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033 アビス

 力なく崩れ落ちたブラックナイトの体が、やがては粒子となり消えていく。

 今度こそ完全に倒すことができたらしい。

 

「うっ……!」


 それを見届けると同時に、俺の体は激痛とともにその場に崩れ落ちる。

 回復魔術に使う分の魔力をほとんど火力面に回したせいで、俺の体は竜魔力強化のデメリットを治しきれていなかった。

 骨が端から砕けていく。

 内臓がかき乱され、神経がぶちぶちと千切れていく。

 

「————ディオン!」


 意識を失う間際、遠くから俺を呼ぶ声がした気がした。


「ディオン!」


 ユキが我に返ったのは、目の前にいたエルドラが彼の名を呼んだときだった。

 エルドラはディオンに駆け寄ると、自身の懐から取り出した治癒のハイポーションを彼の体に振りかける。

 しかし体は治り始めたはずなのに、彼の顔色は見る見る内に悪くなっていった。

 このときのエルドラは理解していなかったが、実は今のディオンは魔力が枯渇したときに陥る魔力欠乏症という症状に侵されていたのである。

 エルドラは人間から見れば無尽蔵に近い魔力を持っているが故に、あまりにもその症状とは無縁だった。

 だからこそ焦りが生まれる。

 

「……魔力欠乏症だ。今すぐこれを飲ませろ」


「え?」


 何をすればいいか分からなかったエルドラの隣に、ユキが立つ。

 彼女の手には魔力回復のハイポーションが握られていた。

 差し出されたそれを受け取ったエルドラは、ユキの顔を見る。


「……感謝する。これは借り」


「ディオンを救いたい気持ちは同じはずだ。ただ……後でディオンの力については教えてもらうぞ」


 エルドラは一瞬の逡巡の後に頷く。

 そうしてポーション容器のコルクを外した彼女は、ディオンの頭を膝の上に乗せて少しずつ中身を口から流し込んだ。

 ポーションが体にしみ込んだ頃には、ディオンの顔色は徐々に回復し始める。

 

「どうやら落ち着いたようだな」


「うん……安心」


 安らかな表情を浮かべているディオンを見て、エルドラは彼の額をそっと撫でた。

 そんな二人を傍から見ているユキは、自身の胸の奥に芽生えた痛みに顔をしかめる。

 

(ディオンの一番近くにいるのは……ずっと私だと思っていたんだがな)

 

 あれだけ長く時間を共にしたはずなのに、いつの間にか幼馴染が遠い場所に行ってしまった。

 その喪失感が、ユキの胸の痛みの正体である。


「……取り込み中すまない。少しいいか?」


「ロギアン?」


 エルドラの側に寄ってきたロギアンは、視線をディオンに向けたまま口を開く。


「俺はこのダンジョンの危険性を報告するため、一刻も早く外へ出ようと思う。お前たちとはここで一度お別れだ」


「そう……多分ディオンもそれがいいって言うと思う」


 ロギアンは背を向けると、入ってきた扉の方へと歩き出す。

 しかし一度足を止め、再び口を開いた。


「その男が起きたら伝えておいてくれ。お前の実力は見せてもらった。お前が正しかった……と」


「そういうのは、きっと自分で伝えた方がいいと思う」


「ふっ……それも、そうだな。忘れてくれ」


 最後に笑みを含んだ言葉を残して、ロギアンはこの場を去る。

 去り際、彼は自分が背後に守っていた四人のうちの一人の男に視線を寄せた。

 

「何だぁ? オレの面に何かついてるか?」


「……いや、すまない。特に訳はないんだ」


 ロギアンは一言謝罪を挟み、門番の部屋を出る。


 ――――ブランダルはずっと笑みを浮かべていた。

 

 その視線はディオンに向けられており、目にはギラギラと好奇心が光っている。


「おい、あの男は前からあんだけ強かったのか?」


「え……? い、いえ、私の知っている彼はただの回復魔術師だったはずですが……」


 突然問われたクリオラは、困惑気味に答える。

 ブランダルは益々口角を吊り上げた。

 クリオラもシンディもセグリットも、それには気づかない。

 皆一様に目の前で起きたことを受け入れられていないからだ。


(そうか……! そうか! 分けたな(・・・・)、エルドラよ。無意識かどうかは分からぬが、お主は確かに選んだ(・・・)! 愉快だ……! 実に! 実に!)

 

 ゆらりと、ブランダルの体から黒い瘴気が立ち上る。

 漏れ出していると表現するのが正しいか――――彼の中に潜む『ナニカ』が周りに気づかれるまで、そう時間はかからない。

 

 ゆっくりと、まるで暗い暗い水の中から浮かび上がるかのように、俺はまどろみから生還する。

 わずかな倦怠感とともに目を覚ませば、目の前には美しい金色が広がっていた。

 それを辿っていけば、やがて俺のよく知る顔へと行き着く。


「ディオン、気分はどう?」


「……だいぶマシだ」


「そう。こっちの人が魔力回復ポーションを飲ませればいいって教えてくれた。だから助けられた」


「そうか……」


 視線を横にずらせば、浮かない顔をしたユキがそこにいた。

 今まで生きてきて一度も見たことのないような顔だ。

 いや――確か自分の生い立ちについて思いを巡らせているときも、同じような表情を浮かべていたような気がする。

 おそらく、答えのない思考の波に揺られているのだろう。


「何故だ!」


 そのとき、ユキやエルドラの向こう側から怒鳴り声が聞こえた。

 全員の注意が向いた先には、セグリットが立っている。

 彼は怒りやら困惑やらが入り混じった顔で、俺を見ていた。


「あの状況で黒の迷宮から脱出することなんて万が一もあり得ないはずだ! 君は本当にディオンなのか⁉ どうやって生き延びた! さっきの力は何だ!」


「セグリット……俺に、その問いに答える義務はないだろ。あんたとは口も利きたくもない」


「っ! 回復魔術師ごときがッ! どれだけ僕に助けられてきたか忘れたか⁉ そもそも、僕らが見逃してい(・・・・・)なければ(・・・・)君はここにいなかったんだぞ⁉」


 ——呆れて物も言えない。

 

 錯乱したセグリットの頭の中では、そういうことになっているようだ。

 彼がここでどういった戦いをしたのかは分からないが、きっと自分が敵わなかったブラックナイトという敵を俺に倒されて、気が立っているのだろう。

 ここまでプライドが高いともはや恐怖すら覚える。


「……ディオン。あの人倒していい?」


「いや、お前たちはここにいてくれ」


 俺がエルドラの言葉に答える前に、ユキが口を挟む。

 そうして彼女はセグリットへと近づいて行った。


「あっ……ゆ、ユキさん……これはその」


「私も、お前の顔はあまり見たくない」


「ぶっ――」


 ユキが拳を叩きつければ、セグリットの体は宙を舞う。

 床を跳ねるようにして転がり、やがて壁に叩きつけられる形でその動きは止まった。


「セグリット⁉」


 シンディは驚いた声を上げると、がくりと項垂れたセグリットへ駆け寄っていく。

 そんな二人に背を向けて、ユキは俺たちの下へと戻ってきた。


「……すまなかった、ディオン。セグリットたちを睨んでおかなかったのは、私の失態だ」


「ユキの責任じゃない。お前の足を引っ張っていたのは事実だと思うし、それは俺にとってずっと劣等感の原因でもあったから」


 セグリットのことは許せない。

 許せるわけがない。

 ただ、おかげでエルドラと出会えた。


「ユキ、俺少しは強くなっただろ?」


「ああ、驚いたよ」


「全部ここにいるエルドラのおかげなんだ。訳はここから出た後にちゃんと――――」


 ——血を分けてもらったんだろ?


 俺の言葉を遮るように、声が聞こえた。

 声の主は、エルドラに敗北したブランダルとかいう男。

 しかしギルドで会ったときの彼とは雰囲気がまるで違う。

 思わず冷や汗が滲み出てしまうような、底冷えした存在と化していた。

 違う、と。

 思わず口から言葉が漏れていた。


「あんた……誰だ?」


「ククク……アハハハハハハハハハ!」


 その笑い声は、男の喉から出ているはずなのになぜか女性の声のようにも聞こえた。

 次第に男と女の声が混ざり始め、不快感が湧き出てくる。

 

『お初にお目にかかる、人間ども。そして久々よのう(・・・・・)、エルドラよ』


 ブランダルの体から、黒い瘴気が噴き出す。

 それは一瞬ブラックナイトを彷彿とさせるが、奴よりも色濃く、そして禍々しいものだと理解してしまった。 

 あれはエルドラと同じく、人の身で敵う存在じゃない。


「どうして……ここにいるの」


『連れぬことを言うな。霊峰から落ちたお主を追って――というのは冗談だが、我にも我なりの目的があるのだよ』


 エルドラの問いに答えながら、黒い瘴気は人の形を成していく。

 やがて現れたのは、艶やかな黒い髪を持つ女。

 顔つきや体系はどことなくエルドラに似ており、吸い込まれてしまいそうなほどの美がそこにあった。

 黒い(ころも)をまとった彼女は、ゆっくりと俺たちの方へと歩み寄ってくる。

 その目に敵意が存在しないことが、逆に恐ろしい。


「エルドラ……彼女はいったい何だ」


「……あれは、私を下界に落とした張本人」


 神竜、アビス――――。

 

 ここで初めて聞いたその名は、俺の今後の人生に大きく関わる存在の名前だった。

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