006 敬礼
(どうする……⁉)
身構える俺だったが、それを嘲笑うかのようにサメの目は逸れていく。
その向く先には、クリオラがいた。
グランドベアーから牙を抜き、サメの体はゆっくりと彼女の方へ向かい始める。
とりあえず全員の息の根を止めてから、ゆっくりと食事を楽しむ気らしい。
さっきから動かないクリオラは、見た所どうやら気絶してしまっているようだ。
水の中で意識を失っている時点で危険な状態であることに間違いないのだが、今はそれ以上に危険な物が迫っている。
(こっちを向け……!)
俺はナイフを取り出し、自分の腕を切りつける。
そこから溢れ出した血が、地底湖の水に溶けだした。
するとサメの動きが止まり、体を俺の方へと向けてくる。
サメは血の臭いに寄ってくるという話は正しかったようだ。
(とは言え、どう戦う……?)
化物サメは俺の方へと向かってきている。
経験上、水の中で戦ったことなど皆無だ。
水圧による動きにくさに加え、間もなく息も続かなくなる。
まともに戦える状態でないのは明らか。
残り僅かな時間、足場のないこの状況で、何とかサメの体に一撃を加えなければならない。
(竜魔力強化!)
まずは強化。
そして正面から突っ込んでくるところを迎え撃つ。
(三十秒、竜ノ右————っ⁉)
拳を引き絞った時、突っ込んできていたはずのサメは一瞬にして体を捻り、姿を消した。
強化された動体視力がかろうじて捉えたのは、奴が下からすくい上げるように食らいついていたその瞬間だけ。
両脇腹を挟むように食らいつかれ、牙が肉にめり込む。
視力と同じく強化された肉体のおかげで牙が貫通するようなことはなかったが————この感覚、おそらく内臓には到達している。
「ごぼっ……!」
空気と共に、血の塊が口から溢れた。
自分の中の魔力が急速に回復によって消費されていくのが分かる。
(このまま水底まで連れて行く気か⁉)
水面が遠ざかっていく。
俺が水の中では無力であるということをすでに理解されてしまったようだ。
だったら————。
(七十秒ッ! 竜ノ回転拳)
肉がミチミチと悲鳴を上げる。
それでも体に捻りを加え、その捻りをさらに拳へ伝え、真上に向かって解き放った。
地面という支えがなく、力が上手く伝達しないこの状況では腕力で物を言わせるしかない。
だからこその七十秒分という魔力消費。
それだけのエネルギーによって放たれた拳は渦のような水流を生み出し、地底湖の水をほとんど水面よりも遥か上方へと巻き上げた。
もちろん俺もサメも、クリオラも、水流に乗って宙を舞う。
「ぷはっ! 無駄に魔力を使わせやがって……!」
大きく息を吸い込み、同じく水流から弾き出されたサメに狙いを定めた。
「竜ノ咆哮!」
俺の口から魔力の本流が放たれる。
それは真っ直ぐにサメを穿ち、その胴体を吹き飛ばした。
肉片になったサメと共に、俺は自由落下を開始する。
その途中、力なく落ちて行くクリオラの体を視界に捉えた。
このままでは頭から地面に落ちる————。
そう確信した俺は、とっさに彼女へと手を伸ばした。
しかし、到底届かない。
脳内に、彼女の首が折れる嫌なイメージが浮かび上がってくる。
死んでしまった命は、どんな回復魔術でも元に戻すことはできない。
「クソっ!」
この事態は、こうなることを予想できなかった俺のミス。
目の前で起きたことにしか対応できない、俺の力不足。
彼女を死なせれば、それは俺が殺したようなものだ。
(届け……!)
伸ばした手を、さらに限界まで伸ばす。
それでもまだまだ到底届かない。
どうすればいい。
どうすれば————。
『ディオンは今、竜の力を持っている。だから竜の技が使えるはず』
「ッ⁉」
頭の中に、エルドラの言葉がフラッシュバックする。
これは確か、レーナさんとのランク検定の前に行った特訓での言葉。
竜ノ咆哮を学んだ後、エルドラは————。
『この他にもいくつかある。あるけど……多分今のディオンができるようになるとしたらこれくらい』
確かにそう言った。
今なら……今ならどうなる?
そう思った時には、ふわりと体が浮かび上がっていた。
まるで背中に翼が生えたかのような、そんな感覚。
気づけば俺の体はクリオラのすぐ側にあった。
手が届く。
とっさに彼女の体を掴み、抱え込むように引き入れた。
地面が迫る。
俺はクリオラの体を庇うようにして、地面に背を向けた。
◇◆◇
水滴が滴る音だけが響いていた。
ダンジョンの壁に背を預けていた俺の横で、もぞりとクリオラの体が動く。
「私は……」
「……気づいたか?」
体を起こしたクリオラが、俺と目を合わせる。
しばし唖然とした後、彼女は俺から距離を取った。
「何故私があなたの側で寝ているのですか⁉」
「覚えてないのか? 自分がグランドベアーの不意打ちで気を失ったこと」
「グランドベアー……うっ、じゃあこの頭痛は」
「頭に岩が当たったんだろうな。傷はもう治したから、痛みが遅れてやってきているだけだ。すぐに回復すると思う」
クリオラはしばし後頭部を擦った後、俺と、そして自分にかかっていた俺のローブを見比べた。
「……思い出しました。グランドベアーが飛び出してきて、そのまま水に落ちて……その後は、全部あなたが?」
「まあ、な」
「そう、ですか……その、ありがとうございました」
クリオラはその言葉と共に頭を下げてくる。
思ったよりも律儀な奴だ。
それに所作の一つ一つに品がある。
どうしてこんな人間がセグリットのパーティに入ったのだろうか。
「すみません、このローブもあなたのですよね。返します」
「もう大丈夫か?」
「はい、こんなところで休んでいるわけには……あっ」
突然立ち上がったせいか、クリオラの体がぐらつく。
とっさに支えに入ると、彼女は慌てた様子で俺を突き放そうとする————が、上手く力が入らないようで、多少腕を突っ張るだけで終わってしまった。
「駄目そうだな……もう少し休んでいこう。火を起こせるものがなくて申し訳ないけど」
「くっ……ですが」
「急ぐ気持ちは分かるけど、仮にも回復魔術師として無茶させるわけにはいかない。十分休んでから移動するぞ」
「っ……」
彼女も自分の体のことは理解しているのだろう。
俺が強い声色で言えば、クリオラは腰を落として壁に背を預けた。
「……いい子だな」
「そんな言い方はやめてください。不快です」
「そいつは悪かった。けどこれくらいは言わせてもらうぞ。あんたに対して思うところがないわけじゃないんだから」
「そうですね……そうでした」
それから、沈黙が広がる。
正直なことを言うと、ただただ気まずい。
俺の憎悪が一身に向けられているのは、他の誰でもないセグリットだ。
その後ろにいたシンディとクリオラに関してはただのおまけという印象が強い。
シンディに関しては奴の後ろをついて歩いているイメージしかないし、クリオラに関しては共にいた時間が短いせいかほとんど印象に残っていないというのが正しい。
だから酷く恨んでいるかと言われたら"多少は"と言った程度。
気さくに話せるわけでもなく、だからってわざわざ顔も合わせないようにするほど面倒くさいことをしたいわけでもなく。
この微妙な距離感に息が詰まりそうだ。
「————あなたには、謝罪の他に一つ礼を告げなければならないことがあります」
そんな沈黙を破ったのは、クリオラだった。
「……あんたに礼を言われるようなことをした覚えはないが」
「そうでしょうね。あなた自身が何かをしたわけではありませんから」
彼女は壁を支えにしながら立ち上がる。
そして俺に向けて、どこかで見たことのある"敬礼"を向けてきた。
この心臓の位置に右手の親指を当てる動作は————。
「改めまして、挨拶をさせていただきます。セントラル近郊聖騎士団一番隊副隊長、クリオラ・エンバースと申します」
そのクリオラの名乗りに対して、俺はもはや呆然とすることしかできなかった。




