
伸ばした奴の指先に、黒い光が灯る。
「クソっ!」
とっさにアビスと家の間に体を滑り込ませる。
その次の瞬間、俺の腹を熱と衝撃が貫いた。
一瞬だけ意識が飛ぶ。
気づけば、俺の体は建物の中に転がっていた。
どうやら壁を貫き、そのままの勢いで家の中に転がり込んでしまったらしい。
「……ごほっ」
口から血がこぼれる。
視線を胴体へと向ければ、ちょうど胃と腸の周辺を何かが貫いた跡があった。
体から急速に魔力が消費される。
それと同時に、空いていた穴はゆっくりと塞がっていった。
もう魔力は半分ほどしか残っていない。
戦闘が始まってから、どれくらい時間が経ったか。
きっとまだ一分も経っていない。
残り四分以上。これをあと半分の魔力で乗り気るに当たって、頭の片隅に絶望の二文字が浮かびつつあった。
「おーい、はよ来い。そのまま隠れているつもりなら、また別の家を消し飛ばすぞー」
「……くそったれ」
重い体を起こし、立ち上がる。
その時、視界の端に何かが映った。
それはまだまだあどけない、小さな子供の手。
倒れてしまった本棚の下から指先だけが見えており、その体が下敷きになってしまっていることはすぐに理解できた。
「……少し、待て」
「ん?」
俺は家の外にいるであろうアビスに一言告げ、本棚の淵に手をかけた。
一息の下でそれを持ち上げれば、下敷きになっていた子供の体が姿を現わす。
頭から血を流すその子供は、苦しそうにうめき声を漏らした。
「ヒール……」
俺は子供の頭に手を添え、回復魔術を使用する。
緑色の光はすうっと子供の頭に吸い込まれ、痛々しく開いていた頭の傷を塞いだ。
「巻き込むわけには、いかないよな」
こうして逃げ道はなくなった。
しかし、逃げるという選択肢が潰れた途端、何故だか肩が軽くなる。
逃げられないのなら、戦うしかない。
そう思考が固まったことで、覚悟が決まったのかもしれないな。
「人間とは愚かよのう。同種とは言え、知らぬ自分以外の存在のためにその身を犠牲にするとは」
「……愚かで結構だ」
俺は家から飛び出し、アビスの前に立つ。
どこまで行っても弱い俺は、自分のせいで誰かが犠牲になることが耐えられない。
誰かの犠牲の上に生きるなんて、どうしたって苦しいだけだ。
「安心しろ、もう逃げようと考えたりもしない」
「ほう……?」
「死ぬ気で、お前をここに縫い付ける」
竜魔力強化の出力を極力絞り、目に集中させる。
体は脆くなるが、どうせ当たればどれも致命傷なのだ。体で受けるより、かわすことに力を注いだ方がいい。
そしてこれなら、いつもよりも魔力を節約できる。
(ちまちました攻撃はいらない。必要なのは、わずかでもダメージを入れられる大技……)
通常の攻撃は気を引くことすらできやしない。
ならば、わざわざ隙を作りに行くこともない。
時間がかかって困るのはアビスの方だ。
徹底的な受け————それを自分に心掛けさせる。
「ははっ、いい心掛けじゃ!」
集中しろ、限界まで。
アビスの腕が変形する。
それはエルドラが拳を振るった時のような、まさしく竜の肉体。
先端についたかぎ爪が、俺の体をえぐり取るために迫ってくる。
しかし、強化された眼はその軌道を極めて正確に見切っていた。
「……っ」
体をそらし、身一つ分でかぎ爪をかわす。
俺の真横を通過したその爪は、地面に当たってその表面をごっそり抉り取った。
背中に嫌な汗が流れる。
「対応し始めたか! 面白い!」
「っ!」
アビスの攻撃は、まだ終わらない。
爪の先が再び俺に向けられ、今度は内から外へと薙ぎ払うように振るわれる。
俺は地面に張り付く寸前まで体を落とし、真下を潜るようにしてそれをかわした。
(見える……が)
魔力を温存できても、このたった二回の攻撃をさばくだけで大幅に体力を持っていかれた。
体は無事でも、精神力はそうもいかない。
「面白い……! 面白いぞお主!」
アビスの顔が、無邪気に歪む。
そこから始まったのは、掠れば吹き飛ぶかぎ爪の嵐。
女性の細腕のままであればそこまで回避も難しくないが、今振り回されているのは丸太に匹敵する大きさの腕だ。
初めは見切れていた軌道も、体力の消費と共に体が追いつかなくなってくる。
それにそろそろ、集中するに当たって止めていた呼吸が限界だ。
「そら、空気が恋しいか?」
「ぐっ……!」
バレているか。
しかしそれこそが、俺の狙いでもある。
「終いじゃ」
俺の足が止まった瞬間を狙い、爪の先端が俺の胴体へと伸びる。
この甘い攻撃を俺は待っていた。
「ふっ————」
「お?」
体の軸を爪の直線状からずらしながら、腕の内側へと潜り込む。
同時にアビスの脇下に体を入れ、背中を介して彼女の体を持ち上げた。
「おぉぉおお!」
腕が重いせいか、アビスの体は前重心。
それが上手く作用して、俺は彼女の体を完璧に背負い投げすることに成功した。
「けほっ……やるのう」
「ふーっ……ふーっ……」
背中から地面に叩きつけられたことで、多少なりとも息を詰まらせることができたようだ。
アビスが立ち上がるまでのわずかな時間を使って、呼吸を整える。
やっとこさ、これで二分ってところか。




