いざ決戦②
ヘーベル公爵家はとても広い。舞踏会の会場となる大広間を一通りぐるりと歩き回ったジャネットは、途方に暮れたようにあたりを見回した。
「いないわね……」
絶対にこの会場のどこかにダグラスがいるはずなのに、なかなか見つけられない。ジャネットがもう一度会場を回ろうと歩き出したとき、一人の男性が前に現れた。
「レディ。ご一曲お相手していただけませんか」
「ごめんなさい。人を探しておりますの」
ジャネットは胸の前に手を挙げると、ダンスカードを差し出そうとした男性に謝罪する。
さっきからひとりで歩いていると次々と男性がダンスに誘ってきて、なかなか前に進めない。壁の花の経験しかないジャネットにとって、これは戸惑いが大きかった。
それでもジャネットはなんとか会場内をもう一周したが、やはりダグラスはいなかった。
──もしかして……。
ジャネットは、そっと大広間を出ると、テラスへと抜けだす。ひんやりとした夜風が頬を撫で、少しだけ飲んだお酒がスッと醒めるのを感じる。
──やっぱりここにいたわ。
会場内にいないということはここではと思った場所に、案の上ダグラスはいた。
しかも、ジャネットがようやくダグラスを見つけたとき、彼はお取り込み中だった。
テラス下の少し薄暗いところにあるベンチで今日も可愛らしい少女となにやら愛を囁き合っている。「愛しているよ」とか、「君だけだよ」という台詞が時折風に乗って聞こえてくる。
ダグラスと婚約して早一年、ジャネットにはだいぶダグラスの行動パターンが読めるようになってきた。どうやらダグラスの舞踏会におけるメインステージはダンスホールではなく、テラス下の物陰と休憩室と呼ばれる個室のようだ。
とりあえず、休憩室にいたら見つけられずに夜が明けるところだったので、テラス下にいてくれていて助かった。ジャネットという婚約者がいながら他の女とテラス下で逢瀬を重ねているのに『よかった』というのもおかしな話だが、とにかくよかったとジャネットは胸を撫で下ろした。
「どうしようかしら……」
ジャネットは少し迷った。
ダグラスと若いご令嬢は体を密着させて寄り添い、なにかを囁き合っている。
どう見てもお取り込み中の男女の間に第三者が割って入っていいものなのか。しかし、待つといってもいつまで続くのかわからない。
こんな冷たい風が吹いているのに寒くないのだろうか。いや、この寒さがむしろ密着するのにちょうどいいのか。とにかく、婚約者の行動がジャネットの理解を超えているのは確かなようだ。
──困ったわね……。
どうするべきかと悩んでいると、タイミングよくダグラスが一人で舞踏会のメイン会場となっているダンスホールの方に戻ろうとするのが見えて、ジャネットは慌てて追いかけた。ご令嬢はそのままテラス下に残っているので、きっとドリンクでも取りに行くのだろう。
用事はさっさと済ませた方がいいと、ジャネットはダグラスに声をかける決心をした。
「ダグラス様」
「──なんだよ」
ジャネットが声をかけると、ダグラスは急いでいるところを邪魔されたとでも言いたげな、不満をあらわにした表情で振り向いた。
しかし、ジャネットと目が合った途端に、慌てた様子で顔に笑みを貼り付けた。
「やあ」
「ごきげんよう。ダグラス様、お久しぶりですわね」
「ああ、久しぶりだね。元気にしていた? きみに会えなくて寂しかったよ」
ジャネットはおやっと思った。これまで、一度たりともこんな甘い台詞をかけて貰ったことなどないのに、おかしいと思ったのだ。
「──ダグラス様、わたくしが誰かわかりますか?」
ジャネットは小首をかしげてにっこりと微笑み、一応その確認をした。
「……もちろんだよ」
応えるダグラスの視線が泳ぐのを、ジャネットは見逃さなかった。
──いったいどなたとお話しているつもりなのかしら?
絶対に婚約者であるジャネットのことがわかっていなさそうだが、本人がわかると言うならばそういうことにしておこう。
「ダグラス様はお元気にされていましたか?」
「ああ、変わりないよ。きみは?」
「ご覧のとおりです」
ジャネットはふふっと笑う。
つられて微笑んだダグラスの手がジャネットの肩に回りそうになったので、それは虫を払いのける要領ではたき落とした。ダグラスが払いのけられた右腕を所在なさげに揺らす。
「わたくし、ずっと気にかかっていたことがあるのです。ダグラス様は今の婚約にご不満があると前に仰ってましたわね?」
ジャネットは周囲を行き交う舞踏会の参加者にも聞こえるように、わざと大きな声でそれを確認した。それを聞いたダグラスは大げさなくらいに眉を寄せた。
「そうなんだ。侯爵家令嬢だからと無理やり僕を婚約者に据えてきて、本当に迷惑している。まいっているんだよ」
「まあ、迷惑されていたのですね?」
「そのとおりだよ。こっちが格下だと思って、横暴だと思わないか?」
大げさに嘆息して肩をすくめるダグラスを見上げて、ジャネットは深くしっかりと頷いた。
「本当にひどい話ですわ。お気の毒に……」
大きくハァッとため息をつき、ダグラスを見つめた。
「ダグラス様。わたくし、あなた様をずっと慕っておりましたの。もう、何年も──」
「ああ。知っているよ」
ダグラスが形のよい口の端を上げ、甘い笑みを浮かべる。
ジャネットもにっこりと微笑んだ。
ジャネットはまだ九歳だったあの頃、優しく微笑むダグラスに恋をした。たった一度の交流で、その後九年間も片想いし続けたのだ。
「でも、終わりですわ」
ジャネットは言葉を止め、目を閉じるとすうっと息を吐いて深呼吸した。もっと早く、こうするべきだったのだろう。
「ダグラス=ウェスタン殿。双方合意で、わたくし達の婚約は解消いたしましょう。長らくご迷惑をお掛けいたしました」
「……へ?」
美しくお辞儀をして顔を上げたとき、ダグラスは呆気にとられた顔をしていた。そして、ようやくその可能性に行き着いたのか、亡霊でも見るような目でジャネットを見つめ、口元を震わせた。
「そんな、うそだろ……? ──まさか、ジャネット?」
「はい」
「! 待ってくれ、違うんだ!」
「違う?」
ジャネットは口元に人差し指を当てて首をかしげる。
「なにも違いませんわ。ダグラス様はこの婚約を疎ましく思い、解消を望んでいらした。わたくしはそれに合意し、双方合意の下で円満に婚約解消した。皆様も聞いていましたし」
ジャネットは片手をゆったりとまわし、自身の周りを指し示す。いつの間にかジャネットとダグラスの回りには野次馬が集まり始めていた。皆、興味津々でこちらを眺めている。
ダグラスは周囲を見渡すと、小さく舌打ちしてジャネットににじり寄った。
「待ってくれ、ジャネット。話し合おう」
「話し合いは今、終わりましたわ」
「ジャネット!」
「ダグラス様。わたくしはもうあなた様の婚約者ではありませんので、馴れ馴れしく呼び捨てにしないでくださいませ」
「だから、それは誤解だ!」
ダグラスの手がこちらに伸びてきたとき、ジャネットはとっさに手で払いのけてよけた。背後に回り、肩口を引き寄せて、片手を顎に入れて──。
「ぎゃふっ」
次の瞬間、ダグラスは床に転がった。
***
全てが終わり、ジャネットがダンスホールにいるアランのもとに戻ったとき、アランはなんとも微妙な表情を浮かべていた。きっと、一部始終をどこかから見ていたのだろう。
「お待たせいたしました。文字通り、ダグラス様をギャフンと言わせて参りましたわ」
「ジャネット嬢。あれはギャフン違いだ」
「あら。いいではありませんか」
ジャネットは扇を胸から取り出すと、楽しげにコロコロと笑う。
見事にきまったジャネットのなげ技で、ダグラスは完全に伸びていた。周囲の人々も一瞬の出来事になにが起こったのか、わけがわからなかったようで──まさか、可憐な見目の侯爵令嬢が自分より大きな成人男性を投げ飛ばしたなどとは誰も想像だにしなかった──ダグラスは突然の婚約解消に混乱して勝手にコルセットで締めすぎた女のように気絶したと思われたようだ。
さきほど、ダグラスはヘーベル公爵家の使用人達によって、大好きな休憩室へと運び込まれた。
「いいのか?」
アランは少し眉を寄せ、真剣な表情でジャネットの顔を覗き込む。
「いいのです」
ジャネットは小さく頷く。
アランはジャネットがダグラスを夢中にさせる女になることを望んでいると思っていたので、婚約解消が引き返せない状況になってしまったことを心配しているのだろう。
「いいのです。なんだか、とてもすっきりとしました。もっと早くこうすればよかったわ」
ジャネットはもう一度、自分に言い聞かせるようにゆっくりとそう言った。本当に、雲がすっかりとなくなって冴えわたる青空のようにすっきりとした気分だった。
ずっと胸につかえていた物がとれたような、すがすがしい爽やかさ。アランもジャネットの表情からそれを察したのか、安心したように表情をゆるめた。
「なら、せっかくだしもう一曲踊る? ダンスカードを見たのだけど、もうそろそろワルツが演奏されるはずだ」
「アラン様がよろしければ、是非」
ジャネットは差し出された手に自分の手を重ねると、この日一番の笑みを浮かべた。




