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金切声のような凄まじい悲鳴が聞こえ、部屋の中央に力なくへたり込んでいた葵はハッと視線を窓に向けた。
(──……ニーナ?)
中庭に集まった群衆のどよめきによって、勝負が始まったことは分かる。
しかし聞こえてくる悲鳴は先ほどまでとは明らかに種類が違った。
ニーナを初めて目にした驚きや感動、畏怖の声ではなく紛れもない恐怖。制止を求めるような響きを持つ叫びだった。
それらは波のように引いては寄せ、大きくなり、小さくなりながらも間断なく聞こえてくる。
(何が起こっているの……?)
ときおり頂点に達したかのような悲鳴が大気を揺らし、葵は速まる鼓動を押さえるように胸元に手を当てた。
様子が見たい。中庭がどうなっているのかを知りたい。
ニーナを見守り、その勝利を応援したかった。
だが、どうしても足が動かない。
自分の惨めで、みすぼらしい姿を誰かに見られるのではないかと思うと窓際に立つことなどできず、衝立の陰から出ることすらできなかった。
帳が下りたままの窓を見つめ、傍らに置かれた漆塗りの平箱に手を添える。
〝──これを、ニーナ様からお預かりしてきました〟
勝負が始まる前、部屋を訪ねてきてくれた九天はそう言って葵にこの箱を手渡してくれた。
衝立から腕だけを伸ばし受け取った葵は、蓋を外し心底驚いた。
中に納められていたのは切り落とされた葵の髪。
綺麗に整えられ、懐紙で結んで束ねられた長い黒髪だったからだ。
〝陛下から添え髪のことを教えられたそうで。昨夜女官に手伝ってもらってニーナ様が作られたんですよ〟
薫子の侍女達に好き勝手刃物を振るわれたため、長さは揃っていない。量も少なく、添え髪にできるほどもない。
言葉を選ばずに言うなら貧相だ。
それでもニーナがどういう気持ちでこれを作ってくれたか存分に理解でき、葵は九天が部屋を去った後も動くことができなかった。
なんとか葵を元気づけたいと思ってくれたのだろう。
食事もとらず沈み込み、衝立の陰から出てこなくなった葵のため。
大事な勝負の前日だというのに──────。
「葵様。少しよろしいでしょうか」
突然ノックと共に現実的な声が聞こえ、自身の髪に触れていた葵はどきりと手を引っ込める。
声の主は中庭にいるはずの九天であり、葵は身をすくませながらおそるおそる返事をした。
「九天様でございますか? どうぞお入りくださいませ」
扉が開かれ、衝立の隙間から見れば入室してきたのはたしかに九天だ。
今はニーナと薫子の勝負の真っ最中のはずだが、一人でこちらへと向かってくる。
少年めいたその顔は怖ろしいほど真剣で、九天がそんな無礼なことをするはずがないのに、なぜか衝立を退けられるような気がして全身の血が下がった。
九天は葵の隠れる場所から距離を置いて足を止め、短く一礼する。
「葵様。現在中庭にてニーナ様と薫子様の勝負が行われ、ニーナ様の周りで剣舞が行われています」
一瞬意味が分からず考え込んでしまったが、九天は葵の返事も待たず話を続けた。
「周りで剣をグサグサ刺せばニーナ様もびっくりするだろうという薫子様の妨害なんですが、それでもニーナ様が反応しない場合はこの牡丹の宮の屋根から矢が射られます」
「!?」
思わず立ち上がりかけた葵に向け、九天は淡々と告げる。
「目測が狂ってニーナ様に刺されば怪我どころじゃすまないかもしれない。事前に薫子様の計画を知った蛍さんは、自分が射手を捕らえるから薫子さん殺しを見逃してほしいと言いました」
「なんですって!?」
そんな馬鹿なことが許されるはずがない。
愕然とした葵の姿が見えるかのように、九天は衝立の向こうで冴え冴えと言い放つ。
「薫子様に向けて矢を射らせてほしいと言ったんですよ、蛍さんは。脅しじゃなく、本当に薫子様を殺すためにね。僕はそれを許可しました」
「────!」
気づけば悲鳴を上げ、衝立の陰から転がり出ていた。
自分がどんな姿をしているかも忘れ、髪を振り乱し九天の腰に取りすがる。
「止めてくださいませ! 兄を、蛍を止めてッ!」
どんな手段でもかまわない。ラージャム中の兵を向かわせ、たとえ蛍が大怪我をしてもいいから止めてほしかった。
牢獄に繋ぎ、もう生涯出られなくても自分が側にいるからそれでかまわない。
「お願いですわ、九天様ッ! お願いします、兄を止めてくださいませ!」
「無理ですね。僕が言って止まるものではない。それにラージャムにとってはどうでもいいことなんですよ。これは瑞国人の間で行われた揉め事ですし、全ての責任は蛍さんが負うと言ってくれましたしね」
「九天様ッ!!」
非難と嘆きを織り交ぜた絶叫には答えず、九天はしがみつく葵の手を強引に外させる。
そして、そのまま痛いほど強く握りしめた。
驚き涙を止めた葵を見下ろし、言い聞かせるように告げたのだ。
「屋根に登るための梯子をご存知ですか? 蛍さんは僕の言うことなんて聞かない。誰が止めに行かないといけないのか、あなたが一番よく分かっているはずだ」
蛍を止めるために、誰が動かなければならないのか。
そして、九天は何をしにここへ来たのか────。
伝えるべきことを全て伝え、葵の手を放した九天は部屋を出ていく。
一人で部屋に残されたまま、葵は声を出すこともできずその背中を見送った。
九天は蛍を止めに行かないだろう。
彼の言うとおり瑞国人同士の揉め事などラージャムにとって些事に過ぎず、薫子が蛍によって殺されても瑞国内が荒れるだけだ。
誰も蛍を止めてくれないし、蛍は薫子を殺すまで憎しみを忘れない。
他でもない葵を傷つけたことを、蛍が許すはずがない。
そんなことは誰よりも葵が一番よく分かっている。
(兄様は、必ず薫子様を殺す)
髪を切られるのはとてつもない悲しみであり、耐えがたい侮辱と恥辱だ。これまで生きてきた自分の全てを喪失してしまったかのような絶望に苛まれた。
────だが、それは薫子が命で贖わなければならないことなのだろうか。
窓の外から大気を揺らすような叫喚が響き、呆然自失だった葵は弾かれたように顔を上げた。
何かこれまでにないことが起こったのか、ざわめきは静まることなく大きくなっていく。
(────行かないといけない)
人々の声に押されるように、葵は髪を切られて以来力の抜けてしまった足を叱咤し立ち上がった。
ふらつきながら振り返れば鏡台に映る自分の姿が目に入り、みすぼらしさに倒れかけたがなんとか堪える。
これ以上一本たりとも切りたくなくて、揃えることすらしていないざんばらの髪。瑞の高貴な娘ではありえない姿だ。
それでも、ニーナの明るい声が聞こえる。
────葵ちゃんは髪を切っても最高に可愛いよ!
(瑞の貴族の娘らしくないから、なんだというの?)
もう瑞になど戻れない。
生きる場所はここにしかない。戻るつもりもないのだ。
薫子の命を奪ってはいけない。ましてや、奪う人間が蛍であるならなおさら。
脱皮するように幾重にも重ねた重い衣を脱ぎ捨て、故郷から永訣の証として贈られた一揃いの衣服を取り出す。
純白の絹の長衣に青いアンタリ。
驚くほど動きやすく軽すぎてまだ頼りなく感じるその衣服を纏い、葵はよろめくように走りだした。




