第5話:その刃、即死につき
シンラクの街を出て、西へ十分ほど歩いた場所に広がる『ウィローの林』。
そこが、俺たちの最初の狩り場だった。
木漏れ日が差し込む穏やかな林道だが、道の脇には粘液の跡や、獣の糞が落ちている。
湿った土と、腐葉土の濃い匂いが鼻をついた。
「この辺りは初心者向けの狩り場だよ。出るのはスライムとか、ホーンラビットとか。……あ、いた!」
エルナが声を潜めて指差す。
茂みの陰に、半透明の緑色のゼリー状生物──スライムがいた。
ぷるぷると震えながら、地面の苔を溶かして食べている。
「スライムは動きは遅いけど、物理攻撃が効きにくいんだよね。核を潰さないと分裂するし」
エルナが剣の柄に手をかける。
だが、俺は彼女を片手で制した。
「俺がやってみる」
「えっ? でも、ナイフじゃスライムには効きにくいけど……」
「試してみたいんだ。この武器を」
俺は腰の鞘から、《黒哭のスティレット》を抜き放つ。
光を吸い込むような黒い刃が、林の空気に触れてヌラリと光った気がした。
『おっ、初陣だね~。見せてもらおうか、呪いの性能とやらを!』
フィノが面白がって俺の頭上を飛び回る。
俺はスライムに向かって、隠れることもなく堂々と歩き出した。
足音を忍ばせる必要はない。
距離、5メートル。
スライムの身体がぶるんと震え、こちらを向く。
だが──逃げない。襲っても来ない。
(……やっぱり、《人畜無害》だ)
俺のことは「動く障害物」程度にしか思っていない。
距離、1メートル。
俺はスライムの目の前に立つ。
そして、黒いナイフを振り上げた。
その瞬間──
ビクンッ!!
俺の手の中で、ナイフが脈打った。
まるで「早く刺させろ」「血をくれ」と急かすように、柄から掌へとどす黒い興奮が流れ込んでくる。
(うわ、気持ち悪っ……!)
生理的な嫌悪感。でも、手は勝手に動くことはない。俺の意思でコントロールできている。
俺はそのまま、スライムの中心にある核めがけて、刃を振り下ろした。
──ズブッ。
抵抗は、皆無だった。
本来なら弾力があるはずの粘液ボディを、このナイフは空気のようにすり抜けた。
パリンッ!
軽い音と共に核が砕ける。
スライムは悲鳴を上げる暇もなく、ドロリと形を崩してただの水たまりになった。
「……え?」
後ろで見ていたエルナが、呆気にとられた声を出す。
「す、すごい……一撃? しかも、あんなに軽く……」
「……切れ味はいいみたいだ」
俺はナイフを振って、刃についた粘液を払う。
いや、払う必要はなかった。
黒い刃が、スライムの残滓をジュウウ……と音を立てて“吸い込んで”しまったからだ。
『はい出ました~! 固有アビリティ《殺意の貫通》!』
フィノが解説を始める。
『このナイフ、“殺すこと”に特化しすぎてて、相手の物理的な防御をすり抜ける権能があるの。スライムの粘液耐性とか、甲羅とか、鎧とか――そういう“硬さ”は、だいたい意味がなくなる』
物理法則の無視。呪いと呼ばれるだけのことはある。
『まあ、リーチが短いから、大きい敵には効果は限定的だし、結界みたいな“外側にあるルール”は別。あと――』
『代償として、普通なら使った瞬間に持ち主の精神が発狂するけどね☆ ユウは平気そうでなにより!』
俺は掌を見る。
ナイフは、さっきよりも黒光りを増して、満足げに震えていた。
「ユウ、すごいよ! 君、もしかして冒険者の才能あるんじゃ……?」
エルナが駆け寄ってきて、目を輝かせる。
彼女には、このナイフの禍々しさが見えていないのか。いや、俺が持っているから「頼もしい武器」に見えているだけか。
「……次、行こうか」
俺は曖昧に笑って、ナイフを鞘に収めた。
◇ ◇ ◇
それからの狩りは、嫌になるほど“効率的”だった。
ホーンラビットは、俺が近づいても草を食み続ける。首元に黒い刃を添えて、引くだけ。
ランドタートルも同じだ。本来ならハンマーで割るような硬い甲羅の上から突き立てれば、抵抗が無いみたいに沈んでいく。
殺意を向けられない俺と、防御を無視する黒哭。
これは戦闘じゃない。……手順通りの「作業」だ。命を奪うことへの忌避感が、効率の良さに麻痺させられていく。
「ふぅ……これで依頼分は達成かな」
一時間後。
俺たちの手元には、大量の素材が集まっていた。
「ユウ、ほんとにすごい……。私、ほとんど見てるだけだったじゃん」
エルナが少し拗ねたように、口を尖らせた。
彼女の剣に出番はなかった。俺が近づいて刺すだけで終わるからだ。
自分の役目がないことに、少し焦りを感じているのかもしれない。
「エルナが背中を守ってくれてたから、集中できたんだよ。索敵はエルナの方が上手いし」
「……もう。口上手いんだから」
彼女は頬を染めて、俺の肩を軽く叩いた。
その距離感。
戦闘(作業)が終わって、少し気が緩んでいるのか、彼女はいつもより俺に近い。
「ねえ、汗かいたし……ちょっと休憩しない?」
木陰に座り込み、水筒の水を回し飲みする。
間接キスとか、そういうのを気にする素振りすらない。俺が口をつけた直後に、平然と口をつけてゴクゴク飲んでいる。
(……この距離感が、一番の“毒”だよな)
俺は水を飲みながら、彼女の横顔を盗み見る。
汗に濡れた首筋。整った睫毛。
もし俺が今、彼女を押し倒したらどうなるだろう?
《人畜無害》の効果で、彼女は抵抗しないかもしれない。「ユウならいいよ」なんて、あの夜みたいに笑って──
「──ッ!?」
突然、背筋に悪寒が走った。原初的な、死の予感。
「……ユウ?」
「伏せろッ!!」
俺はエルナの肩を抱いて、地面に転がった。
ヒュンッ!!
直後。俺たちが座っていた場所の木の幹に、何かが突き刺さった。
音もなく飛来した、漆黒の「針」だ。
刺さった箇所から、樹皮がジュワジュワと溶け始めている。
「え……?」
エルナが目を見開く。
『──おっと、イレギュラー発生。上だよ、悠!』
フィノの声に弾かれるように見上げると、木の上に「それ」はいた。
人型のシルエット。
だが、肌は土色で、顔には目も鼻もなく、ただ巨大な一つ目だけがギョロリと動いている。
手には、吹き矢のような筒。
「……ゴブリン? いや、違う」
「マッド・ストーカー……! どうしてこんな浅い場所に!?」
エルナが悲鳴に近い声を上げる。
Cランク相当の知能犯モンスター。泥と毒を使い、獲物を弱らせてから狩る陰湿なハンターだ。Fランクの俺たちが相手にしていい敵じゃない。
ストーカーの一つ目が、俺たちを見下ろしている。
その視線は──俺の顔、じゃない。右腰の鞘に吸い付いていた。
(……黒哭、か?)
おい、《人畜無害》はどうした。
なんで俺を狙った?
『あー、言ったでしょ? 《人畜無害》は万能じゃないって』
フィノが冷静に告げる。
『あいつらには“感情”が薄い。敵意とか好悪じゃなく、反応条件で動く罠みたいな生態なの。だから《人畜無害》の“敵意ブロック”をすり抜けてくる』
『君の天敵、来たね』
フィノの言葉が重く響く。
マッド・ストーカーが、再び筒を構える。
殺気がない。だから《人畜無害》も反応しない。
ただの「処理」として、俺たちを殺そうとしている。
「エルナ、立てるか!?」
「う、うん……でも、あいつ木の上だよ! 剣が届かない!」
遠距離攻撃手段がない。
俺のナイフも、届かなければ意味がない。
プッ。
乾いた音と共に、二発目の針が飛んでくる。
「くそっ!」
俺はエルナを庇って、ナイフで針を弾き──きれなかった。
チリッ。
左の二の腕に、熱い痛みが走る。
「ユウ!!」
「かすっただけだ……!」
いや、違う。傷口が焼けるように熱い。毒だ。
視界が少し揺れる。指先の感覚が遠のいていく。
このままじゃ、嬲り殺しにされる。
俺の《人畜無害》が通じない相手。初めての「天敵」。
──どうする? 逃げるか?
いや、毒を受けた俺を抱えて、エルナが逃げ切れるわけがない。地形は悪いし、背中を見せれば蜂の巣だ。
なら──やるしかない。
「……エルナ。俺が囮になる」
「なっ……何言ってるの!?」
「あいつの狙いは俺だ。俺が引きつけてる間に、エルナは反対側に回って木を切り倒してくれ。……できるか?」
俺は痛む腕を押さえながら、彼女の目を見た。
嘘だ。囮になんてなれない。毒で動きが鈍っている俺が前に出れば、次の針で確実に死ぬ。
でも──俺には「切り札」がある。
まだ彼女には見せていない、このナイフの本当の力を信じるしかない。
「……わかった。信じる!」
エルナは迷いを断ち切り、茂みへと走った。彼女の背中を見送り、俺は震える足で立ち上がる。
残された俺は、木の下へと歩み出る。
マッド・ストーカーの一つ目が、あざ笑うように細められた気がした。
筒が俺の眉間に向けられる。
(来いよ、三下)
俺は右手のナイフを強く握りしめた。
毒で痺れ始めた腕に、無理やり力を込める。
血を吸いたがっている《黒哭》に、俺は心の中で命令する。
──『殺したいなら、力を貸せ』──
ドクンッ!!
ナイフが、今までで一番強く脈打った。
毒の痛みすら上書きするほどの、強烈な殺意の奔流。
それが俺の血管を逆流し、腕を駆け上がり、身体能力を強制的に引き上げる。
血管が焼き切れそうな熱さ。
自分の意思なのか、ナイフに動かされているのか、境界が曖昧になる。
プッ。
針が放たれた。
──遅い。
俺は半歩ずれてそれを躱すと、木の幹を蹴って宙に舞った。
ただの大学生の運動能力じゃない。
呪いが、俺の体を操っている。
「──ガァ!?」
マッド・ストーカーが驚愕に目を見開く。
エルナが反対側から木を揺らした隙もあったかもしれない。だが、それ以上にこの跳躍は奴の計算外だったはずだ。
その一つ目の前に、俺は到達していた。
「“無害”じゃなくなって、悪かったな」
黒い閃光。
防御無視の一撃が、怪物の顔面を縦に両断した。
骨を断つ硬い感触もなく、ただバターを切るように。
命を摘み取る感触だけが、掌に残る。
着地と同時に、背後でドサリと重い音が響く。
俺は膝をついた。
毒と、呪いの反動が一気に押し寄せてくる。心臓が早鐘を打ち、息ができない。
「ユウ!!」
エルナが駆け寄ってくる声が、遠く聞こえた。
薄れゆく意識の中で、俺は握りしめたナイフを見た。
黒い刃は、怪物の血を啜り、満足げに──紅く、妖しく輝いていた。




