表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
7/10

第7話:その涙、絶望につき

 路地裏の空気は、大通りの賑わいとは別世界のように冷たかった。

 腐った木材と、下水の淀んだ匂い。

 華やかな都シンラクの、これが「影」の部分だ。


 その暗がりの中に、小さな女の子がうずくまっていた。

 年齢は十歳くらいだろうか。着ている服は継ぎ接ぎだらけで、裸足の足は泥にまみれている。


「……うぅ……っ」


 膝に顔を埋めて泣いていた少女は、俺たちの足音に気づくと、ビクリと肩を震わせて顔を上げた。

 涙で濡れた瞳が、俺とエルナを交互に見る。

 怯え、警戒、絶望。

 そんな感情が渦巻く目だったが──俺と目が合った瞬間、その強張りがふっと緩んだ。


「……あ」


 少女の目から、警戒の色だけが抜け落ちる。

 《人畜無害》の効果だ。

 見知らぬ男(俺)がこんな至近距離に立っているのに、彼女の本能は「逃げろ」と告げないのだ。


(……好かれてるわけじゃない。ただ、警戒できないだけだ)


 俺は心の中で、自分への言い訳のように呟く。

 この子の目から恐怖が消えたのは、俺が信頼できる人間だからじゃない。俺が「脅威」として認識されていないからだ。それは、どこか残酷な気休めに思えた。


「どうしたの? 迷子?」


 俺はしゃがみ込み、目線を合わせて声をかけた。

 エルナも心配そうに隣に並ぶ。


「お母さんが……病気で……」


 少女──リナと名乗った彼女は、ぽつりぽつりと話し始めた。


「薬が、買えなくて……このままだと、お母さん死んじゃう……」


「薬代がないの?」


「ううん、違うの。お金だけの問題じゃなくて……」


 リナは唇を噛み締め、悔しそうに拳を握った。


「お母さんは、この街の貴族、ラッセル様の屋敷で働いてたの。でも、病気になったら『汚らわしい』って追い出されて……給金も貰えなくて」


「ひどい……」


 エルナが息を呑む。


「それに、お母さんの病気を治す薬は『月光草の雫』っていう高い薬なんだけど……この街の在庫は全部、ラッセル様が買い占めてるの。自分のコレクションにするために」


「買い占め……?」


「お願いしても、売ってくれなかった。『使用人の命より、鑑賞用の瓶のほうが価値がある』って……」


 リナの目から、また大粒の涙がこぼれ落ちた。

 理不尽だ。あまりにもありふれた、権力者による弱者の踏みにじり。


 エルナが憤慨して立ち上がった。


「許せない! そんなの、騎士団に通報すれば──」


『無駄だよ』


 冷ややかな声が、俺の耳元だけで響く。

 フィノだ。


『ここは商連邦。金と契約がすべての国だよ。貴族が自分の資産をどうしようが自由だし、病気の使用人を解雇するのも契約書の範囲内なら合法。……騎士団は動かないよ』


 俺も、なんとなくそう感じていた。

 エルナの正義感は正しいが、この世界では無力だ。


 その時、路地の奥から乾いた足音が近づいてきた。

 革靴が石畳を叩く音。

 リナが「ひっ」と息を呑み、俺の後ろに隠れた。


「……ここでしたか」


 現れたのは、仕立ての良い服を着た痩せぎすの男だった。

 背後には、荒くれ者の用心棒を二人連れている。

 男は手にした羊皮紙の束をペラペラとめくりながら、無感情にリナを見下ろした。


「リナさんですね。お母様の契約不履行に伴い、この一帯の居住権は剥奪されました。……今夜中に立ち退いていただけますか?」


「ま、待ってください! お母さんはまだ動けないんです! 薬があれば……!」


「それはこちらの知ったことではありません。……契約ですので」


 男は冷淡に言い放つ。

 その目には、悪意すらなかった。ただ、壊れた道具を処理するような、無機質な事務的な光だけがある。


「ちょっと! 病人を追い出すなんて、あんまりじゃないですか!」


 たまらずエルナが割って入る。

 男は迷惑そうに眉をひそめ、用心棒たちに目配せをした。


「……部外者の方は下がってください。これは正当な手続きです。妨害するなら、威力業務妨害として処罰しますよ?」


 用心棒が剣の柄に手をかける。

 エルナも剣に手を伸ばしかけ──俺がその腕を掴んで止めた。


「ユウ!?」


「……やめろ。分が悪い」


 ここで剣を抜けば、俺たちは犯罪者になる。エルナの冒険者資格も剥奪されるだろう。

 男は鼻を鳴らし、「日没までに立ち退いてください。さもなくば、強制執行します」と言い捨てて去っていった。


 残されたのは、絶望的な静寂だけだった。


「……お母さん、もう息も浅くて……わたし、どうしたらいいか……」


 リナが俺の袖を掴む。

 その手は震えていて、汚れきっていた。

 けれど、俺を見る目は縋るようだった。


 ──助けて。


 その無言の叫びが、俺の胸の奥を刺した。


(俺には、金貨がある)


 金なら出せる。でも、相手は「売らない」と言っている貴族だ。金を積んでも、売ってくれる保証はない。ましてや、元使用人の子供が金を持っていけば「盗んだな」と疑われるのがオチだ。


 詰んでいる。

 正攻法では、この親子は救えない。

 金で救えない命がある。


『ねえ、悠』


 フィノが、試すように囁いた。


『救いたいなら、方法はあるよ』


(……なんだよ)


『君のスキル。《人畜無害》。……これがあれば、どんな警備の厳重な屋敷だろうと、誰も君を止めない』


 ドキリ、と心臓が跳ねた。


『盗めばいいんだよ。薬を。……君ならできる。“透明人間”みたいなもんだからね』


 盗み。犯罪だ。

 日本にいた頃の俺なら、絶対に考えもしなかった選択肢。

 でも、今の俺は、命を奪うことさえ経験済みの「異世界人」だ。


 目の前で、リナが泣いている。

 このまま何もしなければ、母親は死ぬ。

 俺が手を汚せば、助かる。


 そして何より──誰も、俺を咎めない。


(……ああ、そうか)


 俺は、気づいてしまった。

 このスキルは、こういう時に使うためにあるんだと。


『君は“正しいこと”を選べる?』


 フィノの声が、冷たく突き刺さる。

 正しいこと。法を守ることか、目の前の命を救うことか。

 俺の中で、何かが音を立てて割れた。


「……エルナ」


 俺は立ち上がり、隣のエルナに声をかけた。


「え?」


「リナのお母さんの様子、見てきてくれないか? あと、食べ物と水も買ってあげてほしい。このお金で」


 俺は懐から金貨1枚を取り出し、エルナに握らせた。


「ユウは?」


「俺は……ちょっと、知り合いに薬のツテがないか当たってみる。ダメ元だけど、何もしないよりはマシだろ」


 嘘をついた。

 胸がチクリと痛む。

 エルナを巻き込むわけにはいかない。彼女は正義の人だ。泥棒の片棒を担がせるわけにはいかない。


 エルナは俺の目をじっと見て──やがて、深く頷いた。


「分かった。ユウのこと、信じるよ。……無理しないでね?」


「ああ。任せとけ」


 エルナは疑わなかった。

 《人畜無害》のせいか、それとも彼女自身の素直さか。

 ただ、一瞬だけ。彼女の瞳に「違和感」のような光が走った気がした。

 俺の言葉に、根拠がないこと。俺の「ツテ」なんて存在しないこと。

 彼女の理性は、きっと気づいている。それでも、彼女は俺を信じることを選んだ。


 彼女はリナの手を引き、「行こう、お母さんのところへ」と優しく声をかけて路地を出て行った。


 二人を見送り、一人になった路地裏。


「……さて」


 俺は誰もいない虚空に向かって呟いた。


「場所は分かるか? フィノ」


『もちろん。ここから北区画、一番デカい屋敷だよ』


 フィノが嬉しそうに姿を現す。


『やる気になった? 義賊ごっこ』


「ごっこ遊びじゃない」


 俺は露店で買った安物のフードを目深に被り直した。

 腰の《黒哭のスティレット》が、相棒の決意を感じ取ったのか、微かに震えた気がした。

 血に飢えた刃物が、俺を急かすように脈打つ。


(もし俺が捕まったら、エルナも共犯扱いされるかもしれない)

(もし薬を盗んだことがバレたら、リナたちにもっと酷い報復が行くかもしれない)


 リスクは山ほどある。

 それでも、俺は選んだ。

 この手を汚してでも、守りたいものがあることを。


「……必要悪だ」


 誰に言い訳するでもなく、俺は呟いた。

 その言葉は、路地裏の冷たい風に流され、誰の耳にも届くことなく消えていった。


 俺は歩き出す。

 日が沈み、夜の帳が下りようとしている。

 光溢れる大通りを背に、俺は貴族街へと続く暗い道へと足を踏み入れた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ