35話
「ストウナー男爵ですか」
エル=ネリウス辺境伯の執務室に呼び出されたロベルトは、その名を聞いて僅かに首をかしげた。
三年前までエル=ネリウス辺境伯こと第四王子とともに王都の貴族社会で生きていたが、辺境の地を駆け回るようになった今ではすっかり貴族情報に疎い。
「知らないのも無理はない! 功績が認められて、つい最近叙爵された者なのだ!」
「では、がっかりしなくて済みそうですね」
腐敗気味だった前任のやり方を変えるため、王子が就任して以来、人員の入れ替えを進めてきた。そのために、今のエル=ネリウス領はやや人が足りていない。
ただでさえ魔物が多い辺境の地だが、人員整理に重なって、ここ半年ほどで爆発的にその数が増えた。魔物を対処するための人員を補うため、王宮から応援部隊が派遣されることとなった。
それを率いるのがストウナー男爵だ。
功績があって爵位を得た人物ならば、隊長とは名ばかりの張りぼてではあるまい。期待するわけではなくとも、落胆することもなさそうだとロベルトは皮肉げに笑った。
「まぁそう言うな! 魔法士の塔で十三番目の研究室立ち上げに助力した一人だ! あそこは設立以来、長いこと十二までしかなかったからな! なかなかすごいことだぞ! 会えばお前もきっと驚く!」
「それはそれは……」
魔法士の塔と聞いて、一人の魔法士の姿を思い描いた。柔らかそうな深緑の髪に、落ち着いた光を湛える金の瞳。ロベルトが恋をした、最初で、そして最後の女性だった。
三年前のあの日。エル=ネリウス家とは何の関係もないカリンを巻き込み、怪我までさせてしまったことを悔いていた。ロベルトを助けようとしなければ殴られることも、自分自身も巻き込む魔力暴走を起こすこともなく済んだはずだ。
ロベルトを助けようとしなければ。そもそも、ロベルトがカリンを好きになることさえなければ、彼女があのような形で利用されることもなかった。
それなのにカリンは、自身がロベルトを怪我させてしまったと気に病んだのか、もしくは吊り橋効果でもあったのか、ロベルトのことが好きだと言ったのだ。ロベルトが辺境へ行くことを悲しみ、ロベルトの取る冷たい態度に傷ついていた。
嬉しさと同時に、どうしようもない虚しさが体中を駆け巡ったことを、よく覚えている。
「殿下。ロベルト。港に海獣が数十体。陸に上がる個体もいるようです」
ノックもそこそこにレイモンドがやって来て、魔物の襲来を伝えた。
激増した魔物と人手不足のせいで、領主とその護衛が現場に出ることも珍しくはなかった。もっとも、先陣きって民や街を守る新領主は領民に大人気である。
「もう二、三日すれば応援が来ていたというのにな! 仕方ない、行くぞ!」
「疲れを見せないお姿はさすがですよ」
愛用の剣を持って現場に向かう王子に、レイモンドと並びロベルトも付き従う。
手首に巻いた青い飾り紐を、袖の上からそっと押さえた。この動作は、もうすっかり癖になっている。どうしても伸ばす気になれない短い髪にも慣れた。
カリンを突き放しておきながら、これほど未練が残っている。
王都に残ればカリンへの想いを断ち切れない。帰りたくなどなかったエル=ネリウス領だが、カリンと物理的に距離を置けるのならば、願ってもなかった。
カリンが好きだ。今でも愛おしい。だからこそ、責任感からロベルトの気持ちに応えようとされても、お互い辛いだけだ。どちらも幸せになれないのなら、ロベルトはカリンの幸せを願う。
*
今まで忘れたことなどなかった。しかし妙にカリンのことを考えてしまうのは、ロベルトがこの日、死ぬ定めにあったからなのだろうか。
海獣に高く投げ飛ばされ、海に落ちようとしながら、呆然とそんなことを考えていた。
ずいぶん前に毒巨鳥と戦ったことを思い出す。あの時も同じように投げ飛ばされたが、カリンが心配してくれたので大怪我も存外悪くなかった。
今回はただでは済まないだろう。この高さから海面に叩きつけられたら骨折くらいはするだろうし、重い装備で海底に引きずり込まれる。
海獣が泳ぐ冷たい水の中、死ぬ前に装備を取り外して空気を吸いに上がれるだろうか。運良く上がれたとしても、寒い季節にずぶ濡れで丸腰ともなれば長くは持ちそうにない。
(殿下、最後までお供できず申し訳ありません。後を頼んだ、レイモンド)
陸に上がった海獣をレイモンドが切り捨て、逃げ遅れた子供を王子が避難させている。あの子供を守ろうとして、ロベルトは投げ飛ばされたのだ。子供が母親に抱きしめられたのを見届けて、目を閉じた。
しかし。
「……?」
浮遊感はなくなったのに、いつまで経っても身体が海面に叩きつけられない。不思議に思って目を開けると、ロベルトは柔らかく薄い膜のようなものに包まれていた。
海に付くかつかないかのところで静止しているそれに驚きながらも、落とさずに済んだ剣を握り締める。体勢が整うのを見計らったかのように、よく通る声が端的な指示を飛ばしてきた。
「ルブ、頭部まで飛んでください。二時の方向、七段出します!」
レイモンドが切り捨てた中型の海獣の後ろで、大型の一体が長い首をもたげている。七段あれば、あれの首を切り落とすことができるだろう。
懐かしく思う間もなく小さな足場を駆け上がる。剣を振り下ろす瞬間に刀身の重量が増し、その勢いを借りて難なく鎌首を落とした。
地面に降り立ち、信じられない思いで周辺を見渡す。
「……カリン?」
散々微調整と実践を繰り返した足場。瞬間的な重量操作。ルブと呼ぶあの声。
遠い辺境の地でその声を聞くことなどないはずだ。彼女の声を聞ける日など、二度と来ないはずだった。
後ろを見ると、小型の海獣をなぎ飛ばしている人物がいた。細身の剣に似合わない威力は、身体強化と重量操作を駆使してのものだろう。
それを得意とする魔法士は、深緑の髪に金の瞳を持つ。振り向くその姿が太陽の光に縁取られ――あの日のロベルトも、こうして目を奪われたのだ。
こちらの無事を確かめるように振り向き、僅かに目を細めて微笑む魔法士が言った。
「王都から派遣されてきました。今回の編成隊を預かります、カリン・ストウナーです」




