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『また少し髪型が変わりましたね。この間のも良かったけど、今日のほうが好きかもしれません』
遠田さんからの少し堅苦しい返信を読むたび、私の胸にじんわりと温かいものがこみ上げてくる。
初めて自撮りというものを撮り、その画像を彼に送って以来、私はすっかり自撮りにハマってしまった。今では毎回少しずつメイクや髪型を変え、数日に一度は遠田さんに自撮りを送っている。褒められると楽しくなるし、気付いてもらえると嬉しい。単純なことなのだ。
自分なりに研究もした。メイクに関する知識や技術は元々持っていたが、それをより魅力的に見せるためには他にも様々な技術と努力が要るらしい。撮影する角度、照明、アプリを利用した画像の加工など、たった一枚の自撮りにも色んなテクニックが駆使されている。自撮り棒と呼ばれる、自撮りのためにスマートフォンを一定の距離で固定する道具も買ってみた。自分なりに色々試行錯誤しながら撮ったのが、遠田さんに送った最初の自撮り画像だった。
そして彼から届いた返事は、『とてもかわいい』。
かわいいなんて言われたのは何年ぶりだろう。最近は夫にすら全く言われなくなった言葉だ。
遠田さんにしては平凡な語彙だったのもむしろ嬉しかった。綺麗とか若いとかお世辞で言われることはあるが、言葉は飾れば飾るほど嘘に近くなるものだと私は思う。もちろん作品の中の表現として彼の巧みで豊富な語彙はとても好きだけれど、褒められるときはできるだけ素直で素朴な言葉がいい。小説で使われる語彙とのギャップも良かったのかもしれない。
嬉しくて嬉しくて、その夜は遠田さんからの返信を何度も読み返した。かわいく見せようと努力した甲斐があったと思った。
そこから、私はさらにどっぷりと自撮りにのめりこむことになったのだ。
夫の帰りは相変わらず遅い。このところさらに遅くなったような気がする。だから研究の時間はたくさんあった。早く帰ってきても、私の変化に気付くかどうかすら怪しいところだ。もし仮に気付いたとしても、せいぜい二、三秒目を留めるだけ、言葉なんてかけられないかもしれない。夫の態度は最近ずっとそんな感じだから。
最初の自撮りをする前、少しでも若く見えるよう髪の色を明るくしたことにも、気付いていたのかいないのか、夫は全く無反応だった。美和さんや幸絵ちゃんは一目で気付き、似合っていると褒めてくれたのに。
自撮りが趣味になってから、アカウントだけ作ってずっと放置していたInstagramで多くのフォロワーを獲得している女性のアカウントをフォローし、自撮りのテクニックやいわゆる『映え』についても自分なりに研究するようになった。
これは私の仕事にもかなり有益な情報だと思った。ファッションや髪型がそうであるように、メイクにもトレンドがある。特にSNS時代となった現在、身の回りの人間から不特定多数のフォロワーへと見られる対象が拡大したことによるトレンドの変化が起こってくるかもしれないと私は感じた。
しかし同時に、私にはそれがひどく言い訳じみているという自覚もあった。美容と実益のために行っていることならば、夫に隠れてする必要はどこにもない。それに、私はこの自撮りを夫や友人に見せたり、Instagramにアップしようとは思わなかった。もともと承認欲求は強くないし、写真もそれほど好きではないのだ。
見てほしいと思う対象は遠田さん一人だけだし、彼以外には誰にも見せていない。その事実が、私の行為の背徳性を示している。自覚があってもやめることはできなかった。
遠田さんは髪型の変化に毎回触れてくれた。メイクまではさすがに気付いていないようだったが、そこまで目ざといと女慣れしているみたいでむしろ嫌だったと思う。彼の程よく素朴な反応が私にとってはちょうどいい。
そういえば、付き合い始めた当時の夫もこんな風によく褒めてくれたな、と夫がまだ優しかった当時のことを懐かしく思い出す。何が彼を変えてしまったのだろうか。年月というたった一つの単語で片付けられてしまうものだとしたら、それはとても残酷なことだ。
早番の仕事を終えて帰宅した私は、軽めの夕食をとったあと、シャワーを浴びて自撮りのためにメイクをし直した。今日の髪型はどうしようかと鏡に向かって考える。
私は両手で髪を掴み左右に分けてみた。ツインテールには幼く見せる効果があるらしい。たしかに、こんなに幼い自分の顔を見るのは小学生か中学生の頃以来かもしれない。今でこそ年の割には若いと言われるけれど、子供の頃はどちらかといえば大人っぽいと言われることが多かったのだ。
それから私は掴んだ髪を少し上に持ち上げてみた。一口にツインテールと言っても、結ぶ場所で印象はかなり変わる。結う位置が高ければ高いほど幼く見えるようになるのだ。だから、ネットの記事などを見ても大人の女性には低い位置で結ぶよう勧めているものが多い。三十代の私がやるとしたら、できる限り低い位置で結ぶのが無難、というかそれ一択だろう。
ただ、私の自撮りにおいて優先したいのは自分をなるべく若く見せること。できれば遠田さんよりも年下に思われたい。二十代前半か十代後半――いや十代はさすがに無理だとしても、二十歳ぐらいに見えるように撮るのが理想。そうかといって、例えばももちぐらいの高さにしてしまうとさすがにやりすぎの感が否めない。カメラの角度なども一応考慮に入れる必要がありそうだ。どれぐらいがいいだろう……。
化粧台の鏡の前で悩んでいると、玄関の方から物音がした。鍵が開けられ、扉が開いて、こちらへ足音が近づいてくる。夫が帰ってきてしまったのだ。
今日に限って何故こんなに早く……? 私は鏡の前で慌てふためいた。家でもメイクをしていることを怪しまれないだろうか。それも仕事とは明らかに違う雰囲気のメイクを。しかし悩んでいる暇はない。私は急いでライトや自撮り棒を隠し、玄関に出て夫を出迎えた。
「お、おかえりなさい……今日は早かったね」
「ああ」
メイクに気付かれないよう俯き加減で迎えたが、それで却って怪しまれてしまったのか、夫は珍しく私の顔に目を留めた。
「……なんだ、お前、なんかいつもと雰囲気違うな」
なんでこんなときに限って私に興味を示すのか……私はさらに夫から少し顔を背けながら答えた。
「……え? そう? 気のせいじゃない?」
「いや、違うだろ。化粧落としてないし」
落としていないわけではなくメイクをし直しているのだが、朝ろくに私の顔を見ていない夫が気付くはずもない。
「……な、なんか今日はちょっと疲れちゃって」
「ん? ……でもシャワー浴びてんだろ、髪もまだ生乾きだし、シャンプーの匂いがする」
しまった。
そう思ったときには既に、夫は私の顎をぐいと掴んで、睨むような目つきでまじまじと私の顔を見つめていた。その少し血走った眼に、思わず恐怖で足が竦みそうだった。身だしなみには気を遣い、清潔感があって、人前では笑顔を絶やさない温和な夫だが、家で機嫌が悪いときの表情はまるで別人だ。
「……ど、どうしたの? 今日何かあった?」
しかし彼はそれには答えず、強引に唇を重ねてきた。夫の長い舌が、こじ開けるように私の口の中に侵入してくる。
「……んっ……やめてっ!」
「うわっ!」
私は反射的に夫の体を突き飛ばしてしまった。それはまったく無意識の行動だったが、私が夫を拒んだのはこれが初めてのことであると、廊下に転がった夫の驚愕の表情を見て気が付いた。
はっと我に返った私は、おそるおそる夫に近付きながら声をかける。
「ご、ごめん……大丈夫?」
夫は無言で立ち上がり、骨が折れるかと思うほど強く私の手首を掴んだ。
「痛っ……」
私はそのまま引きずられるように寝室へ連れ込まれた。そこから先の時間は苦痛でしかなかった。
そう、苦痛。
夫に抱かれることを苦痛に感じ始めていると、私はこの時初めて自覚した。




