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九天が宮の奥へ消えて行き、ニーナは二個目の肉饅頭を頬張る。
「九ちゃんは本当に王様のことを考えてるよね。先王様や太后様からも大事にされているみたいだし、王様は幸せ者だ」
「ダリウス陛下が羨ましいですわ。変わった容姿を持って生まれても、ご両親は陛下をお見捨てにならない」
肉饅頭一個でお腹いっぱいになったのか、籠に手を伸ばそうともせず葵は目を伏せる。
「蛍は、陛下とは真逆の環境で育ちましたわ」
「蛍さん?」
葵は膝の上に置いた自身の長い黒髪に触れ、痛ましげに薄紅の唇を引き結んだ。
「蛍は人並み外れた怪力を持って生まれ、自分を抑えることがとても苦手は人でしたの。誰かを傷つけるたび、蛍のご生母様は父に泣いて謝っていらっしゃいましたわ。今度こそ閉じ込めておくから。もう二度と人前には出さないから。こんな化け物を生んでしまって申し訳ない、と」
「それは悲しいね」
蛍の母には蛍の母なりの苦労があったのかもしれないが、息子である蛍は深く傷ついただろう。
「わたくしの実母は早くに亡くなりましたけれど、蛍はいつもわたくしの側にいて慰めてくれて……。恋愛感情は困りますけど、わたくしは蛍が大好きでした。あの方なりに力を抑えようと努力していることを知っていましたし、蛍が傷つくたび励ましていましたわ」
葵は何気なく言っているが、それがどれだ蛍の心を慰めたかは想像に難くない。
「ですが時が経つにつれて、蛍の恋情が父の逆鱗に触れるようになり、父はわたくしを手放すことを決めたのです。わたくしはもう瑞に帰ることはできません」
「えっ、どういうこと? なんで葵ちゃんが放り出されるの!?」
驚きのあまり饅頭を取り落としそうになったが、葵は困ったように笑う。
「蛍はあのとおり血の気が多くて、すぐに周りが見えなくなって腕力に訴えてしまう人ですの。わたくしを愛するあまり、わたくしを泣かせる者には身分や危険も顧みず戦いを挑んでしまう──。わたくしが瑞王に見初められたとき、蛍はあの御方を弑そうと企てましたわ。運良く実行前に止めることができましたが、父は怖ろしくてもうわたくしを手元に置いておくことができないのです」
葵の父は大国ラージャムの王であれば蛍を抑えられると思ったのだろうか。
さすがにここまでは追ってこられまい。追ってきたとしても手が出せまいと思ったのかもしれない。
だが蛍は単身海を渡り、白髪鬼と怖れられる国王の元まで葵を追ってきた。
他国の後宮に忍び込み、宮女の部屋に押し入るという常識では考えられないような荒業をやってのけたのだ。
「事が起こってしまった以上、ダリウス陛下には何を申し上げても遅いと思います。でも蛍がこんなことをしてしまったのもわたくしのため──。わたくしが泣いているのではないか、悲しんでいるのではないかと案じ、後を追ったことに端を発しているのです」
まっすぐに庭を見つめる葵の横顔を覗き、ニーナははむはむと饅頭を咀嚼した。
(そっか……。葵ちゃん、蛍さんのこと心配してるんだ)
こうして父に捨てられる原因となっても、葵は蛍を庇おうとしている。
兄の恋情に困惑しているのは事実かもしれないが、嫌ってはいない。昨夜の怒りの一番の原因は、自分のせいで彼が危険を顧みず異国に来たことにあるのではないか。
(でも、葵ちゃんが本当にお父さんに捨てられたんなら話は変わってくるよね?)
今の葵にとって蛍は間違いなく頼もしい存在だ。葵が瑞に帰れないと聞いて驚いたが、心配する必要もなくなりニーナはのんびりと食事を終えた。
「じゃあさ、蛍さんが迎えに来てくれてよかったよね。この花嫁選考会が終わったら蛍さんと結婚してラージャムで働くの?」
「まさか! わたくしと蛍は母親違いとはいえ兄妹ですのよ!?」
「え、なんでダメなの?」
「なんでも何も常識ですわ。父からは、花嫁に選ばれなかったときは潔く帰りの海に身を投げてこいと申し渡されました」
「なにそれ!?」
親とも思えぬ言い様にニーナが思わず立ち上がったとき。
「──まあ、みっともないこと。階に座り込むなど」
突然背後から聞き覚えのない女性の声がして、ニーナと葵は同時に振り返った。
扉に近い宮の廊下に、十人ほどの女性が立っている。
どの女性も床を流れるほど長い黒髪で、色とりどりの重ね着の衣装をまとっていた。
(瑞の人……?)
装いが普段の葵とそっくりだ。中でも一際髪の長いニ十代半ばほどの女性がいて、開いた扇の端から切れ長の目でニーナを見つめている。
すぐさま葵が階から廊下に戻り、正座し身を伏せた。
「薫子様。ご機嫌麗しくおめでとうございます」
何度も耳にした名にニーナは心中であっと声を上げる。
初めて目にした薫子は色白の細面で、切れ長の涼やかな黒い目をしていた。
女性にしては背が高く、黒髪は豊かに波打ち、ニーナには判断がつかないがおそらく世間的に見れば美人のはずだ。
(この人が……)
宰相達に認められ、ダリウスの側室として内定している女性。
思わず凝視してしまい、ニーナの不躾な視線を受けた薫子は不快そうに扇の陰でため息をついた。
「……本当に綺麗ね。顔だけは」
「あ、はいどうもです。はじめまして、薫子さん」
何をおいてもまず挨拶だ。
だが薫子はニーナに答えることはなく、未だ平伏する葵へと剣呑な視線を移す。
「葵。お前が昨夜ダリウス陛下に無礼を働いたと聞いたわ。あの猪男の蛍もラージャムに侵入しているそうな。お前達兄妹がここにいては瑞国の恥としかなりません。早々に荷物をまとめここから消え去りなさい」
「どうしてですか?」
答えたのは葵ではない。
葵が答えるよりも早く、当然の疑問がニーナの唇を割って滑り出てしまったのだ。
「無礼者! 薫子様はお前と話をしておるのではない!」
「本当に躾のなっていない娘ですこと。話に割り込むなど……!」
侍女達が騒ぎ出し、葵も焦ったようにしきりに目配せをしてくる。
躾はたしかになっていないが、それよりも言いたいことがありニーナは薫子と向かい合うように進み出た。
「葵ちゃんがここから出ていくかどうかなんて、薫子さんが決めることじゃないと思います。無礼なことをしたって葵ちゃん自身も分かってるし、ちゃんと今日中に王様に謝るつもりです」
隣で葵が「え!?」と驚愕の声を上げたが、謝るなら早い方がいいに決まっている。
「ダメ? じゃあ私が後で王様に聞いておくね。葵ちゃんが謝りたいって言ってるけど会いに行っていいですかって。王様優しいからきっといいって言ってくれるよ。もう一回葵ちゃんの部屋に来てもらってもいいし」
「そこの娘! お前は本気でそんなことを言っているの!?」
鋭い声が響き、薫子が柳眉を逆立てニーナに扇を突きつけた。
信じられないと言わんばかりに唇を震わせ、何度も首を振る。
「陛下を呼びつけるなど無礼極まりないわ! 勝手に後宮を抜け出したり、庭を掃除したり……! お前は非常識すぎる!」
「えええ? 王様を呼んじゃダメとか後宮から出ちゃダメとか、庭を掃除しちゃダメとか一切言われてないです」
何を基準にダメだと言われているのかサッパリ分からない。
だが薫子は細い眉を吊り上げ、叱責するように語尾を強める。
「事前に言われなくても常識で分かることよ! お前は常識が無さすぎる!」
「あ、よく言われます。でも王様や九ちゃんに怒られてないし、駄目なことじゃないと思いますよ」
「その失礼な愛称をおやめ! 呼び方を変えたり一人で勝手に出歩いたり、陛下のもとへ押しかけたり! お前には後宮で平等に振る舞うという精神が欠けている!」
「分かりました、じゃあ平等にしましょう。薫子さんも一緒に庭を掃除して、九ちゃんって呼んで、王様に会いに行けばいい!」
これで万事OK。薫子も平等だ。
「────!」
薫子が張り裂けそうなほど目を見開き、周りの侍女達が息を呑む。
それきり誰も何も言わない。あまりに長く沈黙が続きニーナは困惑してしまった。
「ダメなんですか?」
一番簡単な解決法を提案したのだが、なぜか葵まで青ざめている。
「平等に同じことした方がいいんですよね? 私午後から下働きの皆と草刈りしますけど、薫子さんや侍女さんが手伝ってくれればすっごく嬉しいです。だって人数多いし」
なにせ後宮の最大派閥だ。一気に十人ほど増えると喜んだのだが、答える者はいない。
ただ新緑が風に揺れる音と鳥の囀りだけが響き、全員の視線を集めたニーナはわなわな震える薫子に扉の外を指差した。
「鎌とかはそこに置いてあるので自由に使ってください。刈り方が分からなかったら下働きの皆が教えてくれますよ」




