27話
ここのところ、カリンの雰囲気が変わった。
「何かいいことでもありました?」
「え? ……いつもと変わらないと思いますよ」
ジュードへの返事もどこかよそよそしい。備品の受け取りも上の空と言った様子で、ジュードは内心冷や汗を垂らしていた。
用意された備品の数を確認し、部屋を出て行こうとするカリンに思い切って声をかけた。なるべく、何とも思っていない風を装って。あくまで世間話のひとつとして。
「もしかして、噂の騎士殿とついに恋仲に?」
「……」
扉をくぐる直前だったカリンが、ピタリと足を止めた。ジュードだけではない、備品受け取りのために来ていた他の魔法士たちも、息を潜めて答えを待った。
「そ、そういうものではありませんから……!」
そう言い残して、カリンは走って出ていった。その横顔が赤く染まっていたのが、流れる髪の隙間から僅かに見えた。
(これはもうダメだ……)
残った魔法士たちが静かにざわめき始める中、ジュードは頭を抱えたい衝動を抑えていた。
あの反応ではもう、肯定しているのと変わらない。実際恋人同士になったのかどうかはともかく、カリンの気持ちがあの近衛騎士にあることはほぼ間違いないと思っていいではないか。
残っていた魔法士たちもこの話を広めるつもりなのか、いつの間にか消えている。誰もいなくなった部屋でジュードがのろのろと撤収の準備をしていると、ひとりの魔法士が部屋に入ってきた。
「あぁ、良かったわ。まだいたのね」
アニエス・フロストルだった。長い髪をなびかせながら颯爽と歩くその姿に腹が立ち、小さく舌打ちする。
「何をしに来たんですか?」
備品の受け取りは研究室でも一番の若手がする雑用だ。アニエスはカリンと同期だが、翌年の新人でカリンの第九研究室に配属された者はいない。だから未だにカリンは新人扱いで、新人が入ってきたアニエスは雑用から解放されている。
アニエスの所属する十二研究室の新人も、先程見かけた。だからジュードは、何の目的で来たのか分からないアニエスを憎々しげに見やった。
「ひどいじゃないですか。俺に協力してくれないどころか、まさかあちらの手助けをしたんじゃないでしょうね?」
彼女がジュードに協力していれば、カリンの心があの近衛騎士に行くことはなかったかもしれない。人の気持ちなど分からないものだが、だからこそ、アニエスに腹が立つ。
アニエスの満足げな顔は、失恋した人間のそれではない。何やら相手を小馬鹿にしたような笑みだ。
貴族連中は男も女も、そんな顔が得意だ。
「あなたこそひどい言いようじゃない。わたくしだって複雑じゃないこともないのよ。でも、あの二人がさっさとくっついてくれたほうがいいわ。収まるところに収まった、って感じがするから」
しかも、あちら側への協力については否定しなかった。
「それにわたくし、あなたなんかの思った通りにはならなくてよ。わたくしを使って外堀埋めようなんてなかなかいい度胸じゃない」
「外堀だなんて」
否定しようとして、止めた。その通りだったからだ。
カリンについては――この件については、なりふりなんて構っていられなかった。らしくもないことをしてカリンに近づいて、カリンの友人まで利用しようとしたのに、何もかもが無駄だったようだ。
「あなたももう諦めなさいよ。あなたにももっといい人がいるわよ」
アニエスは最後に一言言い残して、ジュードの返事を待たずに去った。
再びひとりになった部屋で、ジュードは立ちすくんだ。撤収の準備も進まない。
慣れない王都で、慣れない仕事をなんとかやってきたつもりだったが、もうこれが限界だ。
故郷の家族を思い出した。毎日毎日必死に働く母親。遊びたくても我慢して家事を手伝う弟たち。ジュードの王都行きを、ただ純粋に、心の底から喜んでいた。
そして、ジュードを王宮勤めとして推挙した、領主の顔も。
「あなたが協力してくれていたら、もっと穏便に済んだかもしれないのに……」
呟いた言葉は、もはやアニエスには届かない。ただの独り言だ。
アニエスが悪い訳ではないと分かっているのに、口にせずにはいられなかった。そんな自分が情けなくて、唇を噛んだ。
考える前に走り出した。
部屋を出たばかりのアニエスを追い越して、階段を駆け上がる。苦しい呼吸を無視して階段を登っているとようやく、備品を抱えてゆっくり階段を昇るカリンに追いついた。
「カリンさん!!」
「え、ジュードさん?」
カリンが足を止めたのを見て、ジュードも走るのを止めた。
視線を感じるが、どうしても声が出ない。文官なので運動はあまり得意でないのに、階段を駆け上がったせいで息が上がっていた。膝に手をついて、必死で呼吸を整える。
「大丈夫ですか? お水持って来ましょうか?」
「いえ、大丈夫です……すみません、急に」
少しだけ呼吸が落ち着いて、顔を上げた。戸惑いや心配が入り混じった表情を浮かべているカリンに、ジュードは言った。
「カリンさん。五日後に少しだけ時間をもらえませんか?」
「五日後、ですか」
「はい。大事な話があります。本当に、大事な話なんです。だから……お願いします」
しばらく迷うような素振りを見せたものの、カリンはジュードの言葉に頷いた。
詳しい時間と場所を示し合わせて、必ず来てほしいと念押ししてから、階段を下る。
長い階段を下って一階に戻ると、アニエスが待ち構えていた。走るジュードに追い越されてからずっとそうして待っていたようだ。
「往生際の悪い男は嫌われるわよ」
「これが最後ですから」
苦笑いで言い返せば、アニエスは肩をすくめて今度こそ立ち去った。
そう、これが最後だ。失敗はできない。だから無視するべきだ――この後ろめたいような、仄暗いような気持ちなど。




