第7話:その涙、絶望につき
路地裏の空気は、大通りの賑わいとは別世界のように冷たかった。
腐った木材と、下水の淀んだ匂い。
華やかな都シンラクの、これが「影」の部分だ。
その暗がりの中に、小さな女の子がうずくまっていた。
年齢は十歳くらいだろうか。着ている服は継ぎ接ぎだらけで、裸足の足は泥にまみれている。
「……うぅ……っ」
膝に顔を埋めて泣いていた少女は、俺たちの足音に気づくと、ビクリと肩を震わせて顔を上げた。
涙で濡れた瞳が、俺とエルナを交互に見る。
怯え、警戒、絶望。
そんな感情が渦巻く目だったが──俺と目が合った瞬間、その強張りがふっと緩んだ。
「……あ」
少女の目から、警戒の色だけが抜け落ちる。
《人畜無害》の効果だ。
見知らぬ男(俺)がこんな至近距離に立っているのに、彼女の本能は「逃げろ」と告げないのだ。
(……好かれてるわけじゃない。ただ、警戒できないだけだ)
俺は心の中で、自分への言い訳のように呟く。
この子の目から恐怖が消えたのは、俺が信頼できる人間だからじゃない。俺が「脅威」として認識されていないからだ。それは、どこか残酷な気休めに思えた。
「どうしたの? 迷子?」
俺はしゃがみ込み、目線を合わせて声をかけた。
エルナも心配そうに隣に並ぶ。
「お母さんが……病気で……」
少女──リナと名乗った彼女は、ぽつりぽつりと話し始めた。
「薬が、買えなくて……このままだと、お母さん死んじゃう……」
「薬代がないの?」
「ううん、違うの。お金だけの問題じゃなくて……」
リナは唇を噛み締め、悔しそうに拳を握った。
「お母さんは、この街の貴族、ラッセル様の屋敷で働いてたの。でも、病気になったら『汚らわしい』って追い出されて……給金も貰えなくて」
「ひどい……」
エルナが息を呑む。
「それに、お母さんの病気を治す薬は『月光草の雫』っていう高い薬なんだけど……この街の在庫は全部、ラッセル様が買い占めてるの。自分のコレクションにするために」
「買い占め……?」
「お願いしても、売ってくれなかった。『使用人の命より、鑑賞用の瓶のほうが価値がある』って……」
リナの目から、また大粒の涙がこぼれ落ちた。
理不尽だ。あまりにもありふれた、権力者による弱者の踏みにじり。
エルナが憤慨して立ち上がった。
「許せない! そんなの、騎士団に通報すれば──」
『無駄だよ』
冷ややかな声が、俺の耳元だけで響く。
フィノだ。
『ここは商連邦。金と契約がすべての国だよ。貴族が自分の資産をどうしようが自由だし、病気の使用人を解雇するのも契約書の範囲内なら合法。……騎士団は動かないよ』
俺も、なんとなくそう感じていた。
エルナの正義感は正しいが、この世界では無力だ。
その時、路地の奥から乾いた足音が近づいてきた。
革靴が石畳を叩く音。
リナが「ひっ」と息を呑み、俺の後ろに隠れた。
「……ここでしたか」
現れたのは、仕立ての良い服を着た痩せぎすの男だった。
背後には、荒くれ者の用心棒を二人連れている。
男は手にした羊皮紙の束をペラペラとめくりながら、無感情にリナを見下ろした。
「リナさんですね。お母様の契約不履行に伴い、この一帯の居住権は剥奪されました。……今夜中に立ち退いていただけますか?」
「ま、待ってください! お母さんはまだ動けないんです! 薬があれば……!」
「それはこちらの知ったことではありません。……契約ですので」
男は冷淡に言い放つ。
その目には、悪意すらなかった。ただ、壊れた道具を処理するような、無機質な事務的な光だけがある。
「ちょっと! 病人を追い出すなんて、あんまりじゃないですか!」
たまらずエルナが割って入る。
男は迷惑そうに眉をひそめ、用心棒たちに目配せをした。
「……部外者の方は下がってください。これは正当な手続きです。妨害するなら、威力業務妨害として処罰しますよ?」
用心棒が剣の柄に手をかける。
エルナも剣に手を伸ばしかけ──俺がその腕を掴んで止めた。
「ユウ!?」
「……やめろ。分が悪い」
ここで剣を抜けば、俺たちは犯罪者になる。エルナの冒険者資格も剥奪されるだろう。
男は鼻を鳴らし、「日没までに立ち退いてください。さもなくば、強制執行します」と言い捨てて去っていった。
残されたのは、絶望的な静寂だけだった。
「……お母さん、もう息も浅くて……わたし、どうしたらいいか……」
リナが俺の袖を掴む。
その手は震えていて、汚れきっていた。
けれど、俺を見る目は縋るようだった。
──助けて。
その無言の叫びが、俺の胸の奥を刺した。
(俺には、金貨がある)
金なら出せる。でも、相手は「売らない」と言っている貴族だ。金を積んでも、売ってくれる保証はない。ましてや、元使用人の子供が金を持っていけば「盗んだな」と疑われるのがオチだ。
詰んでいる。
正攻法では、この親子は救えない。
金で救えない命がある。
『ねえ、悠』
フィノが、試すように囁いた。
『救いたいなら、方法はあるよ』
(……なんだよ)
『君のスキル。《人畜無害》。……これがあれば、どんな警備の厳重な屋敷だろうと、誰も君を止めない』
ドキリ、と心臓が跳ねた。
『盗めばいいんだよ。薬を。……君ならできる。“透明人間”みたいなもんだからね』
盗み。犯罪だ。
日本にいた頃の俺なら、絶対に考えもしなかった選択肢。
でも、今の俺は、命を奪うことさえ経験済みの「異世界人」だ。
目の前で、リナが泣いている。
このまま何もしなければ、母親は死ぬ。
俺が手を汚せば、助かる。
そして何より──誰も、俺を咎めない。
(……ああ、そうか)
俺は、気づいてしまった。
このスキルは、こういう時に使うためにあるんだと。
『君は“正しいこと”を選べる?』
フィノの声が、冷たく突き刺さる。
正しいこと。法を守ることか、目の前の命を救うことか。
俺の中で、何かが音を立てて割れた。
「……エルナ」
俺は立ち上がり、隣のエルナに声をかけた。
「え?」
「リナのお母さんの様子、見てきてくれないか? あと、食べ物と水も買ってあげてほしい。このお金で」
俺は懐から金貨1枚を取り出し、エルナに握らせた。
「ユウは?」
「俺は……ちょっと、知り合いに薬のツテがないか当たってみる。ダメ元だけど、何もしないよりはマシだろ」
嘘をついた。
胸がチクリと痛む。
エルナを巻き込むわけにはいかない。彼女は正義の人だ。泥棒の片棒を担がせるわけにはいかない。
エルナは俺の目をじっと見て──やがて、深く頷いた。
「分かった。ユウのこと、信じるよ。……無理しないでね?」
「ああ。任せとけ」
エルナは疑わなかった。
《人畜無害》のせいか、それとも彼女自身の素直さか。
ただ、一瞬だけ。彼女の瞳に「違和感」のような光が走った気がした。
俺の言葉に、根拠がないこと。俺の「ツテ」なんて存在しないこと。
彼女の理性は、きっと気づいている。それでも、彼女は俺を信じることを選んだ。
彼女はリナの手を引き、「行こう、お母さんのところへ」と優しく声をかけて路地を出て行った。
二人を見送り、一人になった路地裏。
「……さて」
俺は誰もいない虚空に向かって呟いた。
「場所は分かるか? フィノ」
『もちろん。ここから北区画、一番デカい屋敷だよ』
フィノが嬉しそうに姿を現す。
『やる気になった? 義賊ごっこ』
「ごっこ遊びじゃない」
俺は露店で買った安物のフードを目深に被り直した。
腰の《黒哭のスティレット》が、相棒の決意を感じ取ったのか、微かに震えた気がした。
血に飢えた刃物が、俺を急かすように脈打つ。
(もし俺が捕まったら、エルナも共犯扱いされるかもしれない)
(もし薬を盗んだことがバレたら、リナたちにもっと酷い報復が行くかもしれない)
リスクは山ほどある。
それでも、俺は選んだ。
この手を汚してでも、守りたいものがあることを。
「……必要悪だ」
誰に言い訳するでもなく、俺は呟いた。
その言葉は、路地裏の冷たい風に流され、誰の耳にも届くことなく消えていった。
俺は歩き出す。
日が沈み、夜の帳が下りようとしている。
光溢れる大通りを背に、俺は貴族街へと続く暗い道へと足を踏み入れた。




