33話
第四王子がエル=ネリウス辺境領へ行く。護衛のレイモンドとロベルトを伴って、あと十日もしないうちに出立するらしい。
その噂を耳にした瞬間、何を考えるより先にカリンは走り出していた。
「おいカリン! どこ行くんだ!」
カリンは上司であるラビの研究を手伝って、山と積まれた資料の整理をしていた。資料に埋もれるラビを訪ねてやって来た同僚の魔法士が口にした噂話が、たまたまカリンの耳にも届いたのだった。
散らばる資料を集めながら怒鳴るラビに構う余裕はなかった。
(どうして?)
第四王子の執務室を訪ねたのは、ほんの数日前のことだったのに、もう出立日まで決まっている。ならばきっとあの日には既に、この話は決まっていたはずだ。
それなのに、ロベルトはカリンに何も言わなかった。カリンは今日、たまたま噂として耳にするまで何も知らなかった。
(だから、ただの噂ですよね、ルブ)
一時期は目立つのも厭わずしつこいほどに魔法士の塔までやって来て、それ以降も訓練まで日が空くなら一通くらいは手紙が来ていたのに、第四王子の執務室で会ってから顔を見ていない。何の音沙汰もない。
事後処理で忙しくなると言っていたが、思い返せばあの時すでに、どこか様子がおかしかった。
気のせいだと思っていた。しかしカリンは今、嫌な予感に突き動かされて足を動かしている。
「ルブ」
王子の住まう宮まで走り、呆れた門番に叱られていたところで、第四王子がロベルトを伴って出てきた。王子は一瞬バツの悪そうな顔をしたものの、カリンの無礼な訪問を咎めることもなく、発言を許した。
カリンは王子に深々と頭を下げてから、ロベルトに向き直った。
「噂を聞いたんです。辺境領へ行かれるなんて……ただの噂ですよね?」
「カリン、約束もなく殿下を訪ねては駄目だ」
無礼を許した王子に代わり、ロベルトがやんわりとカリンを咎める。
短くなっても艶があって綺麗な金髪に、余裕の微笑みを浮かべながら。どこか作りものめいたその笑顔に、カリンは息苦しさを感じた。
「……本当なんですか?」
「……」
何も言わないロベルトの代りに、王子が答える。
「本当だ! ロベルトの父親に変わり、今後は俺が辺境を治めることに決まったのだ!」
「そうなの……ですか……」
「うむ! 兄上たちが優秀であるゆえ、王都での俺の役目もほとんどなかったからな! 辺境に行くには適任だったということだ!」
今度はロベルトがバツの悪そうな顔をした。ほんの一瞬のそれを、カリンは見逃さなかった。
「……どうして今まで教えてくれなかったんですか?」
わざとだ。ロベルトも、王子も、意図的にカリンに伝えなかったのだ。
「今まで訓練に付き合ってくれてありがとう。どうか元気で」
「……」
ロベルトは理由を言わない。話をそらした挙げ句、カリンとまともに目も合わせないまま、別れを告げた。
王子の執務室の扉はここにないのに、あの日以上の壁があるような、とてつもなく深い溝があるような、そんな気がした。
「殿下、そろそろ中に戻りませんと」
カリンは胸を押さえた。胸が痛い。呼吸が苦しい。
嫌われてしまったのだろうか。だとしても、その理由が分からない。
カリンはようやくこの気持ちと向き合い、答えを出したと言うのに。もう、手遅れだったのだろうか。
「それじゃあカリン、魔法士の塔まで気をつけて戻って。送れなくてごめん」
「……って」
ロベルトがカリンに背を向ける。
行かないでほしいのに、上手く声が出なかった。もう一度口を開いた時、思った以上に大きな声が出た。
「待って!」
驚いた様子でロベルトが振り返る。カリン自身も驚きながら、勢いを得たまま続けた。
「わ、わたし、ルブが好きです」
震える声に、ロベルトが目を見張った。
「だから……だから……」
辺境領に行かないでほしいとは言えない。これは国の決定だ。
だからせめて、ロベルトから伝えてほしかった。何も言わず、黙っていなくなるようなことはしないでほしい。たった一言でも、短い手紙でもいいから教えてほしかった。今になって急に、理由も分からないまま突き放さないでほしかった。
指先は冷え切っているのに、頬が熱くて顔を上げられない。うつむいた視線の先でロベルトのつま先がこちらを向く、そのことにほっと小さく息を吐いた。
しかし、続いたロベルトの言葉に、カリンは青ざめた。
「……あの日のことで責任を感じる必要はないよ」
(責任、って……何……?)
何も言えないカリンに、ロベルトが続ける。
「私の怪我はもう治ったし、髪だってすぐ伸びる。君はただ巻き込まれただけで、何も悪くないんだから……思ってもないことを無理して言う必要はないんだ」
「何ですか、それ」
まさかロベルトにカリンの気持ちを否定されるとは、考えてもみなかった。無意識のうちに握っていた手に力が入る。
「せ、責任とか、怪我とか関係ないです。ルブが好きだってようやく分かったんです。ずっとよく分からなくて、気づくのが遅くなってごめんなさい、だから」
何を言っているのか自分でも分からなくなりながら、必死に言葉を重ねる。顔が熱くて、目の前もろくに見れない中、合間を縫うロベルトの声だけはよく聞こえた。
「……巻き込んでごめん」
埒が明かない。そう分かった瞬間、今度こそ頭が真っ白になった。
「違うってば!」
カリンが抵抗しなければ男に殴られることも、魔力を暴走させて自分まで巻き込まれることもなかっただろう。そして、ロベルトの長い髪が失われることも、気を失うほどの怪我を負うこともなかっただろう。
しかしカリンが抵抗しなければ、ロベルトが望まない結果になってしまうところだった。ロベルトが望まないことは、カリンも望まない。その理由にようやく気がついたのに、この想いが他の誰でもなく、ロベルトによって否定されている。
泣きたい気持ちで叫んだ。
「あの時、どうしてわたしが抵抗したと!? 何とも思っていないなら大人しくあなたを犠牲にしてました! そうしなかったのは、わたしが……っ!」
空気を求めて言葉を区切る。第四王子も門番も目を丸くしている中、ロベルトだけは冷静だった。
「……そんなことまで考えさせてしまって、すまなかった。もう君の前には現れない」
言い切ると、くるりと背を向け宮に向かう。第四王子の護衛として付き添って来ていたのに、王子は去っていくロベルトの背中と、泣きそうな顔のカリンを交互に見ていた。
ロベルトの姿が扉の向こうへ消えると同時に、カリンは崩れ落ちるように膝を突いた。
どこにも行ってほしくなかったのに、こんなことになってしまった。カリンの言葉を信じるどころか、まともに取り合ってすらくれなかった。
(ごめんなさい……ごめんなさい、ルブ)
立場が逆転してしまったかのようだった。
ロベルトもこんな気持ちだったのだろうか。何度も想いを言葉に乗せ、行動で示してきたのに、カリンがそれを受け取ることはなかった。その度にロベルトは傷ついていたのだろうか。
(わたしが鈍かったから。素直じゃなかったから)
だからもう、カリンも信じてもらえない。




