最終レッスン 自信を持って、笑っていろ
その日、ジャネットは訓練場でフランツに護身術の稽古の相手をしてもらっていた。フランツは第一印象のとおり、とても親切で優しい男性だった。いつもジャネットとシルティ王女が訓練場へ訪れる時に居合わせると、嫌な顔一つせずに親切に相手をしてくれる。
「もう少し力を入れて。僕は平気だから、遠慮しなくていいですよ」
フランツに促されてジャネットは手に力を込める。ジャネットが今練習しているのは相手が力を入れにくくするための拘束技だ。ジャネットが込めた力を感じたのか、フランツは口の端を持ち上げた。
「そう、上手です。この位置を忘れないで。少しでも位置がずれると意味がない」
ジャネットが手を離すとフランツは今ジャネットが握っていたあたりを確認の意味を込めて指差した。ジャネットが目一杯に力を込めたせいで、白い肌はその部分だけ熟れたりんごのように赤くなってしまっている。
「わかりました。──フランツ様、ごめんなさい。赤くなってしまいました」
「いや、大丈夫ですよ。ジャネット嬢のように魅力的なレディに跡をつけられるなんて、役得だ。とても上手く出来ていたよ」
申し訳なくて眉尻を下げるジャネットに、フランツは明るく笑い飛ばす。ジャネットはそんなフランツを見つめた。きっと、多少は痛むはずなのに、ジャネットが気を使わないようにしてくれているのだろう。
フランツといい、アランといい、ジャネットに対してとても親切で優しい。こんな人達が婚約者だったら、幸せだったのかもしれない。ジャネットはふとそんなふうに思った。そして、ジャネットはフランツが以前言っていた事を思い出した。
「以前、フランツ様はダグラス様と幼い時からの友人だとおっしゃってましたわね?」
「ああ、そうだよ。父同士が仲がよくて、よく会っていた」
「一つだけ聞いても?」
「もちろん」
フランツは笑顔で頷く。その笑顔はジャネットの中にある少しの迷いを振りきる手助けをした。
「ダグラス様はいつからああいう調子なのです? その……、少しだけ女性に対してお遊びが過ぎる気がするのです。昔は人の髪を弄るのが好きで、もっと純朴でしたわよね」
「? 人の髪を弄る??」
フランツが怪訝な顔で首をかしげる。
「髪を弄るというのは、ちょっと分かりませんね。ダグラスは小さい時からあの調子ですよ。可愛い子がいたら目がないのです。あのとおり見目がよくてモテましたからね」
そこまで言って、フランツは自分の失言に気付いたようで慌てた様子でジャネットに弁解を始めた。
「あいつはきっと、ジャネット嬢に対して照れているんですよ。じゃないと、こんなに素敵なレディに対して──」
ジャネットは首を横に傾げてその言葉の先を態度で遮った。
ジャネットが聞きたいのはそんなことではない。ダグラスはあの時確かに、ジャネットのことを『陰気な女』と言い、『この婚約は不本意である』と言った。照れているだけの人が本人に隠れて影でそんなことを言うわけがない。それに、婚約者であるジャネットのエスコート役を断って他の女性をエスコートするなど、さすがに道理としておかしい。それくらいジャネットにもわかる。
けれど、目の前のフランツはその事を知らないのだから責められない。
ジャネットにはやっぱり分からなかった。
昔からあの調子? では、自分が見た幼い日のダグラスは、一体何だったのだろうか。
乱れたジャネットの髪を小さな手で一生懸命に結ってくれた。髪に髪飾りを飾り、可愛いよと新緑の瞳を細めて優しく微笑んだ。
もしかしたら、あれは全て夢だったのかもしれない。最近ではそんなふうにすら思えてきた。
「フランツ様はお優しいですね。ありがとうございます」
ジャネットが小さく微笑むと、フランツは眉を寄せてなにか言いたげに口を開きかけ、思い直したようにまた口を閉じた。
***
ジャネットは大きな鏡の前に立ち、最後の確認をしていた。
前から、後ろから、横から鏡を見つめ、おかしなところがないかを入念にチェックする。体の向きを変えるたびに濃紺のシルクドレスの裾は軽やかに揺れた。
流行のスカラップ模様を彩るのは白い絹糸。紺と白で対照的な色合いが、大人っぽいドレスをジャネットの十八歳という年相応にフェミニンに見せていた。
胸元に飾られたフリルはこの半年でだいぶ豊かになった胸を、より魅力的に引き立てていた。アマンディーヌのスーパーレッスンにより腰の細さは殆ど変わらずに保っている。それに姿勢がよくなり、久しぶりにコルセットを付けてしっかりとしたドレスを着るとスタイルがずいぶんとよくなったように見えた。
「とてもお似合いですよ、ジャネット様」
着付けを手伝ってくれたシルティ王女付きの侍女達が口々にジャネットに賛辞を送る。ジャネットは侍女を見返してはにかんだ。侍女達も自分達の出来に満足げに微笑みを浮かべる。
「まぁ、まぁ、まぁ!」
部屋の入り口から感激したような声が上がる。目を向ければ、一足先に準備を終えたシルティ王女がこちらを見つめて目を輝かせていた。
「ジャネット様、とても素敵ですわ!」
まるで自分のことのように目を輝かせて大喜びをするシルティ王女は、自身の着ている水色の可愛らしいドレスの裾を持ち上げるとジャネットの元に駆け寄った。シルティ王女が動くのに合わせてドレスに付けられた花飾りもそよ風にあたる野花のように軽やかに揺れる。
「さすがはアランお兄様ですわ。ジャネット様に似合うドレスをよくご存じだわ」
「変じゃないかしら?」
ジャネットは紺色のドレスのスカートをちょこんと摘まんで見せた。シルティ王女はとんでもないといった様子で目を丸くする。
「とってもお似合いです! きっと、会場の皆様がジャネット様の美しさに釘付けだわ」
「まあ、シルティ様ったら」
ジャネットは口元を扇で覆い、クスクスと笑った。
さすがに『会場の皆の視線を釘付にする』は言い過ぎだ。けれど、今日はアマンディーヌが気合を入れてジャネットのお化粧をしてくれた。以前の凹凸の無い地味なジャネットはどこにもおらず、パッと見は落ち着いた気品に溢れる淑女が出来上がっていた。
アマンディーヌに薦められたカメリアオイルを使って毎日欠かさずに手入れをしてきた癖毛は以前に比べてしっとりとして落ち着いた。アマンディーヌは敢えてその癖毛をすべてしっかりと纏め上げずに一部を垂らしたまま残した。緩やかにウェーブのかかる薄茶色の髪が紺色のドレスに少しだけかかる様は、夜空に浮かぶ星の道のように見える。
そして、今日のエスコート役のアランがジャネットのために選んでくれたドレスが思った以上に自分に似合っていることに、ジャネット自身が一番驚いた。今までは無難な黄色やクリーム色を着るのが多く、こんな大人びた色は着たことがなかったのだ。
部屋をトントンとノックする音がした。
シルティ王女の「どうぞ」という音に合わせてドアが開く。最初にシルティ王女のエスコート役のエリック王子が姿を現し、そのすぐ後ろからアランが顔をのぞかせた。扉の隙間からこちらを見つめる視線がジャネットの視線と絡まると、新緑の瞳が優しく細められる。
「準備はいい?」
「はい」
「では、お手をどうぞ。レディ」
アランがスッとジャネットの前に片手を差し出した。ジャネットはその手にそっと自分の手を重ねる。手を握られたままアランは真剣な顔でジャネットの顔を覗き込んだ。
「いいかい? 君はこの半年間、とても頑張った。今日の君は誰よりも美しい。自信を持って、笑っているんだ。ダグラス殿に今の君を見せてやろうじゃないか」
「はい、頑張ります」
ジャネットは美しく紅の引かれた口の端を持ち上げて、しっかりと頷いた。




