第3話:その距離、ゼロにつき
夜が明けようとしていた。
東の空が白み始め、草原の冷たい空気が少しずつ温みを持っていく。
焚き火は燃え尽き、白い灰だけが残っていた。
俺は一睡もできなかった。
手のひらにこびりついた鉄錆のような臭いが、何度草で拭っても消えない気がしたからだ。
「……ん……ぅ……」
隣の丸太に座ったまま、マントにくるまって仮眠をとっていたエルナが、小さく身じろぎをする。
彼女の肩──昨日、スラッシュビーストに裂かれた傷口。
止血は済んでいるが、包帯代わりの布には赤黒いシミが滲んでいた。
「……エルナ、傷、大丈夫か?」
声をかけると、彼女は薄く目を開け、ぼんやりとこちらを見た。
寝起き特有の無防備な表情。
「……あ、ユウ。おはよ……」
「おはよう。その肩、まだ痛むだろ」
「うーん……ズキズキするけど、歩けないほどじゃ……いっ!」
立ち上がろうとした彼女が、顔をしかめてよろめいた。
俺は反射的に手を伸ばし、彼女の体を支える。
「っと、無理すんなって」
俺の手が、彼女の二の腕と背中に触れる。
服の上からでもわかる、女性特有の柔らかさと体温。
普通なら、ここで身を固くしたり、パッと離れたりするはずだ。異性の、しかも昨日会ったばかりの男に抱き留められているのだから。
けれど──
「あ、ありがと。……ふふ、ユウって意外と力あるんだね」
彼女は、俺の腕の中で力の抜けたまま、くすりと笑った。
拒絶がない。警戒がない。
まるで「自分の体の一部」に触れられているかのような、異常なまでの自然さ。
(……これが、対人関係での《人畜無害》か)
背筋がうすら寒くなる。
俺がもし今、この手を滑らせて、不埒な場所に触れたとしても──きっと彼女は悲鳴を上げない。「あら、手が当たったわよ」と笑うだけかもしれない。
それは男としての夢のようなシチュエーションであり──人間としての尊厳を踏みにじる、最悪の誘惑だった。
『おーおー、朝から役得だねぇ。そのまま押し倒しても、たぶん“合意”と見なされちゃうよ?』
フィノがニヤニヤしながら囁く。
「……黙ってろ」
俺は邪念を振り払うように、慎重にエルナを元の位置に戻した。
「とりあえず、傷の処置をやり直そう。予備の布、持ってるか?」
「うん、カバンの中に……あ、でも自分じゃ巻きにくいかも」
「俺がやるよ」
「ほんと? 助かるぅ~」
エルナは何のためらいもなく、着ていた革鎧の留め具を外し、インナーの襟元を大きく寛げた。
露わになる白い肩と、生々しい爪痕。そして、その奥に見え隠れする下着の紐。
俺は息を止め、震えそうになる指先を叱咤しながら、新しい布を巻いていく。
肌に指が触れるたび、俺の心臓は早鐘を打っているのに、エルナはあくびを噛み殺している。
この温度差。この断絶。
俺は彼女に触れているのに、彼女の「警戒心」には触れられない。
「……よし、これでいいかな」
「ん、完璧! ありがと、ユウ。手際いいね」
「……どういたしまして」
無邪気な笑顔が、今は少しだけ怖かった。
◇ ◇ ◇
日が完全に昇ると、俺たちは出発の準備を整えた。
といっても、俺の荷物は大学の通学カバンひとつ。あとは──
「これ、どうする?」
足元に転がる、スラッシュビーストの死骸。
頭部は俺が石で潰したせいで原型を留めていないが、毛皮や牙は価値があるらしい。
「持っていこう。これだけの大物なら、ギルドでいいお金になるよ。ユウの登録料くらいにはなるはず」
「……俺が倒したことにしていいのか?」
「事実じゃん。それに、私は片腕が痛くて持てないし」
エルナは肩をすくめる。
俺は覚悟を決めて、フィノのナビゲートに従い、エルナから借りた予備のナイフで魔物の「魔石」と「牙」を切り出した。
肉を割く感触。こびりつく脂の匂い。
昨夜の興奮が冷めた今のほうが、吐き気がする作業だった。
ゲームのドロップアイテムみたいに、ポンと宝石が出てくるわけじゃない。骨を断ち、皮を剥ぎ、内臓を避けて、金になる部位を探り出す。
(……気持ち悪い)
でも、俺は手を止めなかった。この世界で生きていくための「最初の収入」だ。
血を草で拭い、戦利品をコンビニの袋(カバンに入ってた)に詰め込む。
それを見て、フィノが感心したように言った。
『へぇ、現代っ子にしては根性あるじゃん。もっとビビるかと思った』
(……生きてかなきゃいけないからな)
俺たちは歩き出した。
目指すは、エルナが拠点にしているという街──シンラク商連邦の都だ。
一時間ほど歩くと、丘の下にその全貌が見えてきた。
「……うわ」
思わず声が出る。
そこにあったのは、想像していた中世ヨーロッパ風の街並みとは少し違っていた。
巨大な湖の上に浮かぶように作られた、石と木材の複合都市。
赤い瓦屋根が連なり、水路を小舟が行き交っている。東洋的な寺院のような建物と、西洋的な石造りの城壁が混ざり合った、独特の活気。
遠くからは、鐘の音と、蒸気機関のような白い煙が上がっているのが見えた。
「あれがシンラク。世界中の商人と冒険者が集まる、“一番欲望に忠実な街”だよ」
エルナが誇らしげに紹介する。
「すごいな……テーマパークみたいだ」
「てーまぱーく? よくわかんないけど、楽しいところだよ。ご飯も美味しいし!」
門へ続く街道は、朝から多くの馬車や徒歩の旅人で混雑していた。
獣の耳を持つ亜人、背中に小さな羽を生やした種族、全身鎧の男たち。
俺のパーカー姿なんて、この多様性の中では目立ちもしない。
門番の兵士が立っていたが、エルナが冒険者カードを見せるとすぐに通された。
俺については──
「そっちの兄ちゃんは?」
「あ、私の連れです。これから登録に行くので」
「あいよ、通ってよし」
一瞥されただけ。
怪しい服装なのに、職務質問のひとつもない。
ここでも《人畜無害》が仕事をしている。俺は「脅威」として認識されない。
街の中に入ると、喧騒が波のように押し寄せてきた。
スパイスの香りと、鉄を打つ音。
色とりどりの看板が並び、露店のおばちゃんが大声で串焼きを売っている。
「まずはギルドに行こっか。登録しないと、魔石も換金できないし」
エルナに先導され、街の中心部へ。
やがて見えてきたのは、剣と天秤を模した紋章が掲げられた、一際大きな石造りの建物だった。
──【冒険者ギルド・シンラク支部】。
重厚な扉を押し開けると、ムッとするような熱気と酒の匂いが漏れ出してきた。
広いロビーには、荒くれ者たちがたむろしている。
壁一面に貼られた依頼書。昼間からジョッキを傾けて怒鳴り合っている男たち。
まさに「異世界」の光景。
(……怖っ)
大学のサークル棟に入るのでさえ緊張していた俺には、ハードルが高すぎる。
足がすくみかけたその時、エルナが振り返って手招きした。
「こっちこっち! 新人受付は右だよ」
彼女の屈託のなさに救われる。
俺は深呼吸をして、カウンターへ向かった。
受付には、眼鏡をかけた知的な雰囲気の女性職員が座っていた。
忙しそうに書類を処理していたが、俺が前に立つと顔を上げた。
「……はい、何のご用でしょう?」
事務的で、冷淡な声。
「あ、あの、冒険者登録をしたいんですけど」
「新規登録ですね。登録料として銀貨一枚かかりますが、お持ちですか?」
俺はエルナを見た。彼女が頷き、懐から銀貨を取り出してカウンターに置く。
「私が立て替えます。その後に、素材の換金もお願いしたいです」
「承知しました。では、こちらの用紙に記入を……あ、文字は書けますか?」
「えっと……たぶん」
フィノの翻訳機能のおかげか、羊皮紙に書かれた文字は日本語のように読めた。ペンを持つと、自然と手が動く。
名前、年齢、性別。
「次に、魔力測定とスキル判定を行います。こちらの水晶に手を乗せてください」
カウンターに置かれた、バレーボール大の透明な水晶。
俺はゴクリと唾を飲み込み、右手を触れさせた。
ブォン……。
水晶が淡く、頼りなく光る。
「……魔力量、極めて微弱。一般市民以下ですね」
受付嬢が淡々と告げる。
周囲の冒険者たちが、チラリとこちらを見て「なんだ、雑魚か」と鼻を鳴らすのが聞こえた。
「続いてスキル開示です。……ふむ」
水晶の中に、文字が浮かび上がる。
──【スキル:人畜無害】
「……『人畜無害』、ですか」
受付嬢が眉をひそめた。
「どのような効果か、ご自身で把握されていますか?」
「えっと……人から警戒されない、とか、そんな感じです」
「なるほど。気配希薄化の一種ですね。斥候や荷運びには向いているかもしれませんが……戦闘向きではありません」
バッサリと切り捨てられた。
まあ、そうだろうな。字面だけ見れば「無害な奴」だ。誰もこれが「攻撃されない無敵スキル」だなんて思わない。
「初期ランクは『F』になります。主に街中の雑用や、採取クエストからのスタートです。……正直、魔物討伐は推奨しません。死にますよ?」
「……肝に銘じます」
俺は苦笑いで頷いた。
過小評価。上等だ。
「弱い」と思われているほうが、俺のスキルはより輝く。
手続きが終わり、手のひらサイズの金属プレート──ギルドカードを手渡された。
そこには【日辻 悠 ランク:F スキル:人畜無害】と刻まれている。
「換金の手続きも終わりました。スラッシュビーストの素材、状態は悪いですが……討伐報酬込みで、銀貨8枚になります」
チャリン、と重みのある袋が置かれる。
登録料を引いても、日本円にして数万円分の価値はあるだろうか。
「ユウ、すごいじゃん! 初仕事で銀貨8枚なんて、大金だよ!」
横から覗き込んだエルナが、自分のことのように喜んでくれた。
ギルドを出ると、昼下がりの日差しが眩しかった。
懐には、自分のお金と身分証。隣には、美少女剣士。
順風満帆に見える異世界スタートだ。
でも、俺は知っている。
俺の手が、すでに血で汚れていることを。そして、この隣にいる少女の笑顔が、俺のスキルによる「強制された安心感」の上に成り立っていることを。
「……あのさ、エルナ」
俺は借りを返そうと思って、銀貨の袋を彼女に差し出した。
「これ、立て替えてもらった分と、昨日の宿代……あと、俺を助けてくれたお礼。全部受け取ってくれ」
エルナは目を丸くした。
「えっ、多すぎるよ! 登録料だけ返してくれればいいのに」
「いいんだ。俺一人じゃ、ここまで来れなかった。……それに、これからは別々に行動することになるだろうし」
そうだ。ここで別れるのが筋だ。
彼女はちゃんとした冒険者。俺はFランクの雑用係。
それに、これ以上一緒にいると、俺のスキルが彼女をどう狂わせるか分からない。
俺は無理に笑って、背を向けようとした。
「じゃあな、エルナ。元気で──」
グイッ。
袖を、強く引かれた。
「……待ってよ」
振り返ると、エルナが少し怒ったような、でもどこか必死な顔で俺を見ていた。
「どうして別行動なの?」
「え? いや、だって俺はFランクだし、足手まといだし……」
「そんなことない! 昨日の……あの戦い、すごかったじゃない」
彼女は俺の手を両手で握りしめた。
温かい。そして、強い力。
「私ね、正直怖かったの。ソロで活動するの、限界かなって。……誰かを信じて背中を預けるのって、勇気がいるんだよ」
彼女の瞳が、まっすぐに俺を射抜く。
「でも、ユウとなら……ユウが隣にいてくれると、なぜかすごく“安心”できるの。こんな感覚、初めてなんだ」
「……っ」
それは、スキルの効果だ。
俺が《人畜無害》だから、お前の本能が警報を鳴らさないだけだ。
そう言いたかった。でも、言葉が喉に張り付いて出てこない。
「だから……お願い。私とパーティ、組んでくれないかな? 期間限定でもいいから」
彼女の上目遣い。握られた手の熱。
フィノが、頭の上で『断れないねぇ~』と茶化すのが聞こえる。
俺は──寂しがり屋で、弱くて、卑怯な俺は。
その温もりを、振り払うことができなかった。
「……俺でよければ。よろしく、エルナ」
「うん! よろしくね、ユウ!」
花が咲くような笑顔。
俺たちは握手を交わした。
それは冒険の始まりの契約であり──俺が彼女の「誤解」を利用して生きていくという、共犯関係の始まりでもあった。
『忘れないでね、悠』
フィノの声が、俺の心にだけ冷たく響く。
『彼女は、君を愛してるわけじゃない。ただ、警戒できないだけなんだから』
分かってる。
その言葉を飲み込んで、俺はエルナの手を握り返した。




