36話
予定より早くエル=ネリウス辺境領に到着してすぐに出くわした海獣を追い払い、現場を片付けて城に入ったカリンは、王子の好意で客間の一室を借り受けていた。第四王子はカリンの協力者なのである。
暖炉で温まった部屋に、辺境領の特産だというお茶。そして正面のソファには、大変気まずそうに座るロベルトがいる。
「髪、短いままなんですね」
三年振りだった。それだけ経てば元と同じくらいの長さに戻りそうなものだが、目の前のロベルトは最後に見た短い髪のままだ。
「君は……ずいぶん伸びた」
「貴族になるなら髪は長いほうが無難だと、アニエスさんから教えてもらったんです」
今のカリンは平民ではなく、男爵位を得た女貴族だ。
この三年、カリンは防御壁の形状や強度を研究し、活用方法を爆発的に増やした。海に落ちようとするロベルトを柔らかく包み込んだものも元を辿れば防御壁魔法であるし、糸や布のようにすることもできる。
もはや防御壁は、防御する為だけのものではなくなっている。
更に、媒体がなくても魔法を使えるようにするための研究と訓練も行った。こちらはまだ目立った成果は出ておらず、杖や剣を手放すには至らないが、最近は暴走させずに魔力を練ることができるようになってきた。
魔法士にとってみれば、この一歩はかなり大きい。
それだけではなく、ロベルトとの訓練を足がかりに剣士との連携を推し進め、それが実戦で想定以上の成果を出した為、新しく『連携の第十三番研究室』を立ち上げるに至った。
第十三研究室は、戦闘時間と死傷者を減らした。その実績が国王の目に止まり、初代室長のラビと共に、副室長のカリンも男爵位を叙爵されることとなったのだ。
「爵位授与、おめでとう」
「そちらこそおめでとうございます。グラン男爵」
ロベルトも辺境への異動に合わせて爵位を得ていた。エル=ネリウス領に来ることにはなったが、望み通り親の名は捨て、ロベルト・グランを名乗っている。
「さて」
かつて王都で青薔薇の騎士と呼ばれていた美しい男は、顔に似合わず一切の容赦なく魔物を切り捨てる。加えて己にも味方にも厳しいことで有名だったが、そんなロベルトは今、カリンを目の前に慄いていた。
「好きだ愛してる結婚してくれ、と散々言っておきながらあんな消え方したんです。覚悟はできてますよね……歯、食いしばってください?」
と、右手に強化魔法と硬化魔法をかけながらカリンが言ったからだ。
もう一度ロベルトに会う。この日のためにカリンは、三年もの月日をかけてきた。
*
カリンに会えて嬉しい。そう思う資格などなかったと、ロベルトは改めて思い直した。
そして覚悟を決め、目を伏せて歯を食いしばった。
強い力で胸ぐらを掴まれる。殴られるのか叩かれるのかと構えていたが、しかしいつまで待っても何もない。
恐る恐る目を開けてみると、ロベルトの服を引っ張ったまま顔を赤く染めているカリンが目に飛び込んで来た。
「……わ、わたしは……」
「カリン?」
「わたしは、髪を伸ばしました」
真っ赤な顔で胸ぐらを掴むカリンは、脈絡のない話をし始めた。
「伸ばしっぱなしだと痛むので、定期的に毛先を揃えて、香油での手入れもしっかりしました。研究で夜遅くなることもあったけど、肌とか、体型とか気をつけて、化粧も練習しました。ルブにまた会いたかったからです。身分とか見た目を気にしないで、堂々と会いに来たかった」
ロベルトはほんの少し頷くこともできず、ただ黙ってカリンの言葉を聞いていた。
(私はあの時溺れ死んで、女神の慈悲により最後の夢を見ているのか)
そうでなければおかしい。
カリンはロベルトのことが好きではなかった。事件のせいで一時の気の迷いはあったようだが、三年も時間が経てば目も覚めているはずだ。
それに何より、他でもないロベルトがあえてカリンを傷つけるようなことをしたのだから、憎まれこそすれ、また会いたいなど思われるはずがない。
しかし、もしそうだとしても。三年も経って、王都から遠く離れた辺境にまで来るだろうか。
「……どうしたら信じてもらえますか? 今もあの時も、わたしはずっとルブのことが好きです。ルブに会いたくてここまで来た……だから、何か言ってください……」
何を言ったらいいのだろう。感情が渦巻いて、身動きが取れないというのに。
「……もしかして、既にこちらで恋び」
「そんなのいない!」
思わず前のめりになって答えた。混乱して何も言葉にならなかったというのに、こればかりは誤解されたくなかった。
「カリン以外、恋人なんていらない」
「なら、わたしをルブの恋人にしてくれますか?」
「……私はとっくに、君だけのものだ」
胸ぐらを掴んでいた手から力が抜けたのを見て、ロベルトはその手をすくい取った。嫌がることも、逃げることもない。
夢にまで見ていたことだ。しかし布越しに伝わる体温が、これが夢ではないと教えた。
そして目に入る、手首に巻かれた青い紐。
なくしたと思っていた飾り紐の半分をカリンが持っていたのかと、あまりの愛おしさに堪らず強く抱きしめて、すぐに慌てて身体を離した。
想いが通じ合ったと思っていいのだろうが、ロベルトにとってカリンは不可侵の女神に近しい存在だ。おいそれと触っていいものではない。
しかし離れていくロベルトを引き止めるように、カリンの指先がロベルトの手に触れた。相変わらず真っ赤な顔のカリンが、一拍置いて意を決したような顔で口を開く。
「わたし、ルブと一緒に夜空の星を眺めたくてここまで来たんです……いかがですか?」
――今夜、君と共に空の星を眺めたいんだ……どうかな?
かつてのロベルトが言った台詞をなぞるカリンの声も、熱を持つ指先も震えている。愛しい人は生身の人間だと思い知って、とうとうロベルトは表情を緩めた。
「喜んで。好きだ。愛してるよ、カリン」
わたしも、と答えるカリンの声はロベルトに抱きしめられて、小さくくぐもって消えていった。




