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薫子の話を聞いている間、ニーナはただただ衝撃を受けていた。
人形になるのは久しぶりだったせいか集中しすぎて、すぐに動くことができなかったのだが頭はちゃんと働いていた。
薫子とダリウスのやり取りを最後まで聞き、驚愕し、それから堪えようのない悲しさが込み上げた。
それは薫子の言いようが酷かったからではない。
そんなことではない。
そんな暴言ではなく、薫子に「異形」「人間じゃない」「化け物」と叫ばれてもダリウスが全く反応しないことに衝撃を受けたのだ。
ダリウスは一つもショックを受けていなかった。
体温にも、心音にも、抱いてくれる腕の筋肉にも動きはなく聞き流しているだけ。
ニーナとて「人間じゃない」と謗られることがあるが、百歩譲ってこちらは褒め言葉だ。
だがダリウスに掛けられる言葉は褒め言葉ではない。
否定しようのない罵倒であり、彼の人としての尊厳を踏みにじる残酷な暴力だ。
それなのに、ダリウスはどの言葉にも動揺一つしなかった。
(薫子さんでいいわけがない……!)
全身が燃えるように熱い。
ダリウスの腕の中で身を起こし、ニーナはおもむろに立ち上がる。
膝をついたままのダリウスを背後に置き、進み出たニーナは背の高い薫子を見上げた。
「そうだよ、薫子さん。あなたの言うことは正しい。あなたは王様のお妃様になるべきじゃないんだ」
「な……!」
肯定され、薫子は途惑ったように口許を戦慄かせる。
「王様は私と一緒で人間とは思えない外見をしてる。それでも中身は普通だ。薫子さんや、ここにいるみんなと一緒。なんにも変らないただの人間」
集まった皆が分かってくれればいい。
溢れ出る感情に声が震えてしまいそうで、ニーナは深呼吸して薫子を見据えた。
「そんなことも分からなくて王様を人間じゃないと罵るなら、あなたは王様のお妃様になるべきじゃない」
目の色がおかしい、髪や肌が白いから何だと言うのだ。
なぜそんなことで「普通ではない」と決めつけられる?
この世で一番怖いのは普通ではない外見をした者ではなく、普通の外見で容赦なく人を傷つける者だ。
ニーナはいまだ動けずにいるダリウスの前に膝をつき、その逞しい首に腕を回し全身を預けた。
「王様、大好き」
誰が何と言おうとダリウスは普通の男で──、いいや、普通よりも優しく理性的で、逞しくて強くて一緒にいて安心できて笑顔が素敵で、ニーナの知らない様々なことを教えてくれ、ニーナ自身を肯定してくれる人なのだ。
「王様におかしなところなんて一つもない。他の人と目や髪の色が違ったって私はそのままの王様が大好き。今まで会った男の人の中で一番格好いいし、一番優しいもん」
「ニーナ……!」
ニーナの細い肩に、ダリウスがそっと額を押し当てる。
広い背がかすかに震え、肩先が濡れるのを感じたニーナは迷わず白髪の頭を抱え込んだ。
(私、何を見てたんだろう)
ダリウスを抱きしめ、その鼓動を感じながら、自分がとてつもなく大きな間違いを犯したことに気づいてしまった。
ダリウスがまったくショックを受けていないなんて、そんなわけがない。
そう見えていただけ。傷つかないよう心構えし、自衛したダリウスを見ていただけなのに。
人間じゃない、などと言われて傷つかない人間などいるはずがない。
「情けないな。君の前で泣くなんて」
涙と苦笑交じりに言われ、情けなくないですと言いたかったのに言葉が続かなかった。
涙をぬぐい、黄金の虹彩まで赤く染めたダリウスは微笑む。
「ニーナ。私はやはり君が好きだ」
「私も。私も、王様が大好きです……!」
こんなに好きだと思えた人は過去にいない。
ダリウスが好きだ。できることならずっとずっと側にいたい。
そう思い心の内を嘘偽りなく答えたのに、ダリウスはなぜか苦笑する。
「ありがとう。どうか君に頼る私を許してほしい」
(え?)
そっと腰に力強い腕が回った。
軽々と抱き上げられ、初めて会った時のようにその左腕に座るような形に落ち着かされる。
ダリウスが大きく息を吐き、その首に腕を回したニーナは彼の全身がこれまでにない緊張に包まれていることを感じた。
ニーナを腕に抱いたまま、ダリウスは舞台中央からまっすぐに千人の観衆を見下ろす。
金紅眼を伏せることなく、白い髪も肌もすべてさらけ出して。
誰一人として言葉を発しない。
ぴんと張りつめた空気を前に、ニーナは見世物小屋で常日頃から慣れ親しんできた感覚と同質のものを感じた。
これは大勢の心が動く一瞬前だ。
一歩間違えれば混乱と恐怖に呑み込まれるが、幼い頃より人間と物質の境を生きてきたニーナは、それを逆方向に変える術を身に着けている。
こんなときに、自分はどうすればいいのか。
考えるまでもなく、ニーナはダリウスの腕に腰かけたまま、無言で群衆の前に左手を差し伸べた。
誰もがハッとその白くたおやかな指先に視線を移す。
唯一動きのあるものに注意を集め、ニーナはその手を中空で右から左へと滑らせた。
見つめる人々を撫でるように動かし、まるで礼をする舞踏者のように軽やかに、ゆっくりと自身の胸へと戻す。
皆が息を詰める一瞬を狙い。
これ以上ないほど明るく、大輪の花がほころぶように華やかに笑ってみせたのだ。
これまで真剣であったニーナの表情が見事なほど切り替わり、こぼれんばかりの愛嬌と麗しさを持つ笑顔に群衆がアッと声を上げる。
〝人形〟から〝人間〟へ────。
にこやかに手を振るニーナはもはや無機質な人形ではなく、比類なく愛らしい、一人の生きた人間の少女だった。
人外の美貌を持つ自分を見つめる人々が恐怖に支配されてしまったとき、どうすればいいか。
笑えばいいのだ。
精神を持たない物が、自分達と同じ存在であると知ったとき、人間は恐怖から解き放たれその美を素直に称賛することができる。
見世物小屋でも一番の人気はニーナが一日の仕事を終え、人間へと戻りにっこりとお辞儀をするときだった。
絶世の美少女。
誰もが見惚れずにいられないニーナが笑顔で身を寄せ、好意を寄せるダリウスを誰が悪しざまに受け取ろうか。
今や人々の表情に一片の恐怖もなく、あるのは初めて見る一風変わった国王と勝負を勝ち抜いた美しい花嫁候補への称賛だけだった。
そこかしこから王宮中を揺るがすような大歓声が沸き上がり、万雷の拍手と喝采が春の空にこだまする。
「ダリウス陛下、万歳!!」
「ラージャム王国万歳!」
「国王様、カッコいい──!」
「ニーナ様のお話どおりだ! 素敵です、陛下!」
どこからか馴染ある後宮の下働き達の声が聞こえ、それらを先導しまとめあげるように九天のよく通る声が中庭に響き渡った。
「お妃様、ニーナ様万歳!」
勝者であるニーナを称える声に、都中に響き渡るような千人の歓呼の声が続く。
「ラージャム王妃、ニーナ様万歳!」
「国王ダリウス陛下、万歳! 王妃ニーナ様万歳!」
空高く駆け上がるような声につられ、見上げたニーナの目に屋根の上から大きく手を振る蛍と葵の姿が映る。
ダリウスに仕える兵士、文官、小姓、女官が涙と笑顔で万歳する姿が見える。
寄り添うダリウスの温かさが頼もしく、視線を戻せばそっと微笑まれた。
大好きな優しい笑顔でニーナを見つめ、ダリウスは覚悟を決めたように唇を開く。
「ニーナ。私は君を愛している。私の、妃になってくれるか?」
大国の妃の地位などどうでもいい。
そんなものはいらないけれど、ダリウスの妃になれば彼の側にいられる。
ダリウスを笑顔にさせることができ、隣に立って彼を傷つけるものから庇うことができるかもしれない。
そのことだけが嬉しくて、喜びに押されるようにニーナはダリウスの首に勢いよく抱きついた。
「なります! 私、王様のお妃様になります!」
爆発するような歓声と喝采の中。
この日、ラージャム王国国王ダリウスに大陸一美しい妃が誕生することとなった──────。




